『辺境のフォークロア ポスト・コロニアル時代の自然の思考』を読んで感想書く

ロシアの映画監督アレクサンドル・ソクーロフからハナシが始まる。
何故ソクーロフかとゆーと、奄美大島の隣の加計呂麻島でソクーロフが『ドルチェ -優しく-』(1999)とゆー映画を撮った。
コレ友達に見せてもらったコトがあるが、カメラが歪み、たゆたい、なんだか全てが不明瞭で不定形。よってなにがなんだか分からん映像ポエム(いつものソクーロフ)
なんのハナシだったのかこの本で判明。『死の棘』の作家・島尾敏雄(折りしも『死の棘』を映画化した小栗康平監督の新作『FOUJITA』が公開中)の妻で、コチラも作家である島尾ミホのハナシだった。

ロシアの監督がナゼか加計呂麻島と島尾ミホのハナシを撮る。よくあるオリエンタリズムかとゆーと、この本は違うと言う(実際そのように撮られてない)
ソクーロフには島嶼的な感覚があるから、とか言う。島嶼的、というと既に字が難しくなんじゃらほいであるが、上と下、中心と周縁、エライ人とエラくない人から成るよーな秩序だってるの、そーゆーの大陸的だとすると、上と下も中心も周縁もエライ人もエラくない人もないでアッチとコッチが自在に繋がっちゃうのよーなの、それが島嶼的、らしい。

地図に線を引いて領土を切り分けるのが大陸的。線を引かないで固定された領土を持たないのが島嶼的。
文字で言葉を固定するのが大陸的。文字を持たずに声を漂わせるのが島嶼的。
『ドルチェ -優しく-』でも、島尾ミホの、それからソクーロフ自身の「語り」が多くを占めていた。

ところで「島嶼的」は本に出てくるが、「大陸的」の文字は本に出てこない。注意。
島嶼の対立概念が出てこないあたり、書いた人の意図があるように思う。
ソクーロフを最初に持ち出したのは、ユーラシア大陸の人の中に島嶼的感覚を見るコトで内と外の二項対立の構造をズラし、「大陸」を内側から崩してしまおうとゆーコトなんじゃなかろか。

昔の海の向こうの人々が想像した空想日本地図がこの本には出てくる。
空想っつっても当時の尺度じゃ充分学術的だったが、今の尺度で見ると空想である。
なんせサハリンが北海道と繋がってる。日本はユーラシア大陸であった!
「大陸」とはそのように想像された、文字で登記された、作られた概念に過ぎないのだった。

http://d.hatena.ne.jp
http://d.hatena.ne.jp 『死の棘』(1999)の小栗康平も越境に興味ありそな人。

ソクーロフが加計呂麻島で撮った映画のハナシの次は、一気に時代を遡り、ずっと北上して流刑となってサハリンに送られたロシアの民俗学者のハナシになる。
そっからまた飛んでって、アイヌ、東北のオシラマサ信仰、イタコ、柳田國男…時空を行ったり来たりしながら、徐々に下ってやがて南洋諸島に辿り着く。
読み進めていくと、大陸と地続きになった空想上の日本の姿が浮かび上がってくる。
このあたり感動しちゃったが、しかし点と点を繋いでいくような展開、とゆーのはたぶん正しくなく、点と点が繋がったかと思えばどんどん線を切って、ハナシをズラしてくような展開なんであった。

映像作家、彫刻家、作家、官僚、革命家…と国も人種も時代も職業も、いやまったく何の共通項も無い人々が「島嶼」で繋がっては離れてく。
点と点が結びつくのはとても快感なので、本の狙いとは反対に合理性だとか、大陸的な文明だとか、そんなのがオレはいかに好きなんだろう、いかに離れるのは難しいんだろうと思ってまうが、そんなコトとは無関係に、どんどんこの本は線を切ってく。

柳田國男は官僚だった。東北の実地調査を通じて、この人は民俗学と「島嶼」に目覚める。
名前忘れたが、本の最後の方に出てくる南洋を調査した軍のエライ人も、やはり晩年民俗学と「島嶼」に。
そしてソクーロフはソ連当局から活動を制限された受難の人なのだった。

こーゆーのもやはり「大陸」の内側からの解体を目論んでるようにも読めつつ、一方で「島嶼」は「大陸」によって見出されたとゆー視点もある。
それまでの論をひっくり返して、別の論に接続する。アンチ「大陸」=「国家」みたいな割り切れる感じの本でない。
後半に至って、この本はやもすれば無垢な自然と同一視されがちな島嶼民の、遊牧民の、狩猟民の社会を、固有の合理性と強固な構造にがんじ搦めにされた共同体として捉えなおす。
線を切る。梯子を外す。別の線に繋ぐの連続。

そもそも自然に楽園を見るのが安っぽいオリエンタリズムなんであって、自然の精密なメカニズムに自由や解放のビジョンを差し挟む余地なんてないんじゃなかろか。
副題に「ポスト・コロニアル時代の自然の思考」とある。
ポスト・コロニアルという概念自体が越境的なもんらしく、なにか言葉一つで説明できないらしいが、言葉一つで説明できる、一つに接続して固定するとゆーのがそもそもコロニアル(植民地)な、帝国的な、大陸的な考え方なんだろな。

一つの意味に回収され得ない多形的な、ナマの自然(と、自然と密接に結びついた生活を送る人々)の姿を叩きつけるコトで「大陸」に再考を促し、そして「大陸」の内部自体に「島嶼」を見出させてしまおう。
ポスト・コロニアルの時代。もはや全体が一つの概念や目的に統一され得ない「大きな物語」を失った今の時代、「島嶼」の人々の生き方考え方を見てみるコトで我々が得るもんは大きいんじゃないすかという、なんかそんな感じの本なんであった。

ソクーロフだって『モレク神』(1999)、『牡牛座 レーニンの肖像』(2001)、『太陽』(2005)で独裁者(とされる人たち)のナマっぽい姿を描いたりして、固定された独裁者のイメージを覆してきた人なんだし。

http://www.cinematographe.it
http://www.cinematographe.it ココで唐突に『ラスト・カニバル 怪奇!魔境の裸族』(1973)! 関係ないだろ! …と思われるかもしれませんが、この本で描かれる「自然の思考」はコレ観ればよく分かります。英語題は『Man From Deep River』といい、文中でよく言及される「海の向こうから来る人」のイメージと同種のもんなのだ。

ソクーロフから始まるこの本、書いた人、自身も映像作家でもある金子遊さん。
映像作家でもあるが、民俗学者でもあり、批評家でもある。なんでもやる人。
最初の方に哲学者のジル・ドゥルーズの名前が出てくる。脱領土化みたいな用語の使い方からすると、哲学とかフランス現代思想畑の人っぽい。
とにかくなんでも興味があるらしい。島嶼的、とは動的で越境的な、遊牧と接する概念らしいが、この人自身が体現。なるほど。

手を変え品を変え、次々に論をひっくり返してあたり、スリリング。
現代思想畑の人にしては言葉遣いが優しい(「優しく」だ)。
分かりやすいし、読んでて楽しい。

ところで最後まで本のジャンルを書いてない。
思想書なのか、ルポなのか、伝記なのか、評論なのか、小説なのか。
あんまりジャンル分けしてもしょうがなさそうな本なので、まぁなんとなく読んだら面白いんじゃないすか。
図書館でタイトルと表紙だけ見て借りたが、冒頭がらオレが好きなソクーロフ。
その偶然の出会いが本の内容と合ってる気がして、ちょっと面白かったな。

(文・さわだきんたま)

【ママー!これ買ってー!】


辺境のフォークロア; ポスト・コロニアル時代の自然の思考

それにしてもコレ意外と最近の本で、2015年1月初版。
本文では触れてないが、最近の各国の状況を鑑みると「単一民族国家なんて、幻想だからね」と言外に言ってるように思えるぞ。
そーゆー意味じゃ今読んでみるのはとっても大事な感じの本だったりすんのだ。

↓その他のヤツ

ドルチェ-優しく [DVD]
ラスト・カニバル怪奇!魔境の裸族 [DVD] NLD-016
野生の思考
アンチ・オイディプス

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