やれ新型コロナだ緊急事態宣言だと今日も現実は騒がしい。ウィルス退治のために巣ごもりしてろと感染症の偉い先生たちは言うし、だったら現実の喧噪など忘れてホラー映画の世界に逃亡するのが吉。まぁこういう機会ですからこの際ふだんはあんま観なかったりするタイプのホラー映画に触れてみるのもいいだろう。
というわけでアマプラ無料にあった名前だけはちょっと映画が好きな人なら聞いたことがありそうな定番&古典をピックアップ。案外観てないんですよね、こういうの。観てるやつは帰れ。
『サスペリアPART2/紅い深淵(完全版)』(1975)
77年製作の『サスペリア』が日本で当たってしまったのでじゃあ同じ監督の怖いやつ配給すればそっちも当たるだろう、ということでストーリー的にはなんの繋がりもない上にそもそも『サスペリア』よりも前に製作されているのに勝手に続編的な邦題で公開されてしまった可哀想な名品。
ダリオ・アルジェントのジャーロ路線からホラー路線への橋渡しとなった一本で、ストーリー的にはジャーロなので比較的オーソドックスな連続殺人犯人捜しミステリーだが、インパクト絶大な不気味人形や霊能力者、禍々しい絵や『サスペリア』にも通じる秘密の部屋といったオカルト的な道具立て、嬲るような残虐な殺しの数々はホラーといって差し支えないだろう。
その後のアルジェント映画を音楽面で支えることになるプログレバンドのゴブリンとのコラボはこれが最初。惨劇を暗示する奇妙なオブジェクトの数々をゴブリンのデモニッシュなシンセサウンドに乗せて見せていく殺人鬼の心象風景は鮮烈も鮮烈。犯人の正体や事件の真相は実は早くから錯視的に提示されていた、というアルジェント流のだまし絵トリックが冴え渡る名シーンになっている。
完全版は捜査パートと若干の喜劇・恋愛要素が加味されてショートバージョンよりドラマしっかり、緩急しっかり。そのおかげで事件の陰惨さに反して全体的にのんびりしているが、このイタリア的余裕も映像魔術師以前のアルジェント映画の味だと思っているので個人的にはショートバージョンよりもこっちのが好き。昼の明るさがあればこそ夜の静けさとそこに蠢く狂気も映える。まぁそもそも、これ書いてる時点でアマプラには完全版しか無いわけですが。
ちなみにアマプラ無料では現在のところこれもアルジェントの代表作ホラー『フェノミナ』も配信されているが、ホラーゲームの『クロックタワー』は『フェノミナ』と『サスペリア』を、『クロックタワー2』はこの『サスペリアPART2』を主な元ネタとしてるというのはプチトリビア。
サスペリアPART2 (完全版)(字幕版)[Amazonビデオ]
『スキャナーズ』(1981)
何を代表作とするか問題はあるが一応、その間口の広さと面白さからいってデヴィッド・クローネンバーグの代表作ってことでいいんじゃないか的なサイキック・ホラー。他人の心を読むことの出来る超能力者、通称スキャナーを人材活用する警備会社のデモンストレーションで事件発生。スキャニング実験を行っていたスキャナーが突如ぶるぶる震えだしたかと思うと顔面が引きつりやがて頭部が大・爆・破! どうも犯人はスキャナー地下組織を率いる謎の男レボック。スキャナー狩りを開始したレボックを止めるべく、記憶を失った自らの存在を確かめるべく、警備会社に捕獲されたスキャナー・ホームレスのキャメロンは動き始めた。
フォロワーやエピゴーネンが無数にある今となってはさすがに新奇性は薄れるが(飯田譲治の『NIGHT HEAD』とか塚本晋也の『鉄男Ⅱ』なんか露骨)、身体の変容を通した人間の解放を描き続けるクローネンバーグが脚本も書いた映画なので独創的なアイディアいっぱい。脳内が常に他人の声で満たされたスキャナーは統合失調症患者をモチーフにしているが、声の受信ができれば送信もできるだろう、ということで念波を送ることで相手の脳を過負荷にして物理的に破壊する中心アイディアがまず面白いし、コンピューター回路と意識を同化させてのハッキングとか腹の中からスキャニングを仕掛けてくる胎児スキャナーとか、絵面的にはクローネンバーグ映画の中では大人しい方だがその変態レベルは高い。
人間をデジタル的に捉える視点は後年の『ビデオドローム』や『イグジステンズ』に繋がっていく。闇スキャナーのレボックをマイケル・アイアンサイドがさすがの顔面力でふてぶてしく怪演、クローネンバーグ映画には珍しくカーチェイスや銃撃戦なんかの派手なアクションあり、ハワード・ショアの心をざわつかせる低温スコア、グロテスクな人体崩壊や精神崩壊、横道に横道にと逸れながらも一直線に宿命の対決へと向かっていくミステリアスな展開も素晴らしい傑作超能力こわい映画です。
※『スキャナーズ』には続編・リブートが何本もあるが、今現在アマプラ無料では3作目までは観れる。
『帝都物語』(1988)
荒俣宏の同名伝奇小説シリーズを監督・実相寺昭雄、脚本・林海象、出演は勝新太郎、宍戸錠、石田純一、佐野史郎、原田美枝子、いとうせいこうから坂東玉三郎まで…というジャンルレスかつ豪華絢爛な俳優陣で映画化したSFオカルト超大作。地下鉄の導入を軸とした帝都改造計画が持ち上がる中、魔人・加藤保憲は平将門の怨霊を蘇らせ帝都の壊滅を目論んでいた!
…というすごそうなお話なのだが驚くほど全然盛り上がらない。あまりに淡々としている上にストーリーはとっ散らかっているし目玉の式神バトルも迫力に乏しいので困惑してしまう。
美術監督に木村威夫、コンセプチュアル・デザイナーに『エイリアン』でお馴染みH・R・ギーガーまで招聘しておいてこんなんでいいのだろうかと思ってしまうが、まぁでも、客的にはどうか知らないが作り手的にはたぶんこんなんでいいんでしょう。
きっと作り手が見せたいものはアクションとか恐怖とかそんなものではない。空想帝都に蠢く魑魅魍魎奇々怪々、絢爛たる人間模様と変容を続ける都市こそが映画の中心。嶋田久作が重量級の存在感で演じた魔人・加藤保憲を一種の狂言回しとして、空想帝都のパノラマを楽しむ見世物映画なのだ。
舞台劇的な淡泊演出も様式美と捉えたらいいんだろう。枯山水を眺めるようなというか、次々と投下されては放置されていく豪華俳優陣であるとか式神・妖怪・奇天烈メカ、それにいかにも作り物っぽいいかがわしさを帯びた空想帝都の異風景を、ただ眺めることに快楽を見出せる人には楽しめるに違いない。一応続編の『帝都大戦』も現在アマプラ無料にあり。
『フリークス(怪物圑)』(1932)
最近ではダーク・ユニバース構想としてリメイク的復活が予告されたもののその第1作目『ザ・マミー 呪われた砂漠の王女』の興行不振によりあっけなく復活が頓挫したことでも知られる(知られなくていい)ユニバーサルのクラシック・モンスター・シリーズですが、その中でも『フランケンシュタイン』と並んでキャラ的にも映画的にも大成功を収めた『魔人ドラキュラ』の監督トッド・ブラウニングによる、これはフリークス映画の古典にして決定版。
なにせ出てくるフリークスのほぼ全員が本物というか本職の巡業芸人。フリークスを見世物にした巡業サーカス団にずる賢い健常者の女が紛れ込んだことから巻き起こる惨劇というのがおおまかな筋だが、トッド・ブラウニング自身サーカス出身の監督のため、そんなことよりもフリークス芸人たちの持ち芸をひたすら撮る。フリークス芸人を見せるだけに撮られた映画という点で比肩するもののないフリークス映画であるし、自分たちの世界を心ない健常者に脅かされるフリークスたちの恐怖と、フリークスたちの日常を踏みにじった健常者が報復として晒される恐怖の両面を描いたという点でフリークス・ホラーの極北。
絶対にダーク・ユニバースとしてリメイクされないどころか同じような内容の新作を撮ることさえ確実に不可能な映画の代表格なので教養的に一度ぐらいは観ておきたい。
『フランケンシュタイン』(1931)
ユニバーサル・モンスターとは端的に言ってフリークス、アウトサイダーであった。というわけでティム・バートンを筆頭に後の異形系映画人に多大な影響を与えたジェームズ・ホエールの映画史に残る傑作『フランケンシュタイン』もただ図体がでかくて顔が恐いというだけ無知で排外的な田舎者群団からぶっ殺されそうになるという可哀想なモンスターを描いた映画。
フランケンシュタインはもともとマッドサイエンティストの名前なので今フランケンシュタインとして知られるツギハギの怪物は正確にはフランケンシュタインの怪物という。原作のフランケンシュタインの怪物は映画版で描かれる鈍重な大男とは似ても似つかない知性派の人造人間で、そのイメージは『ブレードランナー』のロイ・バッティに近い。ストーリー自体も辛うじて数シーンかする以外はまったくの別物なので、原作にあったフランケンシュタインの怪物のフリークス性、悲劇性を抽出して怪物を演じるボリス・カーロフ(と、その怪奇特殊メイク)に託した怪物一本勝負の映画といえる。
その意味ではこれもまた『フリークス』。胡乱な眼差しでともだちになってくれた少女を見つめる怪物の哀愁が実に刺さる、泣きのホラー・クラシックである。
ちなみに原作エピソードをもう少し生かしたのがこちらも映画史上の名作の誉れ高い続編『フランケンシュタインの花嫁』。
『透明人間』(1933)
フランケンシュタインの怪物はマッドサイエンティストに望まずして創造されてしまった可哀想な存在だったが、これまたユニバーサル・モンスター族の『透明人間』は科学者が自らモンスターと化してしまう話。監督は『フランケンシュタイン』と同じジェームズ・ホエールで、『フランケンシュタイン』も悲劇だったが『透明人間』も他人とのディスコミュニケーションや恋人とのすれ違いを描くホラー・メロドラマとなっている。基本的にみんな可哀想なユニバーサル・モンスターである。
さて『透明人間』というぐらいだから人間が透明になります。当たり前ですね。当たり前ではあるが製作1933年、コンピーターグラヘクスなど当たり前に使えない中で特殊効果マンが知恵を絞った透明効果の数々は逆に今観るとマジカル感すごい。顔面をいろんなもの(※雑な認識)で覆った透明人間が付け鼻とかサングラスとかを一個一個外していくとインビジブル空間が! みたいな場面は今観てもなかなかグロテスクでショッキング。
しかし本当に恐いのは透明薬の作用もあって怒りが制御できなくなってしまった透明人間がどうせこのまま元の姿に戻れないならと犯罪行為に躊躇なく手を染めるようになっていくところだろう。他人から見られることのできなくなった人間のなんと悲惨なことか。あるいは自分たちと姿形の異なる人間に対してノーマルに属する人間はなんと容赦のないことか。透明人間も恐いが姿の見えない悪に怯え心の余裕をなくしていく群衆も恐い。なんとなく、タイムリーである。
健常者たちに追い詰められた透明人間は破滅の道を突き進む。元祖無敵の人といったところ。その姿がようやく見えたのは…というラストが切ない。
『カリガリ博士』(1919)
フランケンシュタイン博士とか透明人間博士とかクラシック・ホラーの世界にはおそろしい博士がたくさんおりますが、その中でも独自のポジションを占めるのがカリガリ博士。なにやら生気を欠いた男が語る恐怖体験。それは眠り男チェザーレを使った見世物興行主のカリガリ博士が企てるおそろしい犯罪に関するもの、のはずだったのだが…。
なにはともあれドイツ表現主義の代名詞的な映画として有名なのでパースの狂ったシュルレアリスティックな書き割りセットがまず目を引くが、『フランケンシュタイン』にも影響を与えたと言われる眠り男の閉じ込め症候群的相貌やゴス系ファッション、不条理で神経症的なストーリー、無数のエピゴーネンを生むことになったびっくりラストとすべてが悪夢の中をさまよっているような独特の感覚を醸し出す。人を呪っているようでも必死で助けを求めているようでもある眠り男の眼差しなんか実に気持ち悪くて最高。彼もまたこんな悪夢を見ているんだろうか。
一見するとホラー映画史に屹立する怪異作だがカリガリ博士と眠り男はおそらく精神分析の源流でもあるメスメリズムと呼ばれるオカルト医学をモチーフにしている。その文脈から映画を読み解いてみるのも一興。
『霊幻道士』(1985)
キョンシー映画ブームの火付け役。道士様説得力がビジュアル的にすごいラム・チェンインとそのダメな弟子二人組(片方が『Mr.BOO』のホイ三兄弟のリッキー・ホイ)が中華版ゾンビ&吸血鬼のキョンシーと女幽霊の怪に挑む。
基本的にはコメディで師匠の言いつけを全然守れない弟子たちの『附子』的ギャグやドリフ的マイム芸の数々には笑わされるが、ハマー版『吸血鬼ドラキュラ』や『ゾンビ』をそのまんまパクったと思しき造形のキョンシーは案外こわい。一切話が通じずただひたすら本気で殺しにかかってくるし息を止めている間は襲ってこない設定がまた絶妙。キョンシーを目の前にして息を止めるシーンの生殺し恐怖…からの人でなしギャグの流れはホラー・コメディの理想型だ。
優れた道士ではあるが案外せこかったり見栄っ張りだったりと人間臭いところもあるラム・チェンインのギャップ萌えキャラクターもよし、即席合成を駆使したファンタジックなカンフー呪術バトルもよし、女幽霊の可憐さ、近代と前近代の狭間の時代設定、全然内容に合ってないが素朴で心の洗われるテーマ曲、などなど香港映画的オモシロ要素満載。なにがなんだかわからないが強引に納得させられる力業のラストも必見っ!
『ゴジラ』(1954)
『ゴジラ』をビデオ屋のどこの棚に置くべきかと問われてホラー棚と答える人は皆無だろうと思うのだが、初代ゴジラはやはり怖い。眼が怖いですね眼が。『シン・ゴジラ』の通称「蒲田くん」も特撮ファンは愛されキャラみたいに言うが俺はあの眼が本当に怖かった。なにも考えてない胎児の眼。無邪気にそこらへんを歩き回っているだけでプチプチと人間を踏み殺して肉片にしていく怪物の、コミュニケーションの不可能性を知らせる眼。形は違えどその眼の怖さは初代ゴジラにもあったものだと俺は思う。
お馴染みのテーマ曲も高射砲のような和太鼓(?)が重く響き渡るイントロがやがて訪れるであろう破局を予感させて怖い。ゴジラが客にとって既知の存在であることが作劇の前提となるシリーズ作と異なりゴジラ登場まではミステリーとして進行することもあって、刻々と近づいてくる逃れようのない死の風景を強く意識させられるのが『ゴジラ』だ。そしてあの眼。山の向こうに姿を現した存在するはずのない巨大な未知の怪物の、あらゆる理解を拒む異形の眼が観客を捉えるときに、そこに生じているものはまごう事なき「ホラー」なのである。
『悪魔のいけにえ』(1974)
人間は怖いものを恐れるのではなく理解できないものを恐れるらしい。殺害数が多いわけでもないし殺害方法も取り立てて残忍というわけでもないのに(残忍でない殺人などありませんが…)エド・ゲインが伝説的シリアルキラーとして今も米国殺人鬼業界の頂点に君臨しているのは死体で家具とか作っちゃう奇行のおかげ。そうですよね普通の人は死体で家具とか作らないもんね。西友とかで買えばいいし。だがともかくエド・ゲインは死体で家具を作った。食器も作った。調度品も作った。せっかくだから食べたりもした。そこまでされると逆に死体を粗末にしないで偉いなとか思ってしまうのだから人間とはおそろしいものだ。まぁ、それはさておき…。
監督のトビー・フーパーはあまり意識しなかったと語っているが少なくとも一般的にはエド・ゲイン事件の影響下にある映画として理解されているのが現代ホラーの金字塔『悪魔のいけにえ』。なんか前にもこのブログのアマプラリコメンド記事で書いた気がするし今更説明も不要だと思いますから詳細省きますが、エド・ゲインみたいな人はわりと田舎にいるよっていう米国恐怖譚です。死体でなんでも作るアウトサイダー・アーティストのおうちに土足で踏み込んだ無礼な都会の若者たちがみんな肉片になる。
事件の発端は墓荒らし。即物的な恐怖描写が怖いのはもちろんだが、その現場にやってきた地元の酔っぱらいが呟く「俺は知ってるんだ…」の一言と、その言葉を不自然に聞き流す地元住民たちの表情が、実はいちばんおそろしかったかもしれない。理解できないものを目にしたときに、人は理解するよりも目をつむることを選ぶのだ。
悪魔のいけにえ 公開40周年記念版(字幕版)[Amazonビデオ]
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『ガス燈』(1944)
ガスライティングの語源になった、と言うとネタバレになってしまうサスペンスの古典。さすがにこれをホラー扱いするのは無理があるが、叔母の殺されたロンドンのいわく付き邸宅に移り住んだうら若き歌手の卵が経験する恐怖体験というプロットだけ見ればこれだって立派なホラーなのだから、結局ホラーなんてどこに視点を置くかの問題でしかないのかもしれない。
ヒッチコックの『サイコ』は序盤こそ被害者に視点を置きつつも中盤からは主に殺人鬼ノーマン・ベイツに視点を置いていたが『ガス燈』は基本的に一歩引いた三人称、これ見よがしなホラー演出もなく主人公イングリッド・バーグマンの経験する恐怖体験が何者かの仕掛けたトリックであることはその視点によって暗に観客に示されている。
だがそこには主観的な恐怖とはまた別の恐怖がある。卑劣な犯人の罠によって最初こそ聡明で自立した女性だったイングリッド・バーグマンが次第に自己を見失い無力で従順な人間に馴致されていく精神的虐待の過程は、それが第三者目線で冷徹に描かれている分だけおそろしく感じられるし、同時にサディスティックで後ろ暗い愉楽も感じると素直に告白しておく(だからこそラストの大逆転が痛快なのだが)
なにもチェーンソーで切り刻んだり怪獣が踏みつけたりしなくてもこんなに簡単に人間は壊れる。その身も蓋も無さはやはり、ホラーなのである。