《推定睡眠時間:0分》
〈プレイリスト映画〉とか宣伝かなんかで言ってたぐらいなので冒頭から音音音音音の洪水、一カ所に留まってる瞬間なんかあくまで比喩的な意味で一秒もないぐるぐるぐうぃーんすたたたたッなカメラワークとグザヴィエ・ドラン以後を感じさせるアスペクト比遊び、カラフルキラキラな色彩乱舞に煌びやポップンBGMの相乗効果で金持ちパツキン黒人男子高校生の日常がこれでもかこれでもかと輝かしく描かれる。
気持ちがいい音を聴けば気持ちよくなるに決まっているし気持ちのいい映像を気持ちよくなるに決まっている。音楽はトレント・レズナーとアッティカス・ロスのコンビであるからツナギスコアもパーフェクト。なんてえげつない映画だ、というのが第一印象であった(えらい数の既成曲の使用料だけでいくら金突っ込んでんだ、とか)
このパツキン黒人男子高校生はイケイケなのでレスリング部の期待の星。みんなの人気者かどうかは知らないが乱痴気パーティにはたくさん呼ばれる。既恋人♀。ガッコに行けばレスリング、放課後彼女と陽光デート、家に帰ればオヤジと一緒にパンプアップ・トレーニング、たまにはオヤジのやってる建築会社に見習いとして手伝いに行ったりもしちゃって大忙し、そして夜はパーティだ。嗚呼若さよ。その若さが俺にも…いや俺には全然いらなかったわたぶんその時間全部一人で映画観るか本読んでるから…。
でもまぁそんな充実生活送ってたらやっぱ人間おかしくなります。ある日この主人公が病院に行くとどうも肩がやばいらしいと診断受ける。どのような傷病か知らないがスポーツの人が言うところの爆弾を抱えた状態らしい。パパパパーフェクトな! このパパパパーフェクトな俺様のパパパ高校生活に爆弾が!?
さて参った、恵まれた者には恵まれた者の苦悩もあるわけで、素直に爆弾抱えちゃってさぁと言えればいいがそうも言えない。なにせ俺様はガッコの中心レスリング部の期待の星、黒人差別の逆境を力で乗り越え自前の豪邸を建てるまでになったオヤジの息子。パーフェクト人生以外は許されない。
困ったところで泣きっ面に蜂。恋人から妊娠の報が入る。ここでも主人公を襲うパーフェクト・シンドローム。いやぁ…パーフェクト高校生活に妊娠の選択肢はないっしょー。お互いに進路もあるから堕ろそうか。それが二人のベストな選択。と主人公は身勝手に話を進めるがそんな主人公のパーフェクト・チョイスに恋人は反旗を翻す。産む。わたしは産む。
肩には爆弾を抱え(彼女の)腹には子宝を抱えしかし誰にも相談できない。パーフェクトな俺様にそんな弱みはあってはならないからな。パーフェクトな俺様には…かくして主人公は追い詰められていき物語は衝撃のパーフェクト臨界点そして平凡への転換点を迎えるのであった。
気鋭の独立系映画会社A24の新作である。今時自社の看板で客を呼べる映画会社なんてメジャー各社でもまず無いのにA24は現今の邦高洋低状況にあってキッチリ固定客を獲得している上にどう考えてもミニシアター向けのスケール極小な内容の映画ばかり世に放っているのにわりあいシネコンとかで上映されててすごい。俺はぶっちゃけ嫌いである。この映画も面白くは観たが嫌いだった。
こんなことを言ってしまうと身も蓋もないのだがぶっちゃけどうでもよくないすかね。そこらのカップルがなんか惚れただの腫れただの、レスリングに試合に出られなくなったらどうしようとかオヤジのプレッシャーがどうとかそういう…どうでもよくないすか? どうでもいい。答えてくれる人がいないことは知っているから自分で答えるが「どうでもいい」。意味もなくカギカッコを付けたくなるほどどうでもいい話であった。
A24本当こんなんばっかだよな。だいたい家族の仲がちょっと悪くなる。それで恋人とイチャイチャする。で抑えていた感情を吐き出して最終的に家族と和解したり人生に納得したりする。それだけとは言わないが基本それなんだよ。ものすごく世界が狭くて社会っていうものが出てこない、あるのは俺と恋人と家族だけみたいなこの豊かな貧しさ。A24が配給したこの監督の前作『イット・カムズ・アット・ナイト』もゾンビの出てこない『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』みたいなしょっぱい籠城家族映画だったしな。もう本当そういうのどうでもいいわ。本当そういうのどうでもいいわ。
本当そういうのどうでもいいけれども俺としてはこういうのキラキラ映画だと思うのです。家と学校と部活とカフェを行ったり来たりするだけの毎日にあれやこれやの小規模ドラマをあたかもそれが世界の一大事ででもあるかのように見出すキラキラ女子高生映画とA24の映画にどれほどの違いがあるだろうか。それはもう膨大な違いがあるしまず予算が違うと言われたらぐうの音も出ないわけですが、作品の根底にある価値観とか世界観は同じだと思うんですよね俺は。
この映画だってヒップでゴージャァスな映像音楽のつるべ打ちだからなにか最先端の映画に見えますがそれはキラキラ映画も同じところで、本質的にはすごい保守的な映画なんです。だってそうでしょう、生と死を絡めた家族関係と恋愛を物語の大テーマにするA24映画もキラキラ映画(キラキラ映画だってだいたい誰かは死ぬものだ)も突き詰めれば物語と観客の関心事は個人の生殖に尽きるわけですから。
ただしそれがどうもアメリカでは最先端に映るらしい。生殖行為が自明のこととして描かれるアメリカ映画の中にあってA24は生殖のきわめてパーソナルな不安や失敗、その必要性への疑念を積極的に描こうとする傾向が強い。この映画の中でも主人公の生殖失敗(生物学的には成功だが…)と対置される初々しい初体験シーンが見られるが、この「だから?」がアメリカ映画的にはむしろ挑戦的なわけで、セックスに不器用だったり不安を感じる普通の人(ここが重要である)がアメリカにだってそこらへんに普通にいるという単なる事実がアメリカ生殖神話に一石を投じるのである。バカみたいな話だが少なくともこの映画では生殖をそのように用いている。
A24映画がなぜ日本でポピュラリティを獲得し得たのかと考えればその点がキラキラ映画大国たる日本の観客に響いているのだろうと思うのである。A24映画を観る層とキラキラ映画を観る層が被るようにはまったく思われないが、そんなものはしょせん見てくれの違いでしかない。イケてる生殖とイケてない生殖、観に行って恥ずかしくない生殖と観に行って恥ずかしい生殖の単なる二択である。ラブホテルなら抵抗感があるがレジャーホテルなら抵抗感がないというようなもの。それはアメリカでのA24作品の受容とは少し事情が異なるものだろう。
『WAVES/ウェイブス』が描くのは社会の圧力がもたらす個人の悲劇と社会の圧力に抗する個人の語りの称揚であった。地位も肩書きも宗教も関係ない。社会なんてどうでもいい。本音をぶちまけ語り合おう。わたしとあなたの関係が世界を作る。そのようにして個人と個人の生殖を祝福することで結局は現存社会の温存に奉仕するセカイ系にも半歩入り込んだこの戦略的退行の行き着くところがガラパゴスジャパンのガラパゴスジャンルであるキラキラ映画というのは面白いところであるし、エヴァみたいな島国アニメが欧米でも人気があったりする(らしい)こととも関係するのかもしれないと思えばなお面白い。
面白いのはそうした映画を取り巻く状況であるとか映画の消費のされ方なので、『WAVES/ウェイブス』自体は単なる高級なキラキラ映画としか俺には思えなかった。その点で言えば現代日本のキラキラ映画は退化に退化を重ねついにはキラキラ映画のセオリーを自虐ネタ的に用いて超低俗でありながら同時に鋭利なジャンル批判にもなっているという逆に高度な進化を遂げているので、みんなキラキラ映画とかバカにして観ないかもしれませんが、『ういらぶ。』とか『君の膵臓を食べたい』を観ずしてA24作品すげぇすげぇと語るなかれと俺としては思うのである。
※ルーカス・ヘッジズくんのはにかみ男子っぷり、『ルース・エドガー』に続いてまたしてものパーフェクト黒人を演じるケルヴィン・ハリソン・Jrの強がりぷりがたいへんキュートでございました。
【ママー!これ買ってー!】
Ost: Lost Highway [12 inch Analog]
トレント・レズナーのサントラ(プロデュース)といえば『ロスト・ハイウェイ』。いつのまにかLPでリリースされていたが本編未使用のトレント書き下ろしイメージソング「ザ・パーフェクト・ドラッグ」が蚊帳の外というのは変わらず。そういえば『WAVES/ウェイブス』も『ロスト・ハイウェイ』もなんとなくシナリオ構成が似てるな(生殖の失敗という点でも)
この一作だけ取り上げてA24の作品全体を批評するのはいかがなものかと。
アリ・アスターの映画を観てもそんなことが言えるのか気になりました。
確かに…ただアリ・アスターの映画も含めてそう思ったというところはありまして、『ヘレディタリー』とか『ミッドサマー』は家族であるとか共同体の維持に憑かれた人々の悲劇をグロテスクに誇張したものですが(アスターではないですが『ウィッチ』とかもそうかなぁと思います)、その社会的機能を考えれば「こういう風になっちゃいけないよ」という教訓的・警鐘的な側面が見出せるわけで、アスター映画は反社会や反家族を標榜しているのではなく家族を維持するためにはこういうことは止めた方がいいですよみたいな、ある種の安全弁として家族の問題が主題化されているように見えました。
その意味では『ウェイブス』は前半がアリ・アスター映画に典型的な家族のホラーといえ、後半はそれを乗り越えていくわけですが、一つの家族の「血」が別の新たな家族に流入することでの抑圧から解放に物語が帰着する点で『ウェイブス』は『ヘレディタリー』『ミッドサマー』とよく似ているのではないかと思いますし、これは『イット・カムズ・アット・ナイト』ですとか、多少変形しますが『A GHOST STORY』も物語の論理としては同種のものではないか、と思うわけです。