映画『ぼくのおじさん』と一緒に考える“ぼくのおじさん”感想文

《推定睡眠時間:0分》

(承前)ところで『ダゲレオタイプの女』を観てジャック・タチだジャック・タチだ騒いでいたのはジャック・タチが好きだからでついでにいえばプロト『ダゲレオタイプ』たる『叫』(2006)で展開された東京埋立地論はある時期までの押井守の中核を成していたため黒沢清と押井守を接続することは遡って可能であり、なぜそうするかといえば押井守も好きなのである。がんばればデヴィッド・リンチと黒沢清もいけるだろう。デヴィッド・リンチも大好きです。

ぼくのすきなものといまみているえいがをむりくりつなげてピッタンコ! なわけで、なんて自閉的な幼児的な見方をしているんだろうと一通りこれはリンチだいやディックともつながるなまてよハーラン・エリスンもあるぞとか言った後にいつも反省しているんであります、が!
北杜夫原作の『ぼくのおじさん』はジャック・タチの『ぼくの伯父さん』(1958)と関連付けない方が知的不誠実というものなので、あれもタチこれもタチきっとタチ状態でギンギンなのですがそれもしょうがないよ『ぼくのおじさん』だもんと開き直るのだ!

※ネタバレどころか内容にもほとんど言及してませんからそこんとこわかってください

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しかしそう宣言した直後に早くも撤回しますがべつにジャック・タチはかんけいないですよねだって北杜夫だもの。タチじゃなくてキタですよ。ほうらもうダジャレにもなってないのにそういうこと言いますよ。まぁそれぐらいのゆるさの映画だからいいじゃないですか…。

『ぼくの伯父さん』と『ぼくのおじさん』を接続するに当たっては迂回と触媒が必要なのであった(※どうしてもつなげたい)。ひとつは同タイトルを剽窃もしくは勝手に受け継いだ『男はつらいよ ぼくの伯父さん』(1989)。いまひとつは北野武の『菊次郎の夏』(1999)でしょうやっぱ。
寅さんはともかく『菊次郎の夏』がどう触媒の役割を果たすかといえば、このダメおじさんたけしと無口な少年の夏休みお笑いロードムービーには『ぼくの伯父さんの休暇』(1952)のバカンス感があるのですが、少年がたけしを“おじさん”と呼ぶことが実は作劇上のツイストになっていたりする。
たとえば絵日記調の章立ては『ぼくの伯父さんの休暇』のラストシーンが絵葉書になる小粋な演出を思わせると同時に『ぼくのおじさん』での少年が日記を読み上げていく一人称のモノローグ進行に繋がるとかそういう妄想相関図を描ける“おじさん”に自覚的な映画なわけです。

この一連のおじさん映画で“おじさん”のワードが指し示すイメージが『ぼくの伯父さん』と『ぼくのおじさん』を繋げてくれる。
こどもにとって家族の外に位置し、家族がその権威と形態を維持するために与えない知識や経験を代わりに与え、時に家族の束縛からの逃避先になり得るが、その間には決して埋まらない一定の距離がある、そういう大人をここでは“おじさん”と呼んでいる。
家族と学校の間にひっそり位置する名指しできない謎の存在。おもしろいけどちょっと不気味で、どうしても惹かれてしまう安全保証付きのあぶないもの。それがタチおじさんでたけしおじさんで寅おじさんで松田龍平おじさんなのだ。
このようなことは俺の記憶が正しければ在りし日の(※ご存命です)内田樹先生がブログに長々と書いていたので気になったら勝手にお探しください。

かくして俺の頭の中だけだとしてもおじさんラインが繋がったわけだが…だからなにか? いや、ほら、『ぼくのおじさん』も後半ハワイに行くじゃん…バカンスじゃん…『ぼくの伯父さんの休暇』かつ『菊次郎の夏』じゃん…マドンナとダメおじさんの無茶な恋あるじゃん…『男はつらいよ』じゃん…だからなにか?
明確に答えなければならない。意味など、ない! “おじさん”とは、家族や学校、いやむしろ社会秩序からはみ出たもの。そこでは意味を成さないことばを話すもの。だから“おじさん”について話すことにも意味などありはしないのだ! 何の役に立ちもしないのだ!

でも“おじさん”の存在の無駄感っていうのはなにかと余裕のない現代でやっぱり必要なんじゃないすかとか当たり障りのないことを言っておきますが。
“おじさん”とはコミュニケート可能な大文字の他者であり、喧嘩したり仲直りしたりしながら折衷的に外の世界に開かれていく場なのである、とか言えばなんとなくそれっぽくも聞こえるだろう。

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もうだいたい言いたいことはおわったので映画の内容の感想に入るのですがおもしろかったけどモヤモヤンていうこれにつきますねこれに。
不思議な映画で、主人公ユキオくん(『金メダル男』に続いての大西利空くん)とおじさん松田龍平の住む家の中はおそらく原作の時空間を保っているのでサザエさん的な光景なのですが外の世界は完全に現代なのです。家の内と外で40年ぐらい開きがある。

時代ものなら時代ものでええんじゃないかと思うのですがすごく中途半端に脚色してるので「漫画喫茶も入れない」みたいなセリフが出てくる。一方で「わたし、プレゼントにお人形さんが欲しいわ」みたいな流暢なホームドラマ女児セリフがあったりお見合い写真を見た龍平おじさんが「ゴリラだ!」とか言ったりした末に後半はハワイで銀座の老舗の御曹司を巻き込んで恋のさや当てと跡継ぎ問題になる。
これはどううけとめたらいいのか。バケーションが時を歪ませたのか。

そういう齟齬を差っ引くかあるいは不可解な“おじさん”性として好意的に解釈するとしても、そもそも大人のイメージする利発なガキが白々しく大人を不思議がる『吾輩は猫である』的風刺小説の話型(ガキもネコも同じだろう!)というのは結局はガキをダシにした大人の言い訳でしかないと思っているので、こういうのはユーモアとして優れていれば優れているほど洞察が鋭ければ鋭いほどこども物語としていやらしく感じてしまう。
ジャンルが違うがこれに比べれば星新一の一番つまらない童話の方がどれだけ嘘がなくて気持ちよいか。おもしろいとおもう。おもしろいと思うが、その分だけ嫌な映画であるようにも思う。

まぁでも北杜夫の原作は読んでないので文句は言えず…とりあえず俺に言えるのは松田龍平の“おじさん”っぷりはあまりにも最高だったがスタッフロールで遊び心からクレジットを「春山ユキオ」とした脚本の須藤泰司さんはその物の分かった子役芝居に心からムカついてしまったがこちとら大人であるゆえ怒りをぶつけることは倫理的に不可能な春山ユキオこと大西利空くんに代わってバナナの皮かなんかですっこけるぐらいの罰は受けてほしいということです。

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すごく不器用なんですけどこういう抒情的な映画はなんだかどうしても嫌いになれなくて結局泣いてしまう。

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