《推定睡眠時間:40分》
よく寝たのでどんな人が出ていたのかもなんの話かもわからなかった。寝ても筋がわかる映画というのもあるがこれはそういうのじゃないやつ。ストーリーはあくまでダイアローグで語られる。画で語る映画は途中で多少寝ても後から追いつけるが、ダイアローグ進行となると一度寝たらそれっきり。こういうのはなかなかつらい。モダニズム建築がどうの小津がどうのと言われてもピンとこない人間にとっては尚のこと。時折流れるヒーリング系のアンビエントも含めて、意図的に観る側を眠らせようとしているとしか思えなかった。心地よく眠れたので内容はよくわからなかったものの満足感はわりと高かったわけですが。
とにかく、よくわからない。俺としては内容についてそれぐらいしか言えることはない。なんかオッサン(『search/サーチ』のジョン・チョーだが、この人が何者なのかもわかってない)と学生の女がモダニズム建築というものがいっぱいあるコロンバスの街を巡っているようだが、なんで巡っているのかわからないし、コロンバスがどこにある街なのかも、そもそもモダニズム建築がなにかということすらよくわかってない。致命的である。
せっかくだからここはあえてウィキペディアに頼らないで長年の映画鑑賞で培った勘に頼ってみよう。モダニズム建築とは! たぶんジャック・タチの『ぼくの伯父さん』に出てきた家みたいなやつである。合ってる? 違ってる? まそんな白々しい問いかけは無視してもらうとしてですね…ああいうテイストの建物をふたりで巡ってく。で巡りながらなんか家族の話とかする。ふたりとも家族に何かしらの問題を抱えているようだ。そりゃそうですよね家族に問題のない家庭とかないですから。
それでその家族問題が私的モダニズム建築ツアーを通じてちょっとほぐれていくとかそういうストーリーで…えらい漠然とした書き方だが本当にわからなかったのでそうとしか書けない。なんか親の死とかが関係しているらしい。ジョン・チョーの方は死んだ親の? 手帳に? 書かれた建物を探してる風だが、なんのために探しているのかはわからない。そもそもあれは本当に死んだ親の手帳だったのかろうか。すごいな、人間ってここまでわからなくても映画観れるんですね。
えー、とにかく! 要は! モダニズム建築っていいよね! そういう映画! そういうことにしておく! うつくしモダニズム建築の数々! それを切り取るフィックス基本のシンメトリックな構図! 安眠へ誘うアンビエント! ぼそぼそ声のしみじみダイアローグ! そういうのを味わう映画でしたね! たぶん! きっと!
でもモダニズム建築って俺そんな惹かれないんですよね。もう、それ言っちゃったらなんで観に行ったの? って話になりますけど、モダニズム建築おもしろくないじゃないですか。こう見ろ! って感じで。なんかね、見る側とか使う側に正しさを要求するんですよ。映画がじゃなくてモダニズム建築が。そこでは肉体的にも知性的にも均質な人間が利用者として想定されていて、むしろ利用者の側が建築の求める利用者像に合わせて諸々矯正していかないといけない。
ジャック・タチなんかはその「硬さ」をむしろネタにしてモダニズム建築をポストモダンの遊び場にしてしまうわけですが、この慎ましい映画だとそういうことは一切しない(50分ぐらい寝てますが…)。非常に正しくモダニズム建築をわかった人の目で建物を捉える。だからたとえばファサードをフィックスでしっかり撮ったりする。建築家がここを見てくれっていうポイントを的確に押えていく。これがおもしろくない。
ル・コルビュジエの設計した国立西洋美術館に行ったりすると色んな斬新なアイデアが随所にはめ込まれてるわけじゃないですか。で、同時に、建物保全と運用の両面からその斬新なアイデアが結局は使われることなく死んだ展示品と化してたりするじゃないですか。西美で言うと常設展入って吹き抜けのスロープ上がったところに大きな本道とは別に裏道みたいな小さな通路があって、そのどちらからもメイン展示室の回廊に入れる。
たぶんこれは自由な導線を志向したものだと思うんですが、小さい通路の方は接触事故を防ぐためか、今はロープ・パーテーションで塞がれちゃって通れない。台無しですよね。でもこういうところを見ると建物が生きてるなぁって気がして、美的には堕落だけれどもやっぱ心惹かれるんです。トマソン的なというか。
それに完成品だけ見ればそれなりに調和が取れているように見える西美だって実際は相当な妥協の産物で、その設計図の変遷を見ればほとんどキメラといっていいような異様な美術館が現れる。俺は今の西美の建物を見たときよりもその破棄された設計図の数々を見たときの方が感動したし、コルビュジエはすごい人だったんだなぁって感じたのもその時だったんですよ。
だからこの映画を観ていて…やっぱわかんなかったな。ストーリーもわかんなかったですけど建物に向ける眼差しがわからなかった。結局そこなんですよね。わかるとかわからないとかっていうのは映画なんだから映像が提示する世界観がハマるかハマらないかっていうことで、俺はこの映画の、正しい建物を正しく撮ることに何の意味があるのかわからなかったし、それで何が面白いのかもわからなかった。そんなものはむしろアートとしての建築を殺す行為なんじゃないかとすら思ってしまう。
コゴナダという変わった名前のこの監督は小津映画のファンだそうでその趣味は存分に映画に表われているらしい(小津ファンじゃないのでよくわからない)。小津映画は無機的で冷たいから肌に合わず情緒豊かな溝口映画ばかり観ていた、とかなんとか淀川長治が書いていたと思うが、俺も溝口映画の方が好きでよく観ているからなんか、そういうことなんでしょうな。心地よい時間は過ごせたが、それだけ(それだけで充分ですが)
【ママー!これ買ってー!】
せっかく面白そうな建物がいっぱい出てくるのに主人公ふたりは見るだけでスルーしちゃうんだもんな。タチみたいに壊したり勝手に改造したりしちゃえばいいのにとか思っちゃうよ。できるわけないだろ。
さわだ さま
初コメント失礼します。私もこの映画ものすごく眠かったです…。
自分が観るであろう映画は、観てからこちらの記事を読ませてもらっています。
どうもわざわざありがとうございます。
眠い映画でしたね~これは。でも安眠できて良い映画だとは思いました。