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最近ツイッターでよくリツイートされている(22万ぐらい行ってたような)動画に三世代の黒人のストリート討論というのがある。例の警官による黒人殺しに端を発する大暴動を受けて50代だかのオッサンと30代だかのオッサンと16歳の若者が出てきて、で50代はめっちゃキレてる。これで何回目だ! なぜアメリカは変わらないんだ! 俺たちはなんでずっとこんな目に遭う!
それに対して30代はこう出る。言ってることはわかるけどよ! そりゃ俺だって許せねぇけどよ! でも暴動は違うじゃねぇか! 暴動で何も変わったりしねぇじゃねぇか! とキレ諭す。そして30代が引っ張り出してくるのが16歳。おい50代! こいつは16歳だ! 俺ともあんたとも違う! なあ16歳よ! この黒人殺し! この暴動! この光景を目に焼き付けてくれ! そしてお前は50代も30代も成し遂げられなかったもっと良い道をなんとかして探すんだ! 探してくれ!
実に感動的であるがなんとなく白けてしまうのであった。なぜならそれはあまりにも劇的で、あまりにも明瞭で、あまりにも我々(誰?)が望む「差別と戦う黒人たち」だったから。要するに作り物っぽいのであるが別にヤラセだとかヤラセじゃないとかそういうことを言いたいのではない。そんなことはどうでもいい話で、あたかも被差別者の被差別者らしさを消費するかのような動画の拡散が、その大半が反差別的な意図でもって善意でなされたものだとしても、結果的に被差別者の実相を覆い隠してステロタイプに押し込める、差別構造の再生産として機能してしまっているように俺には見えたのである。
『ルース・エドガー』はそのような悪意なき差別構造とステロタイプに関する変種のポリティカル・サスペンスであった。アフリカのどっか知らない国で少年兵として育った主人公はアメリカのリベラル白人夫婦に引き取られてルースの名を与えられる。洗脳を解いて心的外傷を癒やして教育を与えて…気が付けばルースくんは陸上部のエース兼リーダー兼、容姿端麗成績優秀なスピーチの名手で高校の総代というオバマ前大統領みたいなドリーム黒人と化しているのだった。
末は博士か大臣か。ここにあったかアメリカンドリーム。だが、そんなルースくんにベテランの直感で危険な兆候を感じ取った教師がいた。直感に従って無断でロッカーチェックを行うとそこにあったのは火薬量的に違法な花火。果たしてルースくんは何を企んでいるのだろうか…。
ネタバレ的な意味ではなく結論から言ってしまうとめちゃくちゃどうでもいい話であった。もうね、本当どうでもいいですよ。花火事件を機に教師ハリエットとルースくんは対立、お互いに家族友人を巻き込んで人生を狂わせていくのだが、その狂いにしたって腕時計が5分遅れてたくらいの狂いなので大したことのなさも甚だしい。でも出来事としての大したことのなさが本人の個人史の中では大事件っていうのはありますからね。コンビニでガム一個盗んだことを大人になってもずっと悔いてる人だっているわけでしょ。いやいるか知らないけどさ、まぁ、いることにしよう。います! そんなことはどうでもいいんだ。
とにかく、大したことがない。事件の核心も大したことがなければそのもたらした結果もまた大したことがないのだが、その大したことのなさでアメリカを抉る抉る。もうザクザクとあちらこちらを抉る。批評的スプラッターのような映画だ。
抉りの例。教師ハリエットは中年の黒人女性。この人は良い先生なのだがとても厳格。とくに黒人生徒や女子生徒には当たりが強い。アメリカ黒人にとってどう振る舞うかは命の問題ってんでやたら規律を守らせようとする、女が声を上げないことは人生の問題ってんで痛みの告白と闘争を促す。
ミネアポリスの黒人殺しを見ればこの先生の言うことはもっともであるし、metoo運動を見てもやはりもっとも、まったく正しいのであるがその正しさに拘泥するあまり当の黒人生徒や女子生徒には抑圧的に感じられてしまう。この皮肉と逆説。ハリエットを演じるのが『ドリーム』で人種的・性別的ハンデを乗り越えてNASAの黒人計算手となったドロシー・ヴォーンを演じていたオクタヴィア・スペンサーなのだから意地が悪い。
抉りの例。さてそういうわけでオバマ的なアメリカンドリーム街道に今まさに入らんとしている黒人優等生だからこそ花火持ち込みとかいうルースくんの些細な些細な不法行為疑惑を追求するハリエットなのであったが、ルースくんはいかに真っ黒な影がありそうに見えたとしても優等生は優等生なので暴力に訴えたりはしない。ルースくんの武器は知性と弁舌とマイノリティ人生の中で磨き上げた人心掌握術であった。ハリエットとのバトルが激化してくるとルースくんどんどんセコい手を使うようになる。いつしかそのことに躊躇いもなくなった。
清く正しいアメリカ人であろうとすればするほど汚い人間に堕ちていく。これは二重三重の皮肉である。ルースくんを聖人に仕立て上げたのはアフリカの少年兵とかいうベタベタな不幸人を自分たちの手で救いたいと望んだリベラル白人夫婦のある種のエゴであった。ルースくんに理想の生徒の役割を押しつけたのはそうすることで多様性の尊重と教育の質の高さをアピールしたい学校側であった。ルースくんはそんな周囲の期待に応えることで名誉アメリカ人となっていく。そしてその虚像を守り抜くために小さな嘘を重ねることで、ルースくんは自分に割り当てられた「役」を演じることを自己の存在価値とする、真性のアメリカ人となったのである。
例の黒人三世代動画を見て印象に残ったのは16歳の少年の表情だった。それは先行世代から変革の意思を譲り受けた人間の崇高な決意の表情にも見える。あるいは、急にオッサン同士の論争に巻き込まれた挙げ句勝手な望みを託されて恐怖と困惑で硬直した表情にも見える。だが16歳の少年が何を思おうがそんなことは短いながらも濃密な(そしてベタな)黒人三世代のドラマの中では意味を成さない。彼はあの動画の中で「希望」の役名を与えられて、視聴者はその「役」を見たからこそ感動したのだ。
30代の叱咤激励に対して彼がもし「いや、俺巻き込むのやめてくれないすか…」とか言いながらその場で『あつまれ どうぶつの森』でもやり始めていたらあれほど動画が拡散されることはなかったんじゃないだろうか。彼はあの動画の中で希望を演じて(たとえ10分間でも、数秒でも)スタアになった。それは祝福であると同時に呪いでもあるだろう。だって彼がもしコンビニでガム一個盗んで逮捕でもされようものなら視聴者の皆様は希望の失墜に大いにガッカリして罵声を浴びせかけるであろうから(なんだか最近そんなような事件がありませんでしたっけ?)
『ルース・エドガー』に話を戻せば、ルースくんが自分に関するスピーチをする場面で講堂の雑音が一瞬消えるところ、あれはちょっとだけ鳥肌もの。このルースくん=ケルヴィン・ハリソン・Jr、A24サスペンスの『イット・カムズ・アット・ナイト』でも無言の演技とか間の作り方が独特で良かった人ですが、こっちでも善人は善人なのだが腹の読めないところがあってなんとなく近寄りがたい人を好演。いいんですよ透明に気味悪くて。
あとオクタヴィア・スペンサーももはや持ちネタと言える教師キャラをナチュラルに出してきて良かったですし、今回ささやかな裸体もありということでここは見所でしたね。全体的にセックスが殺伐としている映画だったのでオクタヴィア・スペンサーの半裸姿はオアシスのようなものです。ナオミ・ワッツとティム・ロスのセックスなんて死体でも解体してんのかと思ったもの。
アメリカン・ドリーマーを演じるルースくんは帰るべき自己を他に持たない。少年兵の過去にはもう戻れないし戻りたくない。アメリカもそれを望まない。土地と結びついた過去をひとまず無かったことにするのがアメリカ移民の最初の仕事。そうでもしないと憎まれ叩かれ撃たれるばかり。アメリカの保守連中ときたら酷いものだ。何か一つでも違いを見つければ犯罪者認定、ムスリムは自爆テロリストだし黒人は強盗だしメキシコ人はドラッグの売人に決まってる。
でもリベラルはリベラルで酷いものだ。保守は移民にヴィラン役を押しつけるがリベラルはヒーロー役を押しつける。ヴィランは能動的になにかをしなくてもヴィランでいられるがヒーローは戦わないとヒーロー扱いされない。希望を背負わないといけない。戦い続けるのも希望を背負い続けるのも大変なことだし、そんな無茶は腐敗の土壌になるだけだろう。
元少年兵の二代目オバマとかいう超設定のプリズムを通して見えてくるのはアメリカで役なしの「本当のあなた」を生きることの不可能性なのだった。だいたい、「本当のあなた」さえ瞑想とか自己啓発とか精神分析を通して作り上げてしまうアメリカなんである(だから、劇中でいちばん痛ましくも美しい場面は、実はルースくんでもハリエットでもなく、何役を演じることも徹底的に拒んで自由に生きようとするある人物が、人に無理矢理着せられた役を脱ぎ捨てる場面なのだ)
※あとヒラメ顔の女子生徒はカプチーノを飲み過ぎているしアメリカのカプチーノめっちゃでけぇっていうところもおもしろかったです。
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すごい本当っぽい嘘を平然と言ってのける異常者じゃないとアメリカ大統領なんかになれないよというお話。