『君の膵臓をたべたい』のことを話そう(非レビュー注意。内容ほぼ触れてません)

《推定睡眠時間:15分》

スタッフロールを見ていたら監督の人の名前が月川翔というらしい。なにそれちょっと少女ドリームすぎない。ペンネームとかですよね? ショウなのかなカケルなのかなどっちかな…まぁどっちでもいいんだけど…。
このスタッフロールはなにかキラキラ輝いてたので主演の人は浜辺美波という名前だし美波さんの親友役の役者さんは大友花恋という名前だしその印象を引きずって製作の市川南さんまで少女漫画ネームに見えてきたしそのキラキラにトドメを刺したのが最後に出てくる監督:月川翔なのだった。

新時代を感じたな。これは新時代ですよ『君の膵臓をたべたい』…。

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なんかでも実際こういう感じになってくんじゃないの新時代の映画、と思うところもないでもなくどこが新時代というとほぼオーディオドラマじゃないですかこりゃあな点ですよ。
日本映画の音作りは台詞最優先というのはよく批判的な文脈で言われたりしますがー、キミスイはそこ徹底してましたね。とにかく会話。心の声から置かれた状況までなにからなにまで会話と台詞で見せて(聴かせて?)いこうという姿勢。
これぞ音声中心主義というもので、環境音効果音等それ以外の音はすべて完全に記号化されたうえで話し言葉を修飾したりその状況を説明するためだけに使われる。ノイズキャンセリングムービーである。

シナリオの面でも常に台詞が展開を主導しているからどのシーンも台詞から逆算して構成されているように見えてしまうが、そもそも根暗高校教員の小栗旬が一人の生徒に過去を語り聴かせるつーところから物語が始まる映画なんだから語りの映画であって然るべきなのだ。
そういうわけで映画の激チャームポイントは浜辺美波の語りにあった。この人の柔らかい語りの心地よさったらもうね、試しに途中で目を瞑って見てみたら(?)そのまま寝ちゃったぐらいだよね。でも大丈夫、目を瞑っても寝てもストーリーはちゃんと追えました。つまりそれぐらい、音声が強力に作用してんですよ。

無声の動く絵として始まって、そのうち伴奏音楽がついて、それから動く絵と同期したサウンドトラックがついて…ついに動く絵が音声の添え物になるまで進化したか現代映画。これは感無量。
だがしかし別に皮肉を言ってるんではなくいや皮肉は確かに言ってるがすいません嘘つきましたが、トーキーになってからというもの、総合芸術と呼ばれるようになってからというもの、五感すべてを駆使して鑑賞されるようになってからというもの、映画は目が見えて耳が聞こえて頭が良くてお望みならば足があって手があってというのも含めてほんの一握りの幸運な健常者の為の娯楽になってしまったのだ。
哀しくもこれからの多様性の世界に映画は障害として立ちはだかるんである。そのことが具体的に想像できない人はシネコンの場内がどういう作りになっているか考えてみよう。

ネット配信大手が次々と製作にも参入して予算的にもクオリティ的にもメジャー映画会社に引けを取らない作品を発表する中で、映画を取り巻く環境は再編を促されているが、そうして視聴環境や流通経路が変わればいずれ映画の形式も影響を受けずにいられない。
映画顔負けのアメリカのドラマなんかを見ればよくわかる。たとえば、映画が二時間である必要は全くない。映画とドラマの垣根など近い将来消えてしまうに違いない。たとえば、登場人物の背景や性格をその映画の中で説明する必要はない。メディアミックス展開や外部デバイスとの連携で、映画の作品世界はますます広大に、そしてますます分散していくかもしれない。

そのことが意味するのは今まで映画の形式によって暗黙のうちに視聴者から排除されていた人々も各々に合った方法で映画を鑑賞できるようになる可能性である。だから決して遠くない未来、映画はコンピューターゲーム化することで多様性の世界に合致した鑑賞的ではない操作的な芸術形態に…とブツブツ一人で暗唱しながらここまで書いていて恐くなったので我に帰りますがつまりみんなにやさしい未来のバリアフリー映画の第一歩が目が見えなくても楽しめるし映像が明るくてわかりやすいから耳が聞こえなくても楽しめる『君の膵臓をたべたい』だと思いましたね。

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もうこんだけ褒めたので後はなにを言ってもいいだろうと勝手に判断したので以下おおむね悪口です。ご了承。

ほんとねもうこういう映画ね何度見たんだよ。コミュニケーション下手な文化系男子+実は不治の病の明朗女子のパターン、今年に限っても『僕らのごはんは明日で待ってる』で見たし去年も『四月は君の嘘』とかで見たし多少変形して『僕は明日、昨日の君と恋をする』もその範疇だろうしていうか『四月は君の嘘』に至ってはヒロインの性格とか口調もほぼ同じじゃん!
あとタイトルに君と僕、いすぎじゃん! せめて『コックと泥棒、その妻と愛人』ぐらいは世界観を広げてくれよ! じゃないと狭すぎて見分け付かなくなるよ『君の四月がたべたい』し『僕は明日、昨日の嘘と恋をする』し『僕らの膵臓は明日で待ってる』よ! 大混乱! カオス!

でもだがしかしもうこういう風に思うことにしたんだ最近。誰かが悪いんじゃない。これは配給形態や製作形態や上映形態などなど諸々の環境的要因によって重層決定された、つまりもう誰かの手ではどうしようもないくらい物語も登場人物もロケ地も演出も撮影に入る以前に既に固定されてしまった、きっとそういう映画なんだ。
そういう映画とは地方学園映画のことであり、地方学園映画とは端的に言って意図せざるプロパガンダ映画である。なにをプロパガンダするかと言えば日本と日本人の不滅をプロパガンダする。いよいよ話が危険な領域に入ってきたのでそろそろ切り上げるが、コミュニケーション最優先の音声中心主義とはそうしたところから要請されるあるいは要請する同質性と表裏の排他性、パロールとヒエラルキーの明証性、性的指向や人種の単一性などがもっとも明瞭に確認される場なのである。

その強烈な保守性が反面で従来型の映画の統一を破って映像と音声の主従関係を倒置させることで映画を解体しながら多様性の世界に開いているように見えてしまったのでこれぞ脱構築だなんだかすごい面白い映画だなと思ったが気の迷いだと思います。

【ママー!これ買ってー!】


超兄貴~兄貴のすべて~

プロテイーン!!!!!

↓その他のヤツ

君の膵臓をたべたい : 上 (アクションコミックス)

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匿名さん

こんなゴミ映画に対して、これほど凄いレビューは初めて読みました。
映画の発展の歴史の中に位置づけ、さらに未来の予兆として捉える、という超高度な皮肉。
“なにをプロパガンダするかと言えば日本と日本人の不滅をプロパガンダする”は、目からウロコでした。
本当その通りだと思います。
勉強させていただきました。

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