なごやか映画『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』感想文

《推定睡眠時間:0分》

個人的に想像する全共闘といえば「ゲバ棒」とか「粉砕」とか「中止だ中止!」等々のワードが形作る要は『AKIRA』的なものだったので楯の会を率いていたこの時期の三島由紀夫との討論会といったらそれはもう中止だ中止どころではない侃々諤々阿鼻叫喚、まぁポスターもなんか激しい感じだしその映像を収めたドキュメンタリー映画とくれば大変な白熱教室が観れるんだろうな思って映画館(なんと若人で満員の渋谷パルコ内映画館!)に行ったわけですが拍子抜けを通り越して脱力すら覚えるほのぼの教室っぷりにズッコケてしまった。

まず、三島、表情はあくまで真面目なのだが語る内容はユーモアいっぱい。次に、学生聴衆、さぞ殺気立っているかと思いきや三島トークの笑いどころはしっかり笑い拍手ポイントではもちろん拍手、ヤジが飛ばないこともないが三島の話を止めようとするような暴力的ヤジではなく議論の促進剤となるようなヤジに留まる理想的聴衆っぷり。

そして、三島と直接論争を展開するオピニオン学生たち、ゆるすぎ。もちろんそれぞれ持論はあってそれを語るときには生硬ではあるが雄弁に語る、けれども議論の面でははっきり言ってお話にならない。東大全共闘最大の論客と呼ばれた(らしい)芥正彦なるアングラ演劇学生でさえ三島の明晰な逆質問を受けるとしどろもどろになってしまい、あんたは敗退者だなんだと芸の無い弱々しい罵倒で空疎なマウンティングに出ることが精一杯という有様。

言うまでもなくこれは編集された映像なので討論会のすべてが映し出されているわけではないし、それにテレビとか雑誌の取材も入れた公開討論会なので、三島も楯の会から護衛として森田必勝を呼んでいたとはいえ、双方ともに自らの主張や存在を大っぴらに宣伝するためのプロレスイベント的な意味合いが強い(と思われる)

全共闘の側も三島の側も暴力だの殺すだのと口では言いつつも殴り合いをするつもりはないわけで(俺は三島が殴れるって聞いたから来たんだ! とヤジを飛ばすガッツのある学生もいたが)、政治的立ち位置としては真逆にして両極の人間の討論であってもどこか不思議と和気藹々、凍結を恐れて物騒ワードをなるべく使わない今のツイッター論客()のディス合戦宣伝合戦の方がよほど野蛮の観すらある。

今こういう題材を映画にすることの意義がどこにあるかと言ったらそこなんだろうな。世の中、上っ面は綺麗になったけど野蛮の度合いは変わらないか、考えようによってはより野蛮になったしそれに、確実に偏狭になった。そのおかげで良くなったこともあるとは思いますが(男女平等の前進とか)、ともあれ現在を考えるキッカケにはなるんじゃないだろうか。

しかし驚かされるのは三島の丁寧な姿勢ですよ。これはびっくりする。端的に言えば論破をしようとは決してしない。たとえば、三島がひとつ論を立てると学生がそれに反論する、それに対して三島は自分の論の正当性を訴えるのではなく、その反論に対して問いを投げかけ、自分のものよりもむしろ相手の論を磨き上げていく。

あるいは、年齢差や知識差を考慮すれば両者を同じ土台に置くのはフェアではないですが、明らかに三島の言っていることを理解できていない学生もいる。そういう学生の明後日の方向を向いた(これは思想的な意味ではなく言葉の意味を了解していないという意味ですが)応答に対しても三島はそれを稚拙だからと退けようとはしない。むしろ自分の言葉を修正して学生のレベルに合わせていく。これができる知識人がとくに今のような時代に果たしてどれだけいるだろうかと考えるとちょっと感動すら覚えてしまう。なんでも下に合わせればいいってものでもないけどさ。

あまり三島の肩ばかり持つのもよくない。学生の方に目を向けると、まぁ基本的にはろくでもないなという印象がやはり強く、例の全共闘最大の(?)論客・芥正彦にしても情況を作り出すことで瞬間的にして無時間的な自由の世界(言語以前の世界ということでしょう)を現出させるんだみたいなざっくりしたゲージツ観念論を拙い言葉で繰り返すばかりで大したことは言わない。映画では現在の芥正彦がインタビューに応じているがひたすら自分に心酔し自分を演出する人で心から苦手なタイプ。

ただ、でも、しかし、そんな人たちが必死になって言葉で思想を紡ごうとしている姿はそれはそれで感動的ではある。全共闘に思想なんかないだろっていう身も蓋もない意見もありましょうが、だからなんですよね。俺にはあの学生たちが三島と思想を戦わせているというよりもむしろ、三島というある意味では空虚な象徴を通してあの場でリアルタイムに思想を作ろうとしているように見えた。今の論争というとほぼほぼポジショントークと同義語になりがちですが、そういう風にはなってない。正確にはたぶん、ポジショントークができるほど思想も立場もあの学生たちは定まってない。

こう言うと語弊がありそうですが映画の中の学生たちの言葉を聞いていてオウム真理教に入った人たちと似てるなと思った。何かをやろうとか何かを求めようとはしているんだけれどもいまひとつそれが何なのか本人たちもわかっていなくて、その思想的な基盤も生活的な基盤も具体的なものはなにもない、反体制といっても確たる動機がないから観念的な言葉や自分たちの場を作るだけの自足的な運動しか持ち得ない。あるいはだからこそ何かを渇望しようとする。オウムに入った学生との違いはそこにいたのが麻原だったか三島だったかということでしかないんじゃないだろうか。

で、それは三島も同じようなものだったのかもしれないとも思う。戦中戦後の時間に囚われた三島とそこから切り離された麻原は生きた時間はまったく違うかもしれないが、その思考が重なる地点がまったくないとは俺には思えない。三島の純化されたイマジナリー天皇を身体化しようとする行為は政治行為というよりもむしろ、俗世への執着を捨て理性を超えた境地に至ろうとするオウムの極限修行に近いのではないかとすら思う(その意味で、三島の語る天皇を芥が「絶対権力」と解釈するのは単純なようで、三島の天皇のコアに触れているのではないかと思う)

三島と東大全共闘の討論会は自分が何者であるか定まっていない人間が議論とも言えないような議論を戦わせる中で互いにアイデンティティを確立しようとした一種理想的な場であった、とまで言うのは美化が過ぎるし理念的に過ぎるのはわかっているが、俺にはそんな風に見えた。
麻原も影響を受けたことは間違いない『ノストラダムスの大予言』が出版されるのは討論会の四年後だ。運動は形骸化してアイデンティティの形成は消費行為と同義語になる。超越的なものの志向は空想的なものの志向と区別ができなくなっていく。

ナレーターの不倫人・東出昌大が映画の最後に「言葉が力を持った最後の時代だった」みたいなことを言う。そんなことはないと思うので俺なりにこれを改造してみると、たぶん、この映画に映し出されているのは言葉が身体と結びついていた最後の時代、他者と対等に言葉を交わす中で思想を作り上げていくことのできた最後の時代なのだろうとおもう。

※ところで映画には全共闘出身の橋爪大三郎とか全共闘の一個下? の内田樹とか全共闘にゆかりのある、またはその場に居合わせた人(あと楯の会のメンバーとか瀬戸内寂聴とか)が解説役で出てくるのですが、解説者の顔ぶれを見ても当時の映像を見ても寂聴を除いてとにかく男・男・男。全共闘がオトコノコの冒険だったとすれば続かないのも道理か、とか思った。新左翼の比較的長きに渡る闘争にはわりと女性活動家が主導的な立場で入ってるイメージがあるので。

【ママー!これ買ってー!】


美と共同体と東大闘争 (角川文庫)

本にもなってんすね。したたかなというかなんというか、こうやって流通することが何か時代の変わり目感があるというか。

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