めっちゃ嫌な気分になったので『たかが世界の終わり』の悪口書く(ネタバレは多少注意)

《推定睡眠時間:0分》

これはあのすごい困る映画で。もう、困る映画で。なんかジム・トンプスンのノワール小説みたいなタイトルですけどもちろんそんな映画ではないのですが。まぁでも騙されたと嘘はつけないのでそういう映画だろうなぁとはわかって観に行ってるので…。
誰が悪いと言えば俺が悪いのですが。姑息にもそう予防線は張っておきますが。もう悪口しか出てこないので最初にそう書いておくので嫌なやつはタブ閉じろよ俺のブログなんだから悪口ぐらい自由に書かせろよっていうそういう感想ですからとにかく嫌な、嫌な、嫌な映画だったんだよ俺には…!

ただし一応言っておくと俺が嫌なのは基本的にグザヴィエ・ドランという新鋭映画監督の立ち位置と売られ方(または消費のされ方)なのであって、たとえばジョン・ウォーターズのようなメインストリームに対する強烈なアンチとして受容されるのであれば映画自体は本当に胸糞悪くはなるがその悪趣味の水準の高さは天才的なので名作カルト、天才カルト監督というわけで別に不満はないし、あえて言うなら悪質なのはドランを取り巻く金にめざとい業界人ども(かどうかは知りませんがね)なのではないかとおもう。
ある種の残酷をメロドラマ的に消費しようとする善意の殻を被った欲望ほどおそろしいものはないわけで、善意だとか、優しさだとか、だいたいそんな美名を振りかざす必要があるときに人は美名で覆い隠さなければいけない何かを胸中に抱えているもんなのではないですか。いやまったく。

それで『たかが世界の終わり』ですが主人公は死病に侵され最期も近いゲイの若者で、彼が十数年ぶりに実家に帰ってくると。で初対面の兄の妻も交えて一家水入らずの時を過ごすわけですが、どうにもギクシャクして居心地が悪い。
死の運命を自覚する彼はなんとか家族との関係を修復しようとするが…まぁ想像通りというかなんというかうまく行かない。大喧嘩の末に家を去って、それが彼らの“世界の終わり”。幕。そうですか。

端的に言えばこれは自傷の映画であって、この家族は母親を除いて誰もが自分の傷を見せびらかす。いつも怯えているような兄の妻(マリオン・コティヤール)や姉(レア・セドゥ)のドラッグとタトゥーはストレートですが見逃すべきでないのはヴァンサン・カッセル演じる粗野な兄で、主人公との険悪なドライブ中に思わず激高してスピードを上げるシーンがあるのですがこれはまさしく自殺行為なのだと断言していいんじゃないかなあ。

前作の『Mommy/マミー』もそうだったのですがドラン映画を貫く政治力学というのは一言、弱い方が勝つ。これに尽きるわけで、だからあの家では誰がより傷ついているかのチキンレースが繰り広げられている。
それは乳児期の母子関係のアナロジーで、子供はただ泣くことしか外界に対する抵抗の手段を持たない弱い存在であるがために母親の全面的な庇護を受けることになる。あの家が父親に相当する人間の存在しない、老いた母を犠牲的な中心に回っているというのは物語の上でも作劇上のテクニックとしても理に適っているわけですな。

で、俺がめちゃくちゃ嫌だったのはそういう力学をですよ、そういう構造を、エモーションで糊塗して見えなくしてしまうドラン演出のある種のセコさ、そこですよそこ。
あの家の問題というのはつまりニーチェが奴隷道徳と呼んだようなものに支配されていて、そのルールの中でより弱くあるために(ということはよく多くの権力を得るために)あえて外の世界に出て行かない=この家でしか生きていけないとの閉鎖性を誰もが進んで引き入れている、そのために新しい外部のルールを導入することが事実上不可能になってしまってただ自傷が自傷を呼ぶ構造的な悪循環にある。

これは主人公も例外ではなくて、外の世界に救いを求めることもできたのに結局はその場とその力学に囚われてしまっているというのが彼の本質的な悲劇のはず。悲劇というのは罪を負うことの悲劇で、血で血を洗う弱者の席取りゲームに身を投じている限り被害者は常に加害者であるし、そして加害者が被害者に転じようとする中でますます互いの傷は深くなっていく。こういう状況に主人公はいる。
ところがドランはさながら主人公を罪なき犠牲の羊として、兄を血に染まった暴君として、ある種の神話的な見せかけの中で個人の徳性の問題であるかのように情緒的に解決してしまう。いや解決しないのですが構造はなにも変わらないので。でもバッドエンドとはいえ解決した=セカイが終わった風には見えるという。

どうでしょうこれは、どうすかねこれ…。

こういう幼稚でえげつない話(※個人の意見)をナルシスティックな陶酔でごまかすために、またエモーショナルに正当化するためにドランはいくつかのテクニックを用いているのではないかとおもう。
一つは極端なクロースアップで人物の顔だけを繋いでいくような息苦しいカッティングで、当然ながらクロースアップは観ている方の没入感を高めるので心理的な閉塞感と(被写体への)距離感の喪失を生む。

映画の中の家族喧嘩を見ていて、もうこいつら本当にガキなのですがふと、ある映画が。はい寅さんです、寅さん。寅さんが放浪の旅から戻ると必ず家族喧嘩が巻き起こるというのが『男はつらいよ』ですが、『たかが世界の終わり』の家族喧嘩は寄りの画だから深刻に感じられるが引きの画で撮ったらもしや寅さんみたいな喜劇になるのでは。
逆に『男はつらいよ』を全編クロースアップの連続に変換して想像してほしい。引きの画で見たらあんなにバカバカしかった家族喧嘩の風景もその場ではみんな本気で怒ったりしてるので、クロースアップだけで撮ったら笑えないのではないか。渥美清の顔なんて近くで見たら愛嬌があるどころかちょっと怖い。
ていうか寅さんは毎回好きな女に振られて毎回家族から追放される中年童貞フリーターなんだからドラン流に撮っちゃったら呑気なタイトルが洒落にならないかなり本気で辛い映画になってしまうんじゃないですかね…。

もうひとつのテクニックはマークップで、『Mommy/マミー』の時にはなんとか法みたいな養育に関する架空の法律が施行されたというSF設定があったわけですが、これは冒頭にテロップで出るだけでそれ以上はほとんど掘り下げられたりしない。
じゃあなんのためにそういう設定が導入されたかというと成長に伴う母子の別離を、その亀裂を社会秩序の要請として外圧によってもたらされた悲劇に書き換えるためだったんじゃないかとおもう。

『たかが世界の終わり』でこれに相当するのは主人公の死病とゲイの属性で、観ている側はそのことを知ることはできるがそのことの具体的な内容を知ることはできない。つまり病気ならどんな病気でどんな病態でどんな治療を受けているかとか、そのことが主人公に与える心理的影響はなんなのかとか、そういうのは隠されたインジケータになっていて、結果としてどういうことになるかというと「触れられない」。
もし隠れたインジケータがストーリー上もしくは演出の上で開示されるのであればそこからストーリーに別の流れが生じる可能性はあるし、観ている側が各々の登場人物に対して抱く感情とか全体の印象が変わったみたいな能動的な働きをするかもしれないのですが、開示されないので死病は単に死病だしゲイは単にゲイとして空虚な記号になってしまう。

「ゲイは美しいものが好きでしょ!」とかなんとか言いながら外行きの化粧をする母親の姿からこの狭い世界ではゲイが周縁的な属性であることが印象付けられる。ようするにこれらの属性は内容を欠いた負の徴として主人公をマークアップすることになるわけで、そのことで彼が他人には触れられない絶対的な権力を帯びるという例の自傷ゲームの原理がここでも応用されてるようにおもう。
それ自体で様々な含みと広がりを持つ要素をドランは還元主義的な仕方で人物の性格や行動、ある状況を現出させるための徴として用いる。これはたとえば『13日の金曜日』みたいなホラー映画に出てくる、殺人鬼の現れる呪われた地に伝わる因縁話のようなもの。要するに中身はどうでもいいがとにかくその地は恐ろしいと観る側に印象付ければいいわけですよ。そしたら観てる側はホラーを見るモードに入れるので。

「いつだって盲目的に血に飢えた輩は、犠牲者のうちに迫害者の姿を見出し、それに対して自分たちは、せっぱつまってやむなく正当防衛に立ち上がらざるをえないと考える。強い国々が弱い隣国を侵略する以前には、その隣国の方こそ自分たちにとって耐えがたい脅威なのだと感じていたのである」(「啓蒙の弁証法」)

アドルノとホルクハイマーはやがてホロコーストに至る戦前ドイツの反ユダヤ感情を分析する中でこんな風に述べているわけですが、なに某在特会とか、某ルペンさんとか、某トランプさんとか、某・某・某…とまぁなんでもいいのですがその例証には事欠かないご時世ですから冒頭に「この世界のどこかで」とどこかで聞いたようなテロップの出る『たかが世界の終わり』もそれはそれで目の前の世界の反映として高い精度を誇っているのかもしれない。
主人公の傷ついた眼差しが覆い隠すのは強い憎悪の感情であって、自分を傷つけたクズどもにしかし自分は許しを与えるという上から目線は、彼彼女らと同じ立場には決して身を置こうとしないという点で拒絶の表明でもあるんじゃないすか。無抵抗は道徳ではなく戦略だというようなもんで。

実際、これは技巧を凝らした実に策略的な映画だと思うのでわぁすげぇドラン天才だなぁなのですがおいおいそれでいいのかよというのを繰り返しになりますがおもにそれを売る側とか、批評する側とかに思うわけで。
はい、いまの世界のリアルを存分に焼き付けた傑作だとおもいます。なんの答えも出そうとしないという点でも完璧に今っぽい傑作だとおもいますよ。でもそれを無批判的に、エモーショナルに、ファッションの文脈で消費してしまってええのというのは、たとえば極端なクロースアップとかマークアップ(付け加えるなら核心の隠蔽も)で感情を一つの方向に駆動するジャンル映画的な手法は同時にプロパガンダ的だったりするからなわけで。
こういうのはちゃんといかがわしいものとか悪趣味なものとして理解しないとあぶないものなのではないかな。俺だって自傷映画のマスターピース『死の王』が永遠に心の一本ですがあれが悪趣味じゃないと感じたことは一度もないんで…。

あとあのなぜあんなに兄貴が弟を嫌うのか悟らせない作りになっていますからとにかく見た人の感想を読むと兄貴が嫌われていてまぁ確かにあいつクズなんですけど一方的に兄貴が悪者にされるのはあんまりなので勝手に想像して弁護しますが要するに兄貴はあの家でいちばん自傷ゲームが下手だったので辛い事があってもみんなにその辛さが分かってもらえなくてワリを食っていたか、あるいはそう思い込んでいた。ほんで弟である主人公はこれがとにかくめっちゃ上手かった(ということはそのぶん自縄自縛なのですが)
最後の最後で兄貴はなんであんなことをしたんだろう、主人公になにを求めていたのだろうというとだからお前が悪者になってくれよってことじゃないですかね。なんか主人公に怒鳴り散らしてもらってなんなら花瓶かなんかで殴ってもらいたかったんじゃないすか。なぜならこの家では誰かを攻撃する構えを取ることが権力闘争の敗北を意味するから。

花瓶で殴られて病院にでも運ばれたら兄貴もさすがに俺が悪かったと言えた可能性もあったかもしれないが、主人公は決してそのチャンスを与えようとはしなかったのだ。

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匿名さん
匿名さん
2017年11月11日 5:07 PM

お前が好きに悪口書くならコメントも好きに悪口書いていいんじゃないのか?気持ち悪い自己正当化する前説はいらないだろ