まさかの猫耳映画『ディーパンの闘い』の感想書くにゃーん

『ディーパンの闘い』とゆータイトルだけ聞くと史劇みたいの想像してまうんで、はてディーパン、どこの地名だろうと思ったら主人公のオッサンの名前(偽名)がディーパンであった。するとなんかこう、映画祭上映の際の仮題みたいな直訳調の素っ気無いタイトルだな随分と。
ジャック・オーディアールの映画。史劇じゃなくて現代劇。内戦下のスリランカを逃れて偽装難民(ホットなワード)としてフランスにやってきた元兵士のディーパンさんとその偽家族がキツイ底辺暮らしをしながらなんとか幸せになろうとするサバイバル日常映画。

しかしオーディアールの映画いつも同じだなと思う。なんか社会の底辺の男女がいて、いや俺たち私たちこのままじゃ終われねぇよと。んで足掻いて足掻いてなんとか光を目指そうとするんだけど、ギャングだなんだ色んなのが立ちはだかって挫折しそうになると。挫折しそうになるんだけど、でも最終的には光が見えると。なんかそーゆーの乾いたタッチでやる。
基本的には誰も助けてくれない。底辺の男女が、とゆーがこいつらコトあるごとに対立してばかりで愛とかそんなんありゃしない。テメェが少しでもマシな生活するためにお互いに利用してるだけ。利害関係以外の人間関係が少なくとも絶対に前には出てこない。そーゆーのがオーディアール映画のイメージ。

この映画とゆーのも結局そのパターンなぞってるだけじゃんと言われればそらまぁその通りなのかもしんないが、でも面白いんだから仕方がない。
俺ん中では無糖の『ロッキー』(1976)みたいな映画だなこれは。所詮チャンプになんかなれないがそれでも俺は闘うんだよとそんな感じのクールに見えて激アツの映画だったのだ。

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ところで大いに意表を突かれたのがピカピカ発光する猫耳の存在だったりした。
映画はディーパンたち偽装家族がブローカーの手を借りてフランスに亡命しようとするトコから始まる。例によって素っ気無いスタイルで、いちいち内戦の様子やらなんかやかを見せたりしない。幕が開けると死体の山。その前で立ち尽くすディーパン。難民キャンプ(?)で子供を探す女。「あんた親はいる?」「死んだ」「ちょっと来て」。女は難民としてフランスに入国すべくある死んだ家族になりすまそうとしており、その家族には女の子もいたんでちょうどいい孤児を探してたのだったが、たったこんだけで状況とキャラクターをササっと説明。
さて脱出のための船が来た。乗った。どうなる。…ときて、画面暗転。真っ暗な中、画面の奥でなにか赤と青のライトみたいのが朧に光ってる。パトカーだろか。ライトはどんどんと手前に進んできて、やがて明らかになるには、その正体はパトカーではなく赤とか青に発光するピカピカ猫耳のオモチャで、それを頭に付けたディーパンら難民が暗闇を歩いているとゆーのがこの場面だったんである。

オーディアール映画にして猫耳とな。それも偽装難民の映画で。しかも頭に付けてるし。なんだこりゃと思ったが、首尾よく(だったかどうかはしかし映画では描かれず、フランスへの旅路は苦難に満ちた危険なものだったかもしんないんである)フランスに入ったはいいが難民申請を通ってないため職に就けず、ディーパンは路上で警察と追っかけっこしながらピカピカ猫耳みたいなチープなオモチャを観光客かなんか相手に売りつけてたのだった。なるほど。
事情が分かればなんでもないが、暗闇から現れたのはピカピカ猫耳つけた難民スリランカ人! とゆーシュールな画はなんかショッキング。この映画のベストショットだと無理にでも断言したい。少なくともコレ観た段階で絶対ケッ作じゃんと俺は確信したね。まだタイトルも出てないのに。

しかしピカピカ猫耳(ちなみにコレは後にも意外なトコで出てくる)のみならず唐突でシュールなイメージがときたま出てくる映画なんである。底辺社会の現実をドライに綴ったリアリズムの映画かと思えば急に密林を闊歩する象さんの画が割り込んでくる。スリランカだから象さん。ディーパンの心象風景(ダジャレではない)。
こーゆー意外性と詩的イメージへの傾倒がなんか最近のオーディアールらしく、ム所にブチこまれたアラブ系の青年が刑務所内底辺暮らしを余儀なくされつつも刑務所内上流社会を目指す『預言者』(2009)には主人公の心象としての亡霊が現れてクルクル踊ったりする。
そういえば『預言者』には鹿かなんかが出てきてそれが映画のターニングポイントになったりしてんであるが、その後に撮った『君と歩く世界』(2012)はシャチの飼育員がシャチに襲われて半身不随になったりする映画なのだった。

たぶん『預言者』あたりからなのだが『リード・マイ・リップス』(2001)みたいな映画で底辺社会の現実ばかり冷徹に映し出してきたオーディアールの目はどうも動物・外国人・亡霊みたいな普通の人が知らず知らずのウチに社会の外部に置いてしまっているモノを映すようになったらしいのだ(最初からそうだったかもしんないが)
ピカピカ猫耳スリランカ人みたいな画は最近のオーディアールのシュルレアリスム・越境志向の表れに思え、えらくバカバカしいのになにか脳みそをぶん殴られる感あるような気がすんである。

ストーリーの続きをちょっと書くと、家族を偽装してなんとか難民申請を通ったディーパンらは郊外のスラム団地へ。ディーパンはそこで管理人の仕事に就き偽妻は自閉症かなんかの団地住民のおじさんの介護の仕事を、偽子供はフランス語を習得して偽一家の暮らしを楽にするために学校に通う。
この団地が面白い。麻薬ギャング、とゆーかチンピラが取り仕切っており、屋上にはいつも見張りのチンピラが何人か立ってんのが見える。ディーパンにとってはさながら刑務所の監視塔。

監獄映画だった『預言者』が思い出されるが、監獄とは何かとゆーと底辺暮らしを余儀なくさせられている人々にとってのフランスなんであった。偽子供が通う学校でカメラは柵や塀ばかりを撮る。フランス語が拙いゆえイジメられている偽子供は校庭の柵に寄りかかって楽しそうに遊ぶ他の子供たちを見つめる。淡々と感情を押し殺して管理人としての仕事をこなすディーパンは夜になるとふと自室から窓の外を眺めてみる。飲めや歌えやの団地ギャング(こう書くとダサい)のバカ騒ぎが窓越しに見える。
アウトサイダーの目を通して見たときにその目に映る全ての光景は監獄と化す。だいたい団地ギャングは団地ギャングで自分たちが囚われの身であることに自覚的だから悪さをしてんのだった。

そこが面白いとこな気がするが、これはフランス社会に馴染めば楽しい暮らしが待ってますよ的な甘い映画でなく本質的に世の中は監獄なんで誰であってもどこで暮らしても結局は自由なんかなくて辛いだけっすよみたいな映画なのだった。
難民が社会に溶け込めないのが問題やという折にこの映画のカンヌ受賞はとってもタイムリーだったが、問題を融和できるか否かに置くのがそもそも間違いであり、難民とか貧困とか差別の問題は単に社会のリミットを前景化するだけでそれ自体根本的な問題ではないと言わんとしてるかのよに俺には見えたわけです。

オーディアールの映画は最後で必ず光が見えるので『ディーパンの闘い』もとっても気持ちよく映画館を後にするコトができたわけですが、なにが光かといえばあれだなみんなどうせ監獄の中でしか生きられないんだから諦めて粛々と日々の営みを続けましょうやみたいなとこが光。
これはなにか、明るいニヒリズムとでもいうのか。頑張って生きてりゃそのうちいいことあるよみたいなオーディアール映画の基本パターンを踏襲してるよに見えて最後に顔を出す監獄脱出の図は今までのオーディアール映画のどれより現実感がなく、むしろその背後に相変わらず苦しいだけの現実の生活が透けて見えてしまう分だけ、それでもその日常を必死にサバイブするディーパン偽一家の姿がとっても輝いて見えてしまうのだった。

(文・さわだきんたま)

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いや俺はオーディアール=『ロッキー』説を唱え続けますよ。誰に向かってかは知らんが。

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