笑い泣き殺人映画『ハウス・ジャック・ビルト』感想文(オチバレあり)

《推定睡眠時間:0分》

私の人生は病的な自己愛に悩み続けてきたものであった、と言っていいであろう。それが自分なのだと居直った瞬間に罪悪感にとらわれる。自分に病的に執着してしまうこと、その裏返しとして、ひとを自然に愛することができないことは、たいそう深いところに達した私の傷である。

友人が入院したと聞いても、大怪我をしたと聞いても、とっさに頭をかすめるのは、そうだ、悲しまねばならないんだという気づきであり、どうしたらいいのだろうという戸惑いである。次に、私が何も感じていないことが通報してくれた者にすでに見透かされているのではないかという恐れである。

私は他人から真剣に愛されたくない。私は誰も真剣に愛することはできないのだから、それにもかかわらず愛されてしまう(愛されていると感ずる)と、とても居心地が悪いのだ。突如四方を高い塀で取り囲まれたかのように、圧迫感がするのである。
(…)まして、(男であろうと女であろうと)あかの他人から愛されているというわずかな証拠でも発見すると、私は窒息するのではないかと思うほど息苦しくなる。相手に相応のお返しをすることはできず、それができないことを自覚しているうちに、じわじわ相手の一方的な愛が私に浸食してきて、私の身体のバランスを崩す。
といって、逃げることもできない場合、きまって私は相手を激しく憎むようになる。
中島義道『ひとを愛することができない』

どこのシリアルキラーだという感じの怒濤の告白の引用元は元祖ひきこもりの拗らせ哲学者・中島義道の特濃エッセイ『ひとを愛することができない』であった。何人か殺しているようにしか思えない書きっぷりですが中島義道は(確認されている限りでは)今のところ人は殺していないのでご安心ください。

ラース・フォン・トリアーの新作『ハウス・ジャック・ビルト』を観ながらずっと脳裏に漂っていたのはこれのことで、ぼくトリアーの映画とか基本的に嫌いなんですがこの映画はなんだか素直にというか、なんならちょっとの懐かしさを感じつつ受け入れることができたのは、中学高校と中島義道の本を結構な分量読んでいたからだった。

街中のノイズ発生源(街宣車や商店街のBGMや券売機の自動音声など)に突撃して音を止めさせる奇行っぷりを綴った『うるさい日本の私』で知られる中島義道の偏執的な性格・行動は俺の中でトリアーと部分的に重なる。
『ハウス・ジャック・ビルト』は絵画や報道写真の雑多な引用を織り交ぜた殺人鬼ジャック(マット・ディロン)の殺人回想と彼と地獄案内人の対話から成るが、『ひとを愛することができない』は中島義道が家族との確執や女性遍歴、自分が過去にどんな風に人を傷つけてきたか(傷つけられてきたか)を延々、諸々の哲学者や文学者の愛についてのテキストを参照しながら語るエッセイなんである。

ジャックのファースト犠牲者は山道で車のタイヤがパンクしてたまたま通りかかったジャックに助けを求めてきたユマ・サーマンで、ジャックはあんま関わりたくないし話したくなかったが助手席に乗せたユマ・サーマンが執拗に絡んでくるものだから後先考えずについ殺してしまったが、中島義道はこのように書いている。

私は他人からなるべく何もされたくない。放っておいてほしい。だが、現代日本でこの要求を貫くのはたいそう難しい。飛行機の隣の席の人が話しかけてきた場合「すみません、話しかけないでください」と断るのは至難の業である。不思議なことに、ただこう語るだけで相手を深く傷つけることになるのだ。
(…)こうした男であるから、他人から心をこめて選んだと思われる花束やチョコレートをもらうと、爆弾を贈られたかのように震えてくる。
(…)こうして、私を窮地に陥れながらも平然としている、いやよいことをしたとタカを括っているその人の鈍感さが憎くてたまらない。彼女(ほとんどすべてが女性である)は加害者なのに、その意識はゼロであり、喜んでもらえることを相手に自然に期待するほど傲慢であるのに、それを反省する気配さえない。

引用と書かなければそのままジャックの台詞と勘違いしてしまいそうな恐るべきメンヘラシンクロっぷり。ジャックがそのアバターであろうトリアーともどもよく今まで一人も殺さないで頑張ったと褒めてあげたい。

ところでどうして俺がトリアー映画が嫌いかというと、比較的初期の作品はともかく三大映画祭の常連になり始めたぐらいからどんどん露悪的なコンセプトの方が目立ってきて、その露悪が趣味ではなくて世間の耳鼻を集めるための大衆迎合的な露悪に見える、くせに本人は本職の露悪者を気取っているようなところが俗物っぽくてつまらなかったから。

引用の映画には感想も引用で攻めるのが礼儀というものだからドフトエフスキー『地下生活者の手記』の独白についての次のテキストを引用したい。

相手の応答に先廻りするということは結局自分のために最後の言葉を保留すると同じことである。最後の言葉とは主人公が他者の視線や言葉から完全に独立している、他者の意見や評価に全く無関心であるということを現わすものでなければならぬ。
(…)彼は自分がひとの意見を恐れていると、ひとが思いはしないかと恐れる。だがこの恐れによって彼は自分が他者の意識に依存し、自分自身の判断に安んじることはできないことを示しているに他ならない。
柄谷行人『探求Ⅰ』

これは『ひとを愛することができない』中島義道の批評としても有効でしょう。たとえば中島義道なら散々憎いだの放っておいてくれだの書きながらこうも書くわけだから。

私は他人に対して、ずいぶんと配慮する人間である。他人のために一肌脱ぐことも稀ではない。だが、自信をもって言えるのだが、なぜかそこにストレートな喜びの感情が湧かないのである。

ジャックは家を建てたかった。だがその家はいつまで建っても完成しない。作っては壊して作っては壊す。まるで「最後の言葉」を保留するが如くだ。どうも材質が気に入らないらしい。
なぜ材質か。ナチス・ドイツの軍需相&建築家であったアルバート・シュペールが提唱した「廃墟価値の理論」というものが劇中で引用されていた。

シュペールは、ニュルンベルグの鉄道操車場の瓦礫を見て、「廃墟価値の理論」なるものを作り上げた。それらの瓦礫は、さびしくも寒々としたものであったが、はじめから「特別な材料を使い、特別な力学的考慮を払えば、数百年後あるいは数千年後の瓦解した状態にあっても、なおローマの手本に匹敵する建築が可能である」と思いついたのである。(…)「瓦解したすがた」が素晴らしい英雄的霊感をあたえるように設計すべきだ、と彼は言いだした。
草森紳一『ナチス・プロパガンダ 絶対の宣伝4 文化の利用』

ジャックはいつかその家が崩れることは知っている。だから家が崩れても崩れた後に何かが残るようにしたかった。
これはなんのメタファーだろう。トリアーにとっての映画作りかもしれないし、ジャックにとっての人間関係かもしれない。「ぼくはぼくなりの方法で家族を作った」と言って、彼が例に挙げるのはどっかで引っかけた親子を無慈悲にぶっ殺したエピソードであった。死んだ家族は永遠にジャックの家族だ。殺して冷凍保存したガキの顔面を改造してずっと笑っているようにしてしまえば、永遠にハッピーな感じである。

しかしそんなものでは彼を殺人に駆り立てるなにかが満たされることはないから結局殺しは続くし家はいつまでも完成しない。
ジャックは子供の頃に見た雑草狩りの風景を夢想する。自然の中で自然のリズムに合わせて無心に労働に身を捧げる男たちがジャックの今を形作る原風景だ。
廃墟として価値を持つこと、とは建築物が人の手を離れて自然がその所有権を取り戻すことだろう。ジャックが地獄で垣間見た天国の風景はあの頃の自然だった。ナチスも自然回帰を志向していたし、自然にこそジャックの求める永遠があるんだろう。

だから建てるためというよりはむしろ、その建築は破壊され自然に還るための儀式なんである。自然回帰の願望はトリアーの作品群に通底するものだ。肉体は死んでも魂は死なないし、逆に肉体から解放されたら魂は自由になれるかもしれない。ジャックもトリアーも困ったことに極度のロマンティストなんであった。

俺が『ハウス・ジャック・ビルト』をおもしろく見られたのは中島義道を読んでいたおかげでもあるがそこに、トリアーの諦念が感じられたからでもあった。
いつになく自己言及的で『地下生活者の手記』のよういいつまでも終わらない『ハウス・ジャック・ビルト』の対話的モノローグは、ラディカルなアンチ・モラリストでありアンチ・モダニストのトリアーがいつしかその作品群で破壊を試みてきた当のもの、自然を征服する文明の側についてしまったことの自虐的な弁明として捉えることができる。

権威や世間におもねらない鬼っ子トリアーも結局は鬼っ子キャラとして権威にも世間にも認められて取り込まれてしまった。そのポジションから何を繰り出そうとも、もはや少しの攻撃力も残ってない。残っているのは人々が求めるトリアー映画を生産する鬱映画製造マシーンとしてのトリアーであった。自然と繋がる芸術家の内発的な創作衝動はもうどっかに行ってしまったし、そもそも最初からそんなものがあったのかも疑わしい。

『ハウス・ジャック・ビルト』でトリアーはきっとそのことを受け入れたんである。自分は自然に還ることはもうできない。自然に湧き上がるオリジナルな表現欲求もない。殺人鬼ジャックは様々な殺しをするが死体アートには創意がないし、その殺人のどれもが誰か他の殺人者の模倣に過ぎなかった。
ある時は櫓から女子供に狙いを定めハンティングの要領で撃ち殺していった。さながらテキサスタワー乱射事件のミニチュア版。ある時には殺した女の乳房を切り取って財布にした。エド・ゲインの縮小コピーだ。ある時には松葉杖をついて被害者の女に近づいた。これは米国シリアルキラーの代表選手、テッド・バンディが獲物を油断させるために用いた手法だった。

映画の舞台が1970年代の米国であるのはそのことと関係するのかもしれない。バンディが女を殺しまくったのが70年代である。その凶行を可能にした大きな要因は当時の州警察の連携不足だったが、映画の冒頭にはジャックが州境に被害者の車を捨てたら管轄外としてそれ以上追求されなかった、という皮肉な場面があった。

殺す女の家に侵入するためにテッド・バンディみたいにうまく口車に乗せようとして全然うまく話ができず支離滅裂になってしまう。犯行現場を綺麗に掃除して死体の痕跡を消したがもしかして消し残しがあるかもと不安になって何度も現場に戻っているうちに警察に見つかってしまう。周りの人、いつもそのダメさに口がポカン。
絶対に殺人鬼に向いていないジャックのへっぽこ殺人行脚は非道でありつつ大いに笑わせられるが、テッド・バンディがそうだったようにもしも誰かから本気で疑われて警察に本気で捜査されていたら、そんなに殺すこともなかっただろうと思えばちょっとだけ切ないものもある。やめろと言われたらたぶん、この人は殺人をやめていたんである。

そこにはトリアーの映画人生もなんとなく重なる。何を撮ってもトリアー映画だからの一言で(表面的なつまらない論争は一応呼びつつ)済まされて作品の本質的なところは相手にされなくなってしまった、芸術家に憧れる俗物映画監督の自虐と悲哀がある。
デヴィッド・ボウイの楽曲をよく作品に使うトリアーがグラム時代のボウイが被っていたようなセンセーショナルな仮面を外して素顔を見せた映画が『ハウス・ジャック・ビルト』だろうと俺は思う。中島義道が嘲笑上等赤面上等で恥ずかしい自己愛と自己憐憫を『ひとを愛することができない』に書き殴ったように、トリアーも凡庸で面倒臭くて情けなくて自分でも嫌になるような自分をさらけ出したんじゃないだろうか。

映画の最後、散々人を殺したジャックは地獄に落とされたがスペシャルな最下層行きは許されずにその二層上のちょっと楽な地獄行きを言い渡されてしまう。地獄でも凡庸なジャック=トリアー。結局、その程度の悪行しか彼にはできなかったわけだ。
だから彼は最下層の向こう側にある、憧れの自然に繋がっているかもしれない階段を目指す。向こう側に渡るには最下層の壁にしがみついてぐるっと周らないといけない。そこで最下層に落ちたら二段上のちょっと楽な地獄にはもう行けない。結構、望むところだ。

案の定、最下層に落ちてしまうジャック=トリアーだったが、それは今までに犯してきた罪の購いであると同時に、俗物として自分を受け入れた上で真の芸術家になろうとする作家の決意の現れだったのかもしれない。
なんか、泣けるな。めちゃくちゃ人殺してる人のろくでもないコメディなのに。

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シリアルキラーの内面を知るために読み直すことになるとは思わなかったよ!

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※単品ソフトは発売されてないんですがこの中に入ってる『シュラム 死の快楽』というシリアルキラー映画はわりとやってることが『ハウス・ジャック・ビルト』と近かった。ただしこっちは自虐とかなく本気。その死体にかける熱意に感動。

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さるこ
さるこ
2019年6月21日 4:40 PM

こんにちは。
行ったシネコンでリーアム・ニーソンかMIBか逡巡し、本作を見ました。
散りばめられたモチーフやら何やらの中では、グールドとゴーギャンが気になりました。まあ、変人ですわね…
〝トリアー節を期待されてしまっている(という解釈でよかったかな)〟という貴レビューで思い出したのは、キム・ギドク監督です。自分的には彼に対して似たようなことを思ったから。
しかし、心臓弱いと見られないよー!ひえええ…な映像ではありました。