く…く…狂ってる!本当はマジで怖ぇ『プリデスティネーション』!

イーサン・ホークが出てスピエリッグ兄弟が監督した『プリデスティネーション』をウトウト観た。
俺はこれメチャクチャ怖かったんだけど、ネットとかで感想観るとあんま怖いって書いてる人いない。
ルサンチマン全開な感じがしてイヤですが、多分そーゆー人はリア充だナ。
コレはホント、非リア充(の男)から見ると地獄みたいな映画だ。
もう近年稀に見るレベルで地獄な映画だ。

ってことをフラフラ書いてこう。

とりあえずどんな映画か振り返る

しかしビックリしたなぁ、映画冒頭の銃声のデカさ!
映画館で映画観んの久しぶりだもんな。シネコンで観たのなんてもっと久しぶり。
新宿のバルト9で夜観たが、レイトショー料金が無くなっていた。1800円だ、ちくしょう。

銃声に驚いてたら、イーサン・ホークが燃えてハゲた。
またビックリしてたら、二枚の張り紙がアップになった。
「明日できることは昨日するな」「同じことは二度するな」
それを合言葉に観ればイイらしいが、どうも二枚の張り紙がノリで裏表くっついてるというのがオチだった。早くもネタ、バラします。

http://collider.com
http://collider.com ハゲるイーサン。つか何気無いシーンだが、最重要シーンです

ハゲてスペクターみたいになったイーサン・ホークだったが、次の場面は「酒処・ポップ」。何事もなかったかのように中年イーサン・ホークが働く。
で、やってくるのが若き日のディカプリオを腐らせたみたいな男。
イーサン・ホークは仕事そっちのけで男と話し出す。
ご婦人向け三流雑誌の「私の体験談」コーナーに嘘八百の体験談書いて糊口をしのぐみみっちい男の、波乱万丈の体験談が始まる。

「私の体験談」男は実は女だった!
体は女、でも心は男!
孤児院で育った!
ケンカは他の孤児の誰にも負けなかった!
政府募集の宇宙売春婦に応募した!
過酷な訓練を難なくこなした!
他の宇宙売春婦候補との殴り合いのケンカには絶対負けなかった!
だが、結局採用されなかった!俺が一番強いのに!

http://www.smh.com.au
http://www.smh.com.au 宇宙売春婦養成所。なんですかそれ?

なんの映画なんだろう?コレ。
時代設定もわかんなくなってくる。
イーサン・ホークと男がバーで話す現代は、70年代くらい?
フラットで書割めいた映像のせいで、男の回想は年代不明。いや60年代くらいらしいが。ウーマンリブとか言ってるし。
いやいや、そもそも「私の体験談」男の言うコトだ。どこまで信用していいやらだ。
男のハナシはまだ続く。

心は男だが、別の男に恋して妊娠!
出産で自分が両性具有であることを知る!
女を捨てて男に性転換!
子供はさらわれた!
父親になるはずだった男は消えた!
俺は全てを失った。一つだけ残して。
復讐。俺の人生を狂わせたあの男を、殺す。
それだけが、ただ一つの生きる目的。
そしていまや「私の体験談」。

https://aambar.wordpress.com
https://aambar.wordpress.com 汚いディカプリオこと「私の体験談」男

かつて女だった(?)男のヨタ話を、イーサン・ホークは仕事完全放棄でピスタチオかなんか食いながら聞いてたが、羨ましい職場環境だなこれは。俺も働きたい。
そのうえ男誘って地下室に行く。どう見てもサボってんのに、職場の連中は誰も止めない。マジ羨ましいな。

イーサン・ホークと男は地下室にやってきた。
不審に思う男。レイプか?殺人か?そういえば最近、怪しい爆弾魔がうろつき回ってるとか…。
イーサンが言う。

「お前、ホントにその男を殺してぇのか?」
「あぁ、殺したいね」
「そうかい、だったら…」
ギターケースみたいなのをテーブルに置くイーサン。ダイヤル付き。
「コイツはタイムマシンだ。過去に戻って、そいつを殺せ」

ガーン!ビックリした!すごいビックリした!
た…た…タイムトラベルもののSFだったのか!知らなかった!
あと、後ろの席にジョナ・ヒルが座ってた。これもビックリした。

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http://hipsterjew.com いつもムカつくクソデブ俳優ジョナ・ヒル。この人が出てくると画面(と自分)に殺気が漂い、映画の没入度を高めてくれる。名バイプレーヤーです

最後まで書こうと思ったが、メンドクサイから止めた。
どうせここからが面白いトコなので、観てない人に対する配慮もある。良いヤツだな、俺は。

大好きなバカB級ゾンビSF映画『アンデッド』(2003)のスピエリッグ兄弟監督作とはいえ、ロクに期待も前調べもせずに観たが、これはホント面白かった。
序盤四十分くらいダラダラしてるが、そのタイクツさに負けないで観てください。
いやスゴイよ、そっからの狂いまくって壊れまくった展開。

以下、散乱(産卵?)しまくった妄想ネタバレ。
映画の狂いっぷりに合わせて夜中のテンションで思いつくままに撒き散らしたので、節分の日みたいになってます。わーい。
ひたすら長くて汚いですが、良かったらどーぞ。

特に!観たけど「なんだこれ、大した映画じゃねぇな」と思ってる人はマジご一読!
コレはホント、アナタが思ってる十倍はトンデモナイ映画だぞ!

妄想で読む『プリデスティネーション』

http://canalize.jp
http://canalize.jp 泉に映った自分自身に恋焦がれ、抱こうとして溺れ死ぬナルシス。この映画ではそれどころでないが、ナルシスみたいに死んだ方がマシな気もしてきます

『プリデスティネーション』はSFじゃない。
これは文字通りの意味で妄想映画だ。
タイムマシンなんて存在しないし、女の自分、タイム・エージェントの自分、爆弾魔の自分もまた同様。
全部妄想だ。全部が全部妄想で、現実の場面なんてほんのわずかしかない。

原作はちゃんとSFだったりするが、まぁ原作をどう解釈するかなんて監督やら脚本家の自由なんで、原作がSFだからって映画もSFと捉える必要はない。
じゃあ映画は原作をどう解釈したか、妄想じゃなくて現実のイーサン・ホークに何が起こったかってのを、妄想映画らしく妄想しながら書いてみよう。

「アダムの脇腹から骨を取り出し、生ける女に変えた」

いや、哀しいハナシじゃないですか。
男としての自分を確立できないで、イーサン・ホークは男らしい自分を夢見る。
空想上の男らしい自分に惚れて、ハタと気付く。これじゃまるで、女みたいだ!そんなの俺じゃない!

それがイーサンの悲劇の始まりだった。
彼は両性具有じゃなくて、男らしくない男だった。
なんでかって言ったら、この映画が分身についての映画で、円環についての映画でもあるからだ。

http://ticket-news.pia.jp
http://ticket-news.pia.jp 『甘い鞭』(2013)は女性映画の大大巨匠・石井隆の監督の傑作。分身というか変身ですが、女は分身を変身として易々取り入れる。女が別の女に変身して自分で自分を救う、という展開を石井監督は昔から繰り返す

分身映画。
分身映画の主人公なんてほぼ例外なく男なワケで、分身が主人公の対峙すべき問題になるのは男性性においてでしかない。
男から見てコドモっぽさと同一視されがち(カワイイ!愛らしい!)な女性性の中で、分身は問題にならない。
なので女の分身映画はそもそもごく少数だと思われますが、その場合は往々にして、分身は主人公を性の解放に誘う肯定的な存在なんである。

分身が性の解放に誘うのは男の分身映画でも同様だったりするが、男が分身と戦うのに対して、女は戦わないで受け入れる(あるいは戦わずして敗北する)
女の分身映画での問題は分身じゃなくて、男たちの抑圧なのだ(女たるもの貞淑であれ!)

女たちは分身と戯れるが、男たちは分身と戦う。
何を意味するかと言われても知らないが、男だろうが女だろうが分身は基本的に(社会的な)欠如を補うワケで、それを乗り越えるべき問題とするか単に受け入れるかの違いではある。

男は分身に打ち克って成長する、オトナになる。
映画に限らず伝統的(?)な分身ものの基本。
欠如は男の敵である。

果たして欠如とその克服が人をオトナにするのかどーかは知らんが、少なくとも男の分身映画はそう捉えるんである。

http://floro.blog32.fc2.com
http://floro.blog32.fc2.com ヤン・ブリューゲル(子)の『楽園でのエヴァの創造』。後ろの方でエヴァがちゃっかり産まれてます。しかしブリューゲル一族はややこしいな…

読んでないから知らんが、聖書の創世記にこんな記述があるとかないとか。
「アダムの脇腹から骨を取り出し、生ける女(エヴァ)に変えた…」
福音派なんかじゃコレが男のが女よりエライんですよの根拠になってるらしいが、そんなもん当然ファンタジーだ。
ファンタジーだが、男が女より優位に立つためには必要なファンタジーだ。
セックスの不在がこれを可能にする。

逆ならどうか?
「エヴァの脇腹から骨を取り出し、生ける男に変えた…」
ほとんど自然な記述なワケで、この場合には男と女の優劣は問題にならない。
そこにはセックスがあり、男と女だったり、死と誕生がセックスで結びつく。
調和としてのセックスとか言ってもいいし、あるいは円環のかすがいとして、とか言えるかもしれない。

男の分身映画じゃ自分と分身がポジティブとネガティブに切り分けられる。どっちかが上でどっちかが下になる。
調和としてのセックスが無いからだが、多くの分身映画が性的に未熟(か不能)な男の映画であり、対して分身が男らしさと性的エネルギーに満ち満ちてるってのはそのあたりに起因するように思う。
いや、直観的に。

http://d.hatena.ne.jp
http://d.hatena.ne.jp 『ラビッド』では主人公の女の脇にペニスが生え、そこから人の血を吸う。吸血はセックスのメタファーだ、なんてのはベタだしバカみたいだから言いたくないですが、クローネンバーグ映画のセックスはいつも暴力として捉えられ、異形化の後に調和としてのセックスに変わる

分身が出たので、じゃあ変身はどうだろうか。
男の変身はウルトラマンやバットマンは言わずもがなで、強烈な異形化を伴う。
女の変身と聞いてすぐ思いつくのは化粧や売春だったりするが、原型を留めない男の変身と違って、本来の自分と地続きの緩い変形になってる。

デヴィッド・クローネンバーグの映画は男女問わずひたすら異形化するが、女が異形化する『ラビッド』(1977)や『ザ・ブルード 怒りのメタファー』(1979)は一種の女性恐怖映画でありつつ、その変身(変態)を賛美するような歪んだ映画になってる。

『ラビッド』では主人公の女の脇にペニスが生えたりするが、少なくともクローネンバーグにとっての異形化は男性化なワケで、この人はどうも女が男となることに安堵する、かあるいは欲情するんである。
クローネンバーグ映画では往々にして、女の男性化は悲劇をもたらすが。
(逆に『ヴィデオドローム』(1982)では男が異形化してヴァギナが出来たりするが、この映画はなんだかとてもハッピーエンドなのだった)

バットマンの俗流精神分析的解釈なんかはやたらクソ映画批評家とかがやりたがる。
それが正しいかどうかはともかくとして、男が欲望や願望(別に性欲とかじゃなくてヒーローになりたい!とかでもいい)を成就するには女の何倍も迂回と本来の自分からの乖離が必要なワケで、それが異形化であったり、もっと進行すると完全に乖離して分身になったりする、なんて言えないだろーか。

それこそクローネンバーグ初期のケッ作『シーバース』(1975)なんて「セックス怖い!…あぁ、でもセックスサイコー!」という歪んだ映画だが、この映画ではセックスを肯定するに寄生生物の侵入による異形化を必要としたんである。

まぁ、一般的に男が浮気の言い訳(カミさんに対しても自分に対しても)を躍起になって考えるのに対して、女はあっけらかんと浮気する、みたいなコトでしょね。

http://news.ap.teacup.com
http://news.ap.teacup.com 同じ一日から出られなくなっちゃう『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』ですが、ラムちゃんは楽しそうです。男どもはわーわー騒ぎますが

円環/ループ映画。
バリエーションはいくつかあると思うが、相変わらず直観的に分類する。
1、コドモの遊び場としての円環(『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)?)
2、タイクツな日常としての円環(『恋はデジャ・ブ』(1993)とか『マトリックス』(1999)での仮想世界とか)
3、輪廻としての円環(なんの映画が適切だろう?『エル・トポ』(1969)とか?)

階層的に見ることもできるワケで、1の円環の上に2の円環、その上には3の円環がある(大体の円環映画は色んな段階の円環が混ざったカタチになってると思うんで、あんま形式的に考えてもしょうがないが)。
コドモからオトナへ、オトナから老人へ。
関所としての通過儀礼を通して次の円環へ(成人式、結婚式、葬式)。

円環映画もやっぱりというか、基本的に男の成長物語だったりする。
主人公の男にとって円環が苦痛になる場合、第一段階の円環ならオトナになる(社会に出る、他人の世界に入る)、第二段階なら女と性的な関係を結ぶ、第三段階なら死を受け入れるコトでハッピーエンドになる。
まぁ社会的にも肯定されるでしょ、社会出て家庭持って死を受け入れて、ってのは。

主人公にとって円環が全く苦痛にならずに、ひたすら円環の中で戯れる映画・小説・アニメはコドモ性(女性性)に根ざす。
『男はつらいよ』シリーズだって毎回同じコトしかしないんで円環と言えるが、シリーズが続く(円環を閉じる)のは寅さんがマドンナと性的関係を結べないからだ。
寅さんをマトモなオトナとして観る人がどれだけいるだろう?コドモの戯れだから、あんなに幸せな映画なんじゃない?

http://www.ifc.com
http://www.ifc.com 『ファイトクラブ』はマジサイコーの映画で、何度観てもラストでうぉー!ってなる。この映画は男の子の夢だナ。夢でしかないってのも分かってますが…

とりあえずそういうコトにする。
そういうコトにするので、分身映画と円環映画は男と男性性で繋がる。
いや正確には、分身や円環がストーリーの上で主人公が解決すべき課題として設定されてる映画、そーゆーのは例外なく男の映画である。
そして多くの場合、円環を出れない(=オトナらしさや男性性の否定だったりするが)コトの苦痛が分身を生み出す。
主人公は分身を自分と一体化させるコトで円環を出て、次の段階の円環に入る。
失敗すれば、その円環の振り出しに戻る、

分身映画『ファイトクラブ』(1999)は見た目円環映画じゃないが、ラストシーンから映画が始まる回想形式になってる。
この映画では最初、主人公はタイクツで変化のない日常(第二段階の円環)にウンザリしていて、分身の登場がそれを突き破る契機となる。
ラストは分身を統合して女を手に入れるハッピーエンドですが、それがひどく空想的だってのがこの映画の面白いところ。

一方、分身を統合できなかった結果、円環に閉じ込められたのは『ロスト・ハイウェイ』(1997)や『メメント』(2000)だ。
(ナゼかこの時期のアメリカ映画はフィルムノワールの様式を好む。回想はノワール様式の一つだが、不能の男もまたノワールによく出てくる。そこでは善悪を判断する基準がなく、主人公はなにが正しいか、何をすべきか苦悩する)

http://atopedecine.blogspot.jp
http://atopedecine.blogspot.jp 『メメント』の主人公は自分ともう一人の自分を統一するためにメモリー・タトゥーを刻む。監督はクリストファー・ノーランですが、この人の映画は全てが分身と変身についての映画。その最たるものは『ダークナイト』(2008)で、異形の者ジョーカーはバットマンの願望としての分身なワケです

ってなワケで分身と円環が問題になるのは男でしかあり得ないがと思うが、そんなの別にイーサンが両性具有じゃないことの証明にはならなかったりする。
体は女、でも心は男、って言っちゃえばオシマイ。

だから飛躍する。

逆に分身・円環映画として観れば、イーサンが両性具有だって根拠は一切無くなる。
だって自分で自分を産む両性具有の自分なんて「アダムの脇腹から骨を取り出し、生ける女(エヴァ)に変えた…」男のファンタジーで、女に対して男の優位を誇示しようとする妄想なんだから。
あるいは、両性具有という異形化を行うコト自体、男であるコトの証明となりうるんである。

もうそう思い込んじゃった(妄想思い込んじゃった?)んで、俺の中で完全にイーサンは男になった。
イーサンが男になれば、ハナシの九割は妄想になっちゃう。
でもなんで妄想?

アダムの出産(?)を担当した医者は神様だったが、イーサンは自分で自分の肋骨を取り出して自分にする。
神様までとは言わないが、誰か肋骨を取り出してくれる別の人間がいれば、イーサンが妄想の円環に囚われるコトはなかった。
彼は孤独で、彼の世界には他人が一人もいなかったから、妄想の中で自分を産んで、自分を愛して、自分を憎むしかなかったのだった。
(他に妄想映画だって考えられるトコは最後にまとめて書く)

そもそもの始まり
http://ameblo.jp
http://ameblo.jp 『ロッキー・ホラー・ショー』(1975)のティム・カリー。この男臭さを消そうともしない堂々たるドラァグ・クイーンっぷりは素晴らしいと思う。いいじゃない、男女でも女男でも

孤児院でのイーサンは、男らしくも女らしくもない自分に悩んでいた。
彼は男だったが、自分を女みたいに感じていた。
それじゃあいけない。
ボクは男らしくならなきゃいけない!

男なら男らしくなけりゃいけない。たとえば、ケンカが強いとか。
女なら女らしくなけりゃいけない。たとえば、子供を産むとか。
イーサンはそんな強迫観念の塊だが、映画的には孤児院でのストレスフルな生活のせいでそうなった。

両親の不在は彼にロール・モデルを与えなかった。自分の居場所と、自分の態度の決定的な審級が、初めから彼にはない。
他の男の子からのイジメは彼の男らしさを傷つけた(弱いヤツは男じゃない!)。女の子だったらイジメられないのに、とか思ったかもしれない。
先生(って言うのか?)のセックスを目撃した事は、彼の性に対する態度を変えた。
多分、先生を母親みたいに思っていただろうから、ヨガる先生の姿と自分を同一視しちゃって、んでまた反面で嫌悪したかもしれない。
(なんか色々誤解を招きそうだが、いやまぁ原作古いし)

男女分裂の契機は常にイーサンのアタマん中の男と女自身に潜んでるが、分裂するたびに男女をまた一つにして常に統一された自分を打ち立てようとしても、イーサンにはそれができない。
両親がいない上に周りから疎外されまくったこの人にはそれが正しいコトかどうかも分かんないんで、統一された自分になることの根拠がない。
要するに、オトナになれない。
それならそれでいーじゃんと思うが、でもイーサンは男らしいオトナの男になりたいんである。
そのイメージが子供じみた空想的なものだとしても。

https://wherethewildthingsare14.wordpress.com
https://wherethewildthingsare14.wordpress.com ウディ・アレンの『ボギー!俺も男だ』(1972)はヘナチョコ男のウディ・アレンの前に空想上のハンフリー・ボガートが現れて、アレンをオトナの男にしようとする

幼いイーサンは思う。
男の子でも女の子でもない自分は、どっちでもないから孤独で、居場所がないんだ。
男らしい男になろう。ケンカだってめちゃんこ強い男に。
そしたら周りの男の子も女の子も友達になってくれるかも。
先生だってボクを好きになってくれるかも。
それから宇宙飛行士になって、宇宙を飛び回るんだ!(それこそ男の子の男らしい夢じゃないか)

でも結局、イーサンは男らしい男になれなかった。
宇宙飛行士にもなれなかった。
もう何を信じていいか分からなかった。
もうどうしていいか全然分からなかった。

もしイーサンが自分の中の女々しいところを素直に受け入れるコトができてれば、妄想に沈み込んで抜けられなくなるコトは無かっただろナ。
自分の弱さを受け入れるコト。
別にイーサンじゃなくたって、ソレが出来ないせいでドン底まで行っちゃう人なんてたくさんいるじゃん。
弱さを受け入れるコトもまた強さだとかなんとか言うような言わないよーなだが、とにかくそういう意味で、イーサンは自分の弱さを受け入れられなかったんである。
そしてこう思う。

俺は誰だ?私は誰だ?
俺と私の居場所はどこだ?
一体、なにをすりゃいいんだ?

語られない物語は、こうやって始まる。

「私の体験談」
http://www.predestination.jp/
http://www.predestination.jp/ バーテンなのに一切働かないイーサン。ダメな人です

孤児院を出たイーサンはなにしてたのかなぁ。
なんかうだつの上がんない仕事してたんだろな。
バーの仕事は多分やってたろう。
でも友達なんて人生で一人もいない。
恋人だって人生で一人もいない。
ただ自分だけの孤独な世界。かつ童貞。

救いは「私の体験談」だ。
ありもしない支離滅裂な冒険の数々を、イーサンは書き続けた。
そこでは女の子となったかつての自分がヒーローだ。

女の子なのに素手で車のライトを叩き割って、ケンカだったら誰にも負けない(だってボクは、誰より男らしい!)
女なんて知らないから、出てくる女は売春婦か、孤児院の男の子みたいに野蛮なケンカ好きしかいない(女なんてみんなクズだ!先生みたいに!)
っていうか、宇宙売春婦って、なに?

幼稚な妄想はどこまでも続く。
孤児院で一番アタマが良かったと回想するイーサンがアタマに浮かべるのは、(2×4)-1みたいな単純な計算を解いてみせた光景なんだから。
出産で訪れた病院で自分が両性具有であるコトが判明、いとも簡単に医者に性転換手術してもらえるんだから。

「出産のとき、こっそり君の身体を組み替えといたよ」と医者。
うろ覚えですが、んなアホみたいなセリフと展開が現実であるわきゃあない。
っていうか出産するまで両性具有に気付かないワケないが、セックスと他人が不在の妄想の中では可能なんである。
それはまた、現実世界でイーサンがいかに孤独だったかを理解する端緒となる。

http://japan.digitaldj-network.com
http://japan.digitaldj-network.com 孤児院育ちのヘンリー・ダーガーは、病院の清掃係をしながら誰にも見せることなくペニスの生えた女の子たちの奇怪な冒険譚を描き続けた。一人の友達も恋人も作ることなく、彼は孤独のうちに一生を終えたが、死後になって作品が発見、評価された。このあたり映画のモチーフかもしれない

孤独は次第に彼を蝕んでいった。
そしてますます自分が分からなくなる。
男?女?お父さんは?お母さんは?
俺はどうすりゃいい?

自分がひたすら憎かったが、自分を誰より愛してもいた。
外の世界に憎いヤツや愛しいヤツを作ればいいが、孤独でガキなイーサンはそのやりかたを知らない。
鏡に映った自分に笑いかけ、同時に鏡を殴りつけて血だらけになる。
鏡は割れても自分は死なない。飛び散った鏡の破片の一つ一つがもう一人の自分を無数に映し出して、状況はかえって悪くなる。
苦痛だけが延々と蓄積される。

「健全なオトナであるってことは、誰か血のつながりのない他人を名指しで憎めるってコトだ。総理が悪い、部長が悪い、部下が悪い、恋人が悪い…そうできないヤツはビョーキだ。まぁ健全なオトナの方々にとっては」
アレ?そんなセリフあったっけ?
いやいや、無いよ。俺が適当に考えたんだもん。

内に篭ったフラストレーションは外に向かおうとするが、イーサンはその対象を名指しすることができない。
特定の誰かに憎しみを向ける代わりに、概念として一まとめにされた他人全般に憎しみを向ける。

ちくしょう、死んでしまえ、どいつもこいつも。
爆弾なんかでドカーンと。
そうだ、テレビで見たあの爆弾魔も、きっと俺と似た者同士だ…。

ふと思う。
なんで今の俺になった?
どうして、もっとマシな選択をしなかった?
あの頃の俺が憎い…だが、あの頃の俺を救えれば…。

そうして、タイムマシンを生み出した。
彼は悪いヤツをやっつける、男らしいタイム・エージェントになった。
あくまで妄想と「私の体験談」の中で。

母胎回帰の夢
http://www.monstersoffilm.se
http://www.monstersoffilm.se ただ一人の友達である自分に会いたいがために、妄想のタイム・エージェントに

狂ってはいたが、無邪気だった妄想は徐々に崩壊していく。
タイムマシンのせいだ。
未来にも行けるのに、彼は過去にしか行こうとしない。
昔の俺が全部悪い!昔の俺なんて殺してやる!
いや、違う、昔の俺を救うんだ…。
俺だけが俺を救えるんだ…。

かつての俺に、理想の男らしい恋人を与えた。俺自身を。
かつての俺に、理想の女らしい恋人を与えた。俺自身を。
かつての俺に、理想の父親を与えた。俺自身を。
かつての俺に、理想の母親を与えた。俺自身を。

でも、俺はそのどれにもなれやしない。

俺は男らしい男じゃない。
俺は女らしい女じゃない。
俺は父親じゃない。
俺は母親じゃない。

俺にはなにもできやしない。

まだ赤ん坊の頃の自分と出会ったイーサンは、それを孤児院に預ける。
彼は自分で自分を育てられない、自分で自分を救えないことを知ってたワケだ。

http://blogs.yahoo.co.jp
http://blogs.yahoo.co.jp そういえばマンガ『ドラえもん』に「ドラえもんがいっぱい」という名作があって、こちらは一時間後とか二時間後からどんどんドラえもんを連れてきてタイヘンなコトになる。これは笑えるハナシですが、藤子・F・不二雄先生のタイムスリップもの、分身ものマンガはとても深みのある名作ばかり

漸進的な妄想の過去へのタイムトリップで、彼はやがて胎児の頃にまで辿り着く。
(精神的に)男でも女でもあった時代。
子であり母親であった時代。
もっと遡れば父親でもある時代になる。
その頃、世界のすべては彼と一体で、彼は孤独じゃなかった。
彼は両性具有の完全な存在だった。

幸福な母胎回帰の妄想が空転するのは、結局彼が母親も父親も、それに類する人間を誰も知らないからだ。
どこまで遡っても彼の世界には彼しかいない。
そして、その妄想の中に住まう彼の分身は、全部が全部不完全だった。
俺はクズだ。俺はゴミだ。
クソ!クソ!クソ!クソ!クソ!

「不必要なタイムトリップは、認知症を誘発する」

哀れな老後は孤独と憎しみと悔恨でいっぱい。
幾歳月も妄想のタイムトリップに費やして、もう彼には現実が残されていなかった。
朧な現実の中で、認知症の兆候を感じ取る。
そして前よりもっと強く思う。
誰も彼も死ねばいい。
だが、誰も彼も俺を一人にしないでくれ…。

かつて目にした爆破事件を思い出した。
タイム・エージェントの俺なら、哀れな犠牲者を救える。俺はヒーローだ。俺に救われた人々は、きっと俺を好きになってくれるに違いない。
爆弾魔の俺なら、みんな殺せる。ヤツらは誰一人生きる価値がない。俺を孤独にしたヤツらは。

そうだ、俺はヒーローなんだった。
そうだ、俺はあの爆弾魔なんだった!

ヒーローの俺が、爆弾魔の俺を殺しにきた。
男らしい俺が、ヒーローの俺を殺しにきた。
殺せ、殺せ、俺を殺せ!
俺を殺して、もう全部終わらせてくれ!

映画はここで終わるが、でも、なにも終わりゃしない。
ヒーローの俺を殺した男らしい俺は、妄想の中で女らしい私と関係を持つだろう。
そして子供の俺/私が生まれて、再び俺、私、俺、私、俺、私…。

そして円環は閉じる
http://worldfree4u.info
http://worldfree4u.info 実際、こんな老人が本当の爆弾魔になんかなれるワケないだろう。そもそもどこで爆弾スキル身につけたの?中年イーサンが爆弾魔イーサンを殺すこのシーンは、非現実的な照明が特徴

こうして彼は円環に囚われたが、その円環は彼の中にしかない。
時間は厳粛。
死はちゃんと訪れる。
街を歩けば膨大な他人。

「俺たちには過去がない」それから「俺たちにとって時間は特別だ」。
なことをイーサンは言うが、妄想の中で自分の分身と話すとき、全ては願望なのだ。
ミジメな過去は全部忘れて、何度でも巻き直せる都合の良い時間を生きたい。
そんなものは存在しないが。

彼の外には本物の過去も未来も現在もちゃんとあるし、それにもしかしたら、自分から手を伸ばせば誰かが救ってくれたかもしれない。
タイプライター買った店のねーちゃんとか(数少ない現実の場面)。
でも、できなかった。
自分の中にしかない円環に閉じこもった彼には、自分の尻尾を食いながらただただ同じコトを繰り返すことしかできなかったんである。

老いた爆弾魔のイーサンは、映画の最初と最後に90年代の病院に辿り着いた。
順序立てて書いたが、実際のところ妄想はソコを基点として、順不同で錯綜しながら形成されたんだろナ。
映画の主人公はタイム・エージェントの中年イーサンじゃなくて、90年代の老イーサンだ(まぁ映画そこから始まるし)。

すっかり老いて孤独のウチに朽ち果てた彼は、90年代の現実を見ようとしない。見ることができない。
今の彼にできるのはせいぜい円環を成した妄想(認知症だ)の中で、自分に弱々しいメッセージを送ることだけだ。

「明日できることは昨日するな」
頼むよ、もう妄想の過去に救いを求めるのはやめてくれ…俺。

「同じことは二度するな」
頼むよ、もう妄想の中で同じことを繰り返すのはやめてくれ…私。

けれども、不完全な彼が自分を救うことは永遠にできないのだ。
妄想の中で彼は彼だけを永遠に殺し続け、彼は彼だけを永遠に愛し続ける。
やがて現実の時間がもたらす孤独な死が、彼を救い出すまで…。

*
*
*

…く、暗い…!暗すぎる!なんちゅーヒデェ映画だ!芸術気取りのヨーロッパ映画だってここまでヒデェのそうそうないぞ!

いやホント、暗澹たる映画だよコレ。
鬱映画部門の今年暫定一位だな。多分、年末まで独走。

まぁ原作とか読んでないし、大体映画も一回しか観てないから、実際ホントに妄想映画かどうかって言われたら困る。
でもそれなりに根拠はあって、たとえば男になった若き日のイーサン・ホークの回想は、スピエリッグ兄弟の意図としてはもう完全に妄想だと思う。
あまりにも幼稚で荒唐無稽だし、その人工的で現実感のない画作りと、イーサンの勤めるバーでの画作りを比べりゃ一目瞭然。

「回想なんだからあえてそういうタッチにしたんじゃ?」
という見方もありましょーが、いやこの回想リアルなトコはリアルで、宇宙売春婦の養成所とか病院の分娩室だけ書割めいてたりする。
そらなんでかって、イーサンはそんなトコ行ったコトないからですよ。
(映画の冒頭で老イーサンがいる1991年の病院と、女イーサンが出産で訪れる1960年代の病院のタッチの違いをよく見てみよう)

回想がお話の前提なので、それが崩れると全部崩れる。
後はなんとなく思い浮かんだだけだから俺の想像(妄想)でしかないとも言えますが、実際そーやって観るとワリと腑に落ちる。

http://collider.com
http://collider.com 老いて認知症になったイーサンは、その現実を受け入れられない。大体どんな映画でもそうですが、男が鏡を見つめる場面は、その男が孤独であることを示す

(妄想の中で)爆弾魔の老イーサンがタイムマシンで1991年だかに行きますが、わざわざそのタイムマシンの目盛りまでカメラに収めてる以上意図があるってのは自然な考え方で、すると90年代に何があって、なんでイーサンは爆弾魔逃したのに追わないんだってハナシになる。
で、妄想と認知症の併せワザを考えりゃ、イーサンが追わなかった理由が分かるって寸法(現実なんて見たくない!)。

それから映画の終盤、中年イーサンがタイプライターを買おうと店を訪れるシーンがあったと思うけど、中年イーサンが物凄く懐かしそうにタイプライターを眺めてたのもそういう文脈があるからじゃないのって気がする。

バーで過去を回想する性転換後のイーサンは「私の体験談」なんてクソみたいな仕事だよって言ってたハズで、そんなの忌々しく思ってた。
イーサンにとってイヤな思い出しかないはずの「私の体験談」を書いてたであろうタイプライターを、中年イーサンはなんであんな切なそうに見ることが出来る?
って考えたら、「私の体験談」はイーサンの唯一の心の拠り所で、つまりはソコに書き連ねた体験は全部妄想だって風に受け取った方が自然じゃないだろか。
(仮にタイム・エージェントみたいな「私の体験談」より遥かに高等な仕事を本当にしてたなら、そんなコトにはならないだろう)

http://www.denofgeek.us
http://www.denofgeek.us かつての自分と話すイーサン。この場面も妄想だといいですが、現実だとしたらイーサンがずっと独り言言ってる、タイヘン怖ろしい場面になる。そういえばバーの同僚がイーサンを見る目はやたら冷たいし、仕事サボってんのに文句一つ言いませんでしたが…秋葉原とか行くとよくいるよね、こーゆー人

あとアレだな、最序盤に老イーサンが鏡を見つめるシーンがあるが、その次のカットは70年代にイーサンが働くバー。
唐突なカット繋ぎに戸惑ったが、妄想だって考えりゃ納得いく。
ラストを除いてこの映画の編集は時間(イーサンの中での時間)に沿った素直なものになっていて、飛躍とかしない。
回想は飛躍じゃないかって風にも言えるが、アレは性転換後のイーサンがバーで話してる内容を映像にしたものなので、時間の流れに沿ってる。
なので、老イーサンが鏡を見つめて妄想に入るってのは、この映画の構造的にとても自然なのだ。

っていうかそもそも、鏡を見つめるってのは自分を見つめ、逆に自分に見つめ返されることだ(当たり前)。
老イーサンが鏡に映る朽ちた自分を見つめる場面で、すでに何についての映画なのかってことの答えは出てたワケですよ。
(多分、火傷と皮膚移植は事実じゃないナ。老いて朽ちた自分と現実を老イーサンは認めるコトが出来なかったってワケだ)

【追記】原作読んだが、映画での主な追加点は爆弾魔と認知症だった。
爆弾魔はサスペンスとアクションと尺の関係からでもいいが、タイムトリップで認知症になるって設定の導入は重要だと思う。
イーサンが爆弾魔になる理由付けとして導入されたとも取れるが(そういう面は確かにある)、それなら精神異常とかなんとか言っとけばいいワケで、認知症である必然性は全然ない(認知症の老人が爆弾魔?ある?そんなの?)
いや完成した映画に必然性とか求めてもしょうがないが、脚本段階では各要素に必然性を与えようと、みんな躍起になるんである(アート映画ならそうとも言えないが)

https://aambar.wordpress.com
https://aambar.wordpress.com だが、散々「SFじゃない!妄想映画だ!」とか書いたワリに、みんなSFって言ってるしジャンルSFになってるし、自分が間違ってる気もしてきた。徹夜してこれ書いたが、映画じゃなくて俺が妄想に囚われてたのか?…よし、忘れよう!考えると怖くなるから考えない!

そーゆーワケで俺はこの映画を妄想映画として観てしまい、そのせいでここ数日鬱ってるが(引きこもり時代思い出した)、まぁ別にSFって風にも観れる。
つか散々書いといてアレですが、正直別に妄想でもSFでもどっちでもいい。
実際、どっちとも取れるように作られてるんじゃないの。

とにかくそんなコトは関係なく、観てるとポップコーンみたいに色々妄想が弾けて面白いんで、ボヤボヤと映画で妄想すんのが好きな人はマジ必見。
ニートとかヒッキーも、カーチャンの財布からカネ盗んででも絶対観るべきだナ。
お前ら今はいいかもしれんが、マジ老後地獄だぞ…この映画のイーサンみたいに。

それにしても、後ろの男はアレ本当にジョナ・ヒルだったのか?
もしやジョナ・ヒルの分身の可能性も…。

【ママー!これ買ってー!】


アンデッド [DVD]

『プリデスティネーション』では思いもよらぬ妄想トラップを仕掛けてきやがったスピエリッグ兄弟ですが、考えてみれば劇場デビュー作の『アンデッド』(2003)も「あ、実はそーゆーハナシだったのかー!」とビックリする映画だった。
それだけじゃなくてゾンビもスプラッターもギャグもユルいアクションも満載で楽しいんで、ヒマだったら観てください。

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