《推定睡眠時間:0分》
どこまでも続く赤茶けた大地に点在する文明の終焉を物語る異様な廃品オブジェやモニュメントを旅人がただ通り過ぎていく。さして珍しいものでもないし目をくれる価値もないという風に。このオープニングだけでもういいんですよ、映画として。いいんです。百点。後がどうでもこれだけ観たら「うわあ映画だ!」ってなるから。そういうのを感じに映画館行ってるってところはあるんだ。原題『SPIRITS OF THE AIR, GREMLINS OF THE CLOUDS』。うわあ映画だ! じゃないですか、これだって。そうでもない? まぁ、そうでもなくてもいい。
この旅人が辿り着いたのは荒野の果ての一軒家。そこには飛行の夢に憑かれた兄と狂信的なキリスト教徒の妹が暮らしていた。飛行実験に失敗し下半身不随になった兄は旅人に手作り人力飛行機への搭乗を持ちかける。いかなる理由からか旅人は北を目指しているが、その前にはどう見ても登攀不可な絶壁が立ちはだかっている。しかし、人力飛行機さえあれば絶壁を越えて北の地にたどり着けるだろう。旅人は兄の飛行実験に協力するが、妹はそれを快く思わない。ここは伝道の半ばで倒れた父の墓。墓を見捨てて北に飛んでいくことなどできない。こいつは悪魔だ! 兄を唆す悪魔だ! かくしてよくわからん三人の共同生活が始まる。
それにしても思い切りのよい映画。すごいですよもう、登場人物たった三人、毎日飛行機作って毎日失敗して毎日妹が旅人に出ていけー! って嫌がらせするだけの90分。これは誇張してないと思うな。本当にそれだけの映画だったと思う。でもそれで超おもしろかったので映画に必要なものは何かって考えさせられるよね。やることは毎日だいたい同じ。でも毎日少しずつ風景が変わっていく。妹は荒野暮らしにまったく不向きなゴスロリファッションを毎日替えて一人ファッションショーの様相。兄は旅人の助力を得てどんどん飛行のための機械を制作、一軒家の外は仮設滑走路、実験小屋は簡易風洞になる。ただもう、見ていてわくわくする。
キャラクターもすごい。兄は40歳ぐらいで妹もアラサーに見えるが精神年齢はそれぞれ8さいと6さい。色恋沙汰にはならないし深い話も一切しない。会話といったらお互いにしたいことを叫ぶだけで家の中はオモチャだらけ。家の外も十字架とか風車とか飾りだらけ。兄の車椅子だって飛行機だってオモチャみたいに渦巻きペイント。終盤になってようやくカメラが入る兄の部屋の、その子供部屋のような壁模様に見える兄のまったく子供じみた純粋な飛翔への想いには胸を打たれるが、映画自体がどこまでも8歳児の感性で撮られたもので、オープニングからエンディングまで一貫してオモチャの手触り。感動ですよこれは。オモチャを作ってオモチャで遊ぶように映画を撮ることの幸福。
生きているような風の音、寂しげな風車の音、軋むドアと食器の音、歪んだ弦楽器の音、空を覆うツバメの羽音。ジャンクアートな美術も力強い色使いも素晴らしいしノイジーで繊細なサウンドトラックだって素晴らしい。あぁ、映画はこれでいいんだ。これが映画なんだ。空を飛びたいっていう想いだけでこんなに美しい映画になる。なんでもないシーンでも泣いてしまうよ、こういう映画は。百点だからいくらでも褒めますよ。っていうかね、褒めるとか褒めないとかじゃないんですよ。こういう映画が存在するってことが百点なの!
以下ラストのネタバレ入ってくるので未見の人は立ち入らないように!
ラストについて。実はこの映画前にビデオで観ていて、そのときは切ない苦い、でも希望の残る良いラストだなぁぐらいな感じに受け取ったんですが、いやいやこれはそうじゃないだろもっとハッピーだろスケールの違うハッピーだろってスクリーンで観て思い直した。とくに妹の見方がずいぶん変わった。憐れな人に見えるじゃないですか、なんか。ヒステリックで、保守的で、いつも怯えてて。だけどあの兄妹の父親はキリスト教の救いを絶望の終末世界に説いて回ってた人で、結局は志半ばで倒れてしまった、でその倒れた地に墓を作って妹はずっと守ってるし、そこから離れることができない。
これが何を意味するかってあの妹は父の説いていたイエスの再臨と救済を必死に信じようとしてたんですよ。なぜ旅人を悪魔呼ばわりしてたかってそれが父が殉じた信仰を、その墓と一緒に放棄させる悪魔の誘惑に思えたからですよ。あの旅人にイエスのイメージが重ねられていることは旅人が兄の代わりに大工として働くことからも(たぶん)明らかで、最終的に旅人は北へ飛んでいって兄妹は墓を守ることを選ぶわけですが、それは信仰を試す神の試練で…という寓意がある。
じゃあその後に来る三人とは何者か。旅人の追っ手ではたぶんない。これはもう、以上踏まえればメシアの誕生を告げる東方の三博士と考えるのが自然なんじゃないすかね。男に飛翔の夢を託して絶望の荒野に残ることを選んだ兄妹はその自己犠牲によって三博士の報せを受ける。描かれない物語の最後で兄妹は絶望暮らしの終わりを聞かされるわけです。だからあれは個人の世俗的なハッピーとかバッドを超越した、世界の救済を仄めかす荘厳なウルトラハッピーエンドなんですよ、たぶん。
アレックス・プロヤスは宗教を作品の軸にする人で、『ダーク・シティ』はキリスト教異端のグノーシス主義を下敷きにした物語だし、『ノウイング』はアカシック・レコードや「飛翔」としての携挙が描かれる。霊魂を運ぶカラスが出てくるのはお馴染み『クロウ/飛翔伝説』、神話ものの『キング・オブ・エジプト』は言うまでもないとしても、アシモフの原作を基にした『アイ,ロボット』もロボットの反乱に出エジプトのイメージが重ねられているように見えるのがおもしろい。
概ねどの作品についても言えるのは主人公が目に見え手で触れられる現実とは別の世界を信じる精神的なアウトサイダーということで、『スピリッツ・オブ・ジ・エア』でも妹に旅人が悪魔と見えたように観客には妹が狂っているように見える。でも、おそらくそうではなかった。
飛翔に狂い飛翔に救いを求める兄は自分の代わりにメシアかもしれない旅人を飛ばす。妹は絶望的な状況の中で失いそうになっている信仰を必死に守り続ける。表面的には兄の夢の物語に見えるけれども、実は妹の戦いの物語でもあって、旅人の到来を契機に二人がどうこの世の絶望と対峙するかというのが『スピリッツ・オブ・ジ・エア』なんだろうと思う。
プロヤス映画の飛翔への拘りもそうしたところから理解できるかもしれない。希望なき現世に抗うための宗教体験としての飛翔。あまり、そう言い過ぎると宗教嫌いの人の作品評価が下がってしまうかもしれないので、あくまで俺はそう思ったっていうのは強調しておきますが…でもねぇ、こんなにストレートな宗教感覚(宣教ではなく純粋な信仰として)で映画を撮れる人って本当いないですから、その宗教性にいつも感動させられるんですよ個人的に、プロヤスの映画は。俺はキリスト教徒じゃないんだけどさ。
【ママー!これ買ってー!】
『奇蹟の輝き』はプロヤスとだいたい同じぐらいの時期に出てきた宗教派映画監督ヴィンセント・ウォードの数少ない日本でDVD化されてる映画。『エイリアン3』の初期段階の脚本を書いて(何人もの脚本家が稿を重ねて元型を留めなくなったためクレジットは原案)ハリウッドで大活躍と思いきやなんかいまいち波に乗れないまま今に至っているウォードですが、その幻視的な映像の数々はまごうことなき天才の仕事なのでこっちもリバイバルしてほしい(『心の地図』とか『ウイザード』とか)