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映画は基本的に目が見えて音が聞こえる人のために作られているという当たり前のようなことに気が付いたのは映画を観ている時ではなくウェブサイト制作の手引き書を読んでいる時だった。
その箇所というのはHTMLタグでの文章の定義付けの項で、たとえば視覚障害のあるユーザーが読み上げソフトを使用する際にこれこれのタグで文章を定義付けておくと云々、とそのようなことが書いてある。
それは単にサイト制作では当たり前のHTMLタグの説明でしかないのだったが、その当たり前に意外な驚きがあったのは何冊も読んだ映画制作の手引き書で視覚障害のユーザーとか聴覚障害のユーザーを想定した文章というのは読んだことがなかったからだった。
というか、大抵の映画関係の手引き書ではそもそもいかなるユーザーも想定してないわけで(せいぜい物分かりの良い視聴者と悪い視聴者の区別があるぐらいだ)、ユーザーの操作を前提とするウェブサイトとかコンピューターゲームと違ってユーザーがただ完成品を眺めることしかできないのが映画というメディアなのだから当然といえば当然なのだが、その当然は少し視線をズラすだけで一気に特殊事情に変わってしまうのだった(ちなみにそれが映画や映画的なCMが人種やジェンダーに関する論争・炎上の対象になりやすい理由ではないかと個人的には思っている)
『ナイトクルージング』の主役であるところの先天性全盲の加藤さんという人は劇中でAIの空間認識の仕方をエンジニアから聞かされ、それは俺の空間認識の仕方ととても似ている、と言っていたのでなんとなく上のようなことを思い出したのだが、そんなことはともかく『ナイトクルージング』、その加藤さんが映画を作るドキュメンタリー。
後天的な視覚障害の人ならまだしも先天性全盲の人が映画を。単純に好奇心がバックバクであるが、結論から言ってしまうと普通の映画作りとなんだかあんまり変わらなかった。驚きの拍子抜け。
というのもたとえば盲目の写真家という人がいて、その人が写真を撮るときには自分の体と感覚で撮るわけですが、どんなに小規模な作品であっても映画はその写真家のように(厳密にはそうではないけれど)一人では作れない。
カメラを持つ人がいて、照明をセットする人がいて、音を録る人がいて、美術を作る人がいて、シナリオを書く人がいて、スケジュールを組む人がいて、予算を持ってくる人がいて、それにカメラの前で演技する人がいて…もう考えるだけで嫌になるくらい色んな人が関わってくるのだから、映画監督というのは表現をする人である以前に色んな人とコミュニケーションを取る人といえる。
結局、映画を作ろうとする時には写真や絵画と違ってどう自分のビジョンを正確に他人に伝えるかが重要な問題になるわけで、そうなってくると見える見えないとかはコミュニケーションの形は違うとしても映画を作るに当たっての本質的な差異ではなくなってしまう。
爆笑問題の太田光がオムニバス映画の一編を監督した際にうまくスタッフとコミュニケーションが取れず、森が神秘的な光を放つシーンを撮ろうとしたところまるでクリスマスの電飾のようなものが出来上がってしまった、というエピソードを思い出したが、その時の太田光と『ナイクル』撮影時の加藤監督にどれだけの距離があるだろうかという話なんである(ちなみにその時は現場に様子見に来た森田芳光の鶴の一声でなんとかなったらしい)
というわけで視覚障害と芸術がどうのみたいな高尚な内容じゃなくて拍子抜け。出来上がった加藤監督作のSF映画もなんだかエドウッドみたいなヘボいやつで、狙って作っているかコントロールの及ばなさゆえに出来てしまったかの違いはあるとしても、こういうアマチュア映画あるよなぁという感じ。
だから面白いのは出来上がった映画そのものとか、視覚障害のドキュメンタリーとしてよりも、初めて映画を作る人のドキュメンタリーとしてだった。
わかったようなことを言っておいてあれですがぼくも映画が好きなアマチュアなので映画ってこんな風に作るのかーの連続。
スタイリストさんが厳しくて怖いとかオーディションに来る役者のどこをどう判断すればいいのかよくわからんとか世界観設定を根堀り葉掘り聞かれるがそんな深くまで考えてシナリオ書いてねぇしそれを聞いて映像に反映しようとしたところで映画面白くなんのかよとか思ったり(俺が)、なんていうか、映画作るの面白いけどすごいめんどくせぇ。それ加藤監督はカメラの前で言いませんけど絶対思ってたと思いますね。少なくともまさしく手探りで映画を作る中での困惑はよく出ていた。
映画の映像表現を理解すべく加藤監督は色の構造や効果とか頭蓋骨の形状が与える印象の違いを専門家に聞きに行ったりするのですが、そのあたりは面白いだけではなくてなかなか勉強になってしまったりする。
映画の冒頭は終盤に完成品が観られる加藤監督作の音声のみを抜き出したもので、まぁデレク・ジャーマンの『BLUE』のブラックバージョンみたいなものと思ってもらえばいいが、そこで流れるキーボードのタイプ音が水がしたたる音にも聞こえることに気が付いた。
それがキーボードのタイプ音として聞こえるのは音と映像を文脈に即して無意識的に結びつけているからで、そんな風に、普段はなんとなくスルーしてしまいがちな(もしくは作家の狙いにお行儀良く従いがちな)映画の演出効果を解体して一から考えさせるようなところもあったから、映画をもっと面白く観るための映画という側面もあった。
加藤監督自身、『スパルタンX』とか『ベスト・キッド』とか好きでよく観ていたと言っているわけだから、映画好きの映画好きによる映画好きとその他いろんな人のための映画って感じだ。笑えるところもちょいちょいあったしおもしろかったですね。やっぱ映画おもしろいですよ。
付記:
ところで視覚障害についてのドキュメンタリーとしてはあんま観れなかったんですが、一点だけ印象に残ったところがあって、なにかというと盲目の世界を映像で表現する時に制作チームが「黒でいきます」とか言うのに対して加藤監督がいや黒じゃないんだと、全盲者の観る世界は色がなくて、黒は白があるから黒で、白は黒があるから白で、だからその世界の色は黒じゃないんだと、そういう応答をする。
これはちょっと目から鱗って感じでしたね。じゃあ見えない世界の表現としてどういう色があり得るんだろうとか考えたりして、これは結構掘っていくと面白い映像表現に繋がるんじゃないかなぁとかおもいました。
【ママー!これ買ってー!】
コンピューターゲームの世界は映画よりも遙かに多様なユーザーに開かれているのでコンシューマーでも音だけでプレイする系のゲームがポツポツあるらしく、むかしPSPでそのジャンルの面白そうなやつが出てたと思うんですけどタイトルが思い出せないので代わりにご存知画面真っ暗ゲームのリンクを貼ってしまう。