《推定睡眠時間:40分》
ちょうど目を覚ましたところで日本刀でゾンビをパカパカ斬ってくニューエイジ仏教徒のティルダ・スウィントンが突如現われた謎UFOに回収されてしまったので呆気にとられるほかなかったのだが、ゾンビ映画とUFOといえば『アンデッド』もあるし『ワイルド・ゼロ』もあるし『ゾンビ自衛隊』とか『クリープス』とかその他もろもろあるので呆気ポイントはUFOの登場ではない。つい先日ラジオでやってた評論家の荻上チキによるジャームッシュのインタビューで荻チキ、「(ティルダ・スウィントンの)なんでも斬れる日本刀に込められたメタファーは?」とか聞いていたのである。いやお前これ観てそんな質問してたのかよ!?
あのUFOシーン観ながらそれ思い出しちゃっていやもうなんていうかさ、評論家って頭良いけどバカだな~っていうか、それが荻上チキさんの才能といいますかお仕事といいますかなんですが、それはわかるんですが、わかるんですがでも日本刀でゾンビ切る人がアブダクション(帰還?)されるバカ映画をそんな真面目に捉えていいのかな…! いいも悪いもないとは思うのですがほら、『アタック・オブ・ザ・キラートマト』に殺人トマトが出てくるからって環境保護的なメッセージをそこに読み取る人っているのかな…! みたいな、そういうのあるんです。そういうのあるんですよ! まぁ、自由だけれどもね映画をどう観るかなんて!
はい早くも脱線。でもいいよね『デッドン』も脱線の映画だったもんね。わあ! 略したらウルトラ怪獣みたいになっちゃった! 俺はUFOより怪獣出した方が面白かったと思うよ。あのUFOなんもしないしな。破壊光線でも三本足でも出してあんの町ごと吹っ飛ばしちゃえばよかったのにね。そしたらもっと盛り上がったのに。ジャームッシュの映画に盛り上がりを期待してもしょうがないのだが。とはいえ、UFOの肩すかし感がやばすぎるのも事実だ。あまりに肩すかしで無意味なのでここに何らかの意味を求める糞真面目な批評家が出てきてしまったとしてもそれは糞真面目な批評家の責任ではないだろう。
俺としてはなるほどなと思ったのであった。タイトルが『デッド・ドント・ダイ』でしょ。で登場人物はあちこちでメタ的な台詞を言って「なんでそれを知ってる?」みたいな問いが繰り返される。これはゲームの『SIREN』みたいなネタだろって思うよね。思うでしょ。だってほらティルダ・スウィントン仏教やってるし。輪廻転生とか永劫回帰の展開だろうなって思うよ。死ねないゾンビと反復する惨劇。ははぁんなるほどそう来たか。その反復時間にUFOと宇宙人が一役買うわけですなぁ! ま、関係なかったですけどね。登場人物がメタ的な台詞ばかり言うのは「台本を読んだから」なのでした。なんだよそれ! なんだよそれ!
ただまぁ物語として整理されていないというか整理する気がないだけでモチーフとしては一応そういう感じなんだと思いますよ。ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ演じるホラー映画マニアみたいに消費社会にどっぷり浸かっちゃった人は終わりなき消費の循環に欲望を投げ込んで常に欲しい欲しいもっと欲しいと欲望に突き動かされることになる。それ即ちゾンビ。消費社会と物質文明が人間を欲望ゾンビにしてしまう。映画の導入は物質文明を捨てて森に生きる人と強欲農場主の対立なのだし、町のみんながどんどんゾンビになっていく中で森に生きる人だけはゾンビになってませんでしたしね。仏教やってるティルダ・スウィントンはUFOで彼方に解脱だ。
冒頭で今更感など一切気にせず『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のまんまオマージュをやってることを考えればロメロのゾンビ映画の再構築を狙ったことは明白に思われるが、とくに、『ゾンビ』で提示された死んだ後も毎日ショッピングモールにやってくる空虚なゾンビ像は『デッドン』の核だろう。精神性を失い消費社会に埋没した主体なき個としてのゾンビ。ジャームッシュの映画といえばデッド繋がりで『デッドマン』が物質文明からの逃走と死、自然と未開の中での再生を描いた映画だったし、『ゴースト・ドッグ』は『葉隠』をバイブルにするヒップホップ暗殺者(設定のパンチが強すぎる)の生き様を描いた映画だったが、共通するのはアンチ物質文明の姿勢。
どう物質文明の呪縛から逃れるかというのがわりと初期から一貫するジャームッシュの関心事で、『デッドン』もそこから発想された映画だろうし、その意味で西洋の物質文明に対する東洋の精神主義のシンボルとしての日本刀に着目した荻上チキはちゃんと映画を観て評論家として言うべきことを言っていたわけだ(ちゃんと観すぎていると思うのだが…)
言いたいことはわかった。わかりましたが問題はだね…やっぱ面白くないんじゃないかな、これ。オフビートだからゾンビ映画っぽい見せ場をつまんないギャグにしちゃうしな。だいたい野暮ですよ。そんなさ、物質文明批判なんてさ、わざわざこうやってロメロ映画を再構築するまでもなく『ゾンビ』で見事に表現されているではないですか。そしてそうした批判すらYouTubeの中の出来事として反復消費してしまう現代をロメロは『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』で自己言及的に展開してるじゃないですか。物質文明の乗り越えのビジョンだって非ゾンビ映画の『ナイトライダーズ』でやってるんですよロメロは。
それを今更再構築してもさぁ…別に無駄ってことはないでしょうけど、ロメロ映画観ればいいじゃんってなる。食人描写の意外な本気っぷりは良かったしイギー・ポップのロボットみたいなゾンビ演技も面白かったすけどね。っていうかその10分後ぐらいにはもう寝てるから他にどんな面白ポイントがあったのかよくわからん。よくわからんものを適当な印象でつまんねぇとこき下しているのか! とお怒りの方もおりましょうがそれこそが物質文明的態度というものです。
映画なんて自由に観たらいいんです。寝ちゃったら寝ちゃったでいいんです。もったいないとか作り手の冒涜とか言うのはいかにもさもしい。たとえ100分の映画で95分寝たとしてもそれはそれで一つの映画体験だし、むしろそれは大量生産される複製技術時代の芸術に個的な質を与えるある意味で映画芸術を物質文明から守るための…(ブツブツ)
まぁ、とにかく、俺にはあまり面白いゾンビ映画ではないかった。面白いジャームッシュ映画でもなかった。映画好きな人ならなんとなくわかると俺は信じるのですが「アート系監督がジャンル映画を撮る時は脚本をちゃんとジャンルのプロに任せろよ…」っていうジャンルの映画があってですね、これ、それ。それだし、脚本に非アート系の脚本家入れてたらやっぱUFO使って『SIREN』みたいなゾンビループものにしてたんじゃないかなぁって思いますよ。これじゃあやっぱオチが付いてないもの。アート映画ならそれでいいかもしれないけどやっぱオチ欲しいよゾンビ映画は。
ジャームッシュは未完成なものの可能性をいつも称揚するけどキャリア数十年の映画監督が未完成の可能性なんて捉えられるわけがないんだからそんなのもう素直に諦めてほしいな。それにだいたい未完成であることが作風になってしまったらそれもう未完成じゃないから。荻上チキみたいにさ、そういう作家のスタンスをお行儀良く汲んでさ、テーマがどうとかメタファーがどうとかっていう消費の仕方をする人が当たり前のように出てきちゃったらさ、未完成のプロジェクトなんて終わりなんだよ。作り手にも観客にももはや何のショックもサプライズもない。
『デッドン』のつまらなさってジャンル映画的な見せ場の淡泊さとかっていうよりもそこにあるんじゃないかな。ジャームッシュの馴染みの俳優連中呼んで、いつものように好きなようにジャンルを解体して、でそれが、ジャームッシュ節としてジャームッシュ映画が好きな人だったり作家に理解のある評論家に安全に消費されてしまうことのつまらなさ。つまらない田舎の日常(+ゾンビ)を描いたら映画までつまらなくなった、というのは作家の映画としてある意味正しいのかもしれないが…。
※ダイナーの死体を観た人間が代わる代わる同じ見解を出すところは笑った。
【ママー!これ買ってー!】
タイトルはライフ・アフター・デスのもじりだろうというレビューを読んで心の中のガッテンボタンに思わずハンマーを振り下ろしてしまった。ブラックユーモアと終末の予感と愛と狂気が交錯する、お気に入りのオフビートなゾンビ映画。