《推定睡眠時間:0分》
女性主人公の変形西部劇構造はコーエン兄弟の『トゥルー・グリット』、アボリジニの青年とのロードムービー的な側面は『WALKABOUT 美しき冒険旅行』、と言っている人がいてなるほどと思った。俺としてはそれに加えて「最初っから特別完全版の『地獄の黙示録』」と言いたい。オリジナル版153分の『地獄の黙示録』じゃなくてオリジナル版からカットされた場面を追加した『地獄の黙示録 特別完全版』202分。そっちを先に観てしまったような感じ。
『地獄の黙示録』、オリジナル版と特別完全版で何が根本的に違うかってやっぱノリが違いますよね。オリジナル版は無責任で超イケイケ、ベトナム戦争がラリラリで楽しいお祭り騒ぎに見えてしまう。一方、特別完全版。こちらは真面目そのもの。オリジナル版の無責任な楽しさの裏側にあったもの…慰問公演に来たつもりのプレイメイトが飢えた米兵たちに強姦されたりだとか(あれは選択肢のなさを考えれば売春とは言わない)、幽玄なフレンチ・プランテーションの逗留シーンがフランス植民地時代の記憶と痛みを呼び覚ましたりだとか…ベトナム戦争の悪と欧米帝国主義の悪(プラスして男性性の悪)を観客に直視させる。
これはオリジナル版とは真逆のアプローチ。たのしいオリジナル版を観てから歴史講義のような特別完全版を観るとちょっと罪悪感を覚えないこともない。そのへん、『地獄の黙示録』のオリジナル版と特別完全版の関係は『この世界の片隅に』と『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の関係に似ている。
俺はそういうのあんまり興味ないので監督の意図は知らないと断った上で『さらにいくつもの』の製作意図を想像すると、『この世界の片隅に』をあまりに無責任に、あるいは甘美なおとぎ話的に、または右翼的ご都合主義的に受け止める観客が一定数いたので、作り手として『この世界の片隅に』では(おそらく観客の知性とか感性を信じて)あえて強く描かれなかった戦時下の生活にある(おもに女性の)搾取や差別の構造、その中での女性たちの儚い連帯と崩壊を明確に打ち出すことで、これが美的であったり感動ネタ的に消費すべきではない、誰もが被害者であると同時に誰もが加害者でもあるというような地獄の悲劇であると無責任な観客に自覚させようとしたのかもしれない、と思った。
『地獄の黙示録』も『この世界の片隅に』もどちらのバージョンが面白いかといえばオリジナル版の方が圧倒的に面白い。テンポも良いし気持ちよく観れる。でもそれだけじゃダメなんですよ、それは身勝手な現実逃避でしかないんだよ、というのがそれぞれの別バージョンで、両者ともに別バージョンでは一般人の戦争責任や加害性、女性の受難が前面に出てくるのは興味深いところだが、だが…でもやっぱ、オリジナルの方が面白いよなぁ…という思いも、無責任な観客としてはあるのだ。
これでなんとなく伝わりましたかね『ナイチンゲール』がどういう映画か。まぁ伝わったか伝わってないかは知らないが、俺にとってはとにかくそういう映画だった。もっとイケイケにやっちゃえばいいのにと思うがそっち方向には舵を切らない。あくまで真面目。だから『地獄の黙示録 特別完全版』と同じように盛り上がりそうで盛り上がらないし、その姿勢は136分というそこそこの長さにランタイムからも窺える。客を楽しませることしか考えない冷酷な編集マン(と配給会社の偉い人など)がスタッフに入ってたらたぶんバッサリ切って100分ぐらいになってたんじゃないだろうか。とくに後半のグダグダっぷりと盛り下がりっぷりがすごい映画なのでそのへんなんか切りまくりである。
一応どんなお話か軽く触れておくとオーストラリアのイギリス植民地時代のお話で、舞台は本土の流刑地として使われていたタスマニア島。そのころイギリス軍はタスマニアン・アボリジニの殲滅作戦にも乗り出しており、流刑人は奴隷としてこき使われアボリジニは虐殺されるという惨状。そんな環境だと人間もおかしくなってくるので必死に軍務をこなしていたつもりだったのに昇進の道が絶たれた将校が酒に酔ってご乱心、歌い手&性奴隷として使っていた女をいつものように強姦するに飽き足らず部下に命じてその子供と夫も殺させた。
本来ならば流刑期間は過ぎてるのでとっくに故郷アイルランドに帰れるはずなのに将校の一存で性奴隷にされ続けた挙げ句この仕打ち。てめぇらに生きる資格はねぇ。かくして女は復讐の旅に出る、が、一人では道もわからないのでアボリジニの青年を半ば脅す形でガイド権ボディガードとして復讐旅に引きずり込む。上司の上司に昇進を直訴するために能なしの部下二人と奴隷たちを引き連れて無茶な熱中行軍に出るクズ将校。それを追う女とアボリジニの青年。果たして世界の片隅の地獄の黙示録の行く末はと何かうまいことを言おうとして全然言えなかった。ごめんなさい。
で、こういうお話なのでやはり西部劇的なものを期待します。西部劇的というかマカロニ的というか。実際、序盤はそのムード。バイオレントでねちっこい厭ぁな強姦描写とかすごくマカロニっぽい感じ。『暴行列車』とかね。そこから始まるタスマニア地獄巡りも緊張感があって宿命の対決への期待高まる。
ところが後半は一転、グダる。さぁ復讐だ! と思ってもこれがなかなか復讐成就しない。敵はもうすぐそこに見えているのにたまたま知り合った入植者夫婦の家に転がり込んだりとか寄り道しまくり。『地獄の黙示録 特別完全版』っぽさを感じた所以である。
でも作ってる側が見せたかったのはそのグダつきなんでしょうね。だって観ている側が気持ちいい復讐譚にしたければ簡単です。犯されて家族奪われて帰郷の望みも絶たれた流刑奴隷の女が銃を手に取って法で裁かれない犯人の男たちを恐怖のどん底に突き落とした上で可能な限り惨たらしくぶっ殺す。終盤40分ぐらい内35分ぐらいカットするだけでそういう溜飲の下がるお話になる。これがハリウッド映画だったらそうする。っていうかそうさせられる。
散々期待を煽っておいてあえてそうしないことで浮かび上がってくるのは『地獄の黙示録 特別完全版』とか『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』に通ずる問題意識であったように思う。溜飲が下がると人はどんな悲惨なことでもさっさと忘れてしまうものだし、物事は単純な善悪二元論に回収されてしまう。『ナイチンゲール』がたいへんクレバーなのはその残酷を観客に叩きつける。そのための西部劇的前振りであったとも言える。
アボリジニは例外的に純粋な被害者として描かれているがそれ以外の登場人物は誰もが加害者であると同時に被害者でもある。主人公のアイルランド女はガイド役のアボリジニの青年を露骨に差別して奴隷として扱うし、復讐旅の過程で入植者の家から生活物資等々を強奪する、強奪された貧しい入植者は生きるためにますますアボリジニを憎悪するし、クズ将校でさえ軍隊ヒエラルキーの中でのイジメの上意下達に苦められていたりする。クズ将校の部下は将校の奴隷であり、自分の代わりになる奴隷をより弱い立場の者に求める。
この重層的な加害/被害構造。そもそも窃盗なんかの軽微な罪で流刑に処されたアイルランドの女がイギリス軍の性奴隷とされ、そんなの知ったこっちゃないアボリジニの青年に対して入植白人の主人として振る舞う、という基本設定の時点でだいぶビターである。
世界はそんなように解きほぐしがたい悲惨で溢れているのにどうして善悪二元論の復讐譚になどできようか。それ結局白人男性が自分に責任はないって思いたいがための逃避行為でしかないんじゃないすか。いや白人男性が悪いとも言い切れない。将校の命令で子供を殺させられた憐れな青年兵の最後の言葉はそのことを物語るし、だから、そこから、映画はマカロニ的復讐譚から逸れていく。
結局誰が悪いのかわからない。わかるのはただ世界の悲惨だけだ。このどうしようもない、誰もが悪いが誰が悪いわけでもない悲惨を目の当たりにしていったいどうしろと言うのか…ということで女はある行為に出る、復讐旅の中で女と心を通わせたアボリジニの青年もまた別の行為に出る。そこに何を読み取るかは観る人次第で、最後まで観客を甘やかさない、厳しい映画であったと思う。まぁ正直に言えば、俺は無責任な観客なので『特別完全版』じゃない勧善懲悪型の『ナイチンゲール』が観たかったとは思いますが…。
ちなみにその後、史実では虐殺に加えてイギリス軍が持ち込んだ疫病もあってタスマニアン・アボリジニは絶滅してしまい、現在では白人との間に生まれたハーフがその血を細々と受け継ぐのみとなっているらしい。
【ママー!これ買ってー!】
女の受難と男の帝国主義と加害被害のまだら模様プラス自然と文明の相克を田舎の一軒家にぶちこんだフェミニズム・ホラーの大傑作。ザ・ウーマンが立ち上がる瞬間は何度観ても涙が出るしウィル・フェレルみたいな凶暴親父との対決はおしっこ漏れる。サントラも必聴。
こんにちは(連投すみません)。
自粛あけ最初の映画はコレでした。自粛前最後の映画は『人間の時間』でしたので、血みどろ具合は平常運転です。
私には、進軍中の力関係の変化が面白かったんですが、ナルホド、特別完全版であり、さらにいくつものであったわけですね。伝わりました。
地球の北と南をそれぞれ故郷とする二人が、海に向かって魂をうたう、その歌は巡り巡ってまた今ここへも伝わるのだ…なんて思いました。
ふつーに映画が楽しめる日常が戻りますように…
あの兵隊たち+奴隷たちの関係性の変化はなかなかイヤァな感じで面白かったですね。人間ってこういう風に壊れていくんだなぁみたいな。連合赤軍的というか笑
それとは対照的な奴隷女とアボリジニ青年の交感はお涙頂戴的な甘さが一切ない分だけ染みました。