《推定睡眠時間:25分》
なんだか教科書のような実録映画だったのでフランソワ・オゾンの映画なんかほとんど観ていない俺でもまさかオゾンの映画が教科書になる(なってない)日が来るなんてと思ったりするのだった。パンフレットとか読んでないので知らないがこの作風の変えっぷりからするとよほど題材となった事件に関心があったんだろう。俺イズムを出すよりもみんなこの事件を知ってくれ的な。性犯罪被害者のリアル知ってくれ的な。真面目な人やったんやオゾン。
なんの教科書かといえば性犯罪被害の教科書です。まー日本でも某伊藤さんの件とか大いに侃々諤々の議論というより自説のぶん投げ合いを呼びましたが、刑事事件としては不起訴になったわけですから伊藤さんの件の真相はよくわからんと前置きした上で言うと、その時に事件性を否定する人たちがよく言っていた被害者の行動の首尾一貫性のなさ、具体的には「強姦被害を受けた翌日にその相手に社交辞令メールを入れるか?」みたいなやつですが、そりゃそういうことも普通にあるだろうというのがこの映画を観るとよくわかる。
だって、ねぇ。俺が会社の偉い人にいきなり殴られて怪我したとしても即刑事告発とこうスムーズに進んでいけるかと言えば大いに怪しい。翌日会社に出勤する時に同じエレベーターに乗って「おはよう」って言われたら何事もなかったかのように「おはようございます」って言うんじゃないすかねたぶん。で職場に入ったら仕事は忙しいから刑事告発どころではない。そっちに気を取られているうちにいつの間にか殴られ事件自体を自分から有耶無耶にしてしまう。ストレート暴行でもこんなんよくある話なわけですからそれが性的暴行になると、これはストレート暴行よりも人に話しにくいしもっとセルフ有耶無耶の可能性は高くなるんじゃないだろうか。
なので一応の主人公の人も子供の頃に受けた強姦被害を大人になるまでセルフ有耶無耶にしてたわけですが、すっかり大人になったこの人は子供は二人居るし仕事には満足しているし安定したそこそこ収入があるアッパーミドルで社会的にはかなり成功した部類に入る、いわゆる(?)「トラウマに苦しむ被害者」ではないというのが教科書映画たる所以。そりゃそうでしょう、子供の頃に神父に強姦されたからって四六時中そのことばかり考えてる人の方がむしろ稀でしょ。その理屈で言ったら通り魔被害に遭った人は二度と外を歩けなくなってしまうわい(そういう人もいないとは思わないが)
そんなの冷静に考えれば誰でもわかる話だと俺としては信じたいが、某伊藤さんの件ではこの人が「トラウマに苦しむ被害者」っぽい振る舞いをしてなかったからという理由で事件をでっち上げだと主張する人もいたので、事件の真相はよくわからんと再度申し上げておきますが、そんな型にはまったフィクショナルな被害者像しか想像できんというのはいくらなんでもなので、こういう映画で一口に性犯罪被害といっても色んな被害者がいるよ、色んな克服の仕方があるよ、どれが正しい被害者とかそんな区別ないよ、という教科書的な共通認識ぐらいは広がって欲しいものである。
と話が初手から脱輪し王位戦に臨むつもりで将棋盤の前に正座した藤井棋聖に対し碁石を掴めるだけ掴んで投げつけ突然の出来事に動揺して動けない藤井棋聖の隙を突いて王将を取るかのようなエクストリーム感想になってしまったわけですがそれにはそれなりの理由があるわけでまず俺は結構この映画を観ながら寝ているしそれに本当に教科書的な実録ドラマ、というよりも再現ドラマに近い映画だったのであのシーンが美しかったなぁとかあのシーンは緊張感あったなぁとか思ったりすることがなく現実の社会と結びつけての感想しか出てこないのだった。
それにこういうタイトルだしカトリックおよびバチカンの大スキャンダルなのでそこも一つの重要ポイントであることは間違いないのですがー、それをカトリックの特殊事情という風には描いていないんすよねこれは。劇中のカトリック司祭たちは事務的で教会は宗教組織というよりも単なる古めかしい一般企業に見える。どこでも起こりえる凶悪だが平凡な事件、という観点がこういうセンセーショナルな題材に対しては逆に挑戦的であったかもしれないし、問題提起にもなっていたかもしれない。
平凡なのは教会だけではなくて加害者の神父もそう。この人は面白い、事件から数十年経って一応の主人公被害者が教会に事実認定と処分を求めるとこの児童80人くらい手を出してた性欲神父(裁判前に教会から還俗させられたので今は普通に性欲おじさんらしい)、すげぇあっさり申し訳なさそうに事実を認めるんですよね。そこに打算的なものもあまり感じられなくて、そうは言っても懲役刑の出た裁判ではしっかり上訴したりして今も裁判継続中だそうですが、この人自身も自分ではどうにもできない悪魔的性欲を他人に打ち明けてどうにかしてもらいたいと思ってる風でもある。
被害者らしい被害者がいないところには加害者らしい加害者もまたいない。その平凡さをそれこそが実際の性犯罪であるとでも言わんばかりに見せるのだから立派な映画だ。神父を極悪人に描こうと思ったらいくらでもできるわけですからね。
さっきから一応の主人公と書いているのはこの映画、一応の主人公の告発を受けて次々と同じ神父から同じような被害を受けた人々が集まってきて被害者の会を結成、その主要な被害者が順繰りに物語の主役に変わっていくオムニバス的な群像劇になっている。そこで描かれる被害後の人生の多様さや被害の影響の強弱も興味深いところではあるが俺がいいなと思ったのはその被害者の会が最初は一致団結して打倒・性欲神父! 打倒・性欲神父の犯行に気付きつつも平凡事なかれ主義で問題視してなかった枢機卿! 俺たちはもう一人じゃない! と盛り上がるのだったが、その打倒方針を巡って次第にメンバーに距離ができてくる。
性欲神父はとりあえず裁判行ったからもういいんじゃない? という被害者もいればバチカン上空に飛行機雲でチンコを描いてもっともっとマスコミに取り上げてもらおうなんてエキセントリックな被害者もいる。みんな信仰を捨てようと提案する被害者もいればいやいや悪いのはあの神父だけでカトリックは悪くない、自分はまだ教会に行くし子供たちも行かせますよ、という被害者もいる。会の運営業務で日常生活が圧迫されて俺はもうこれ以上は…みたいな人もいる。
当たり前のことなんですよね。組織ができれば目的がなんであれイデオロギーがなんであれ必ずどこかで意見の食い違いは出てくるし、当初目指していた方向とはいつしか違う方向に進んでいた、というのも避けられない。ところがその当たり前の現象が「犯罪被害者」という集団にあっては部外者からいかがわしい目で見られることがあるというか、やれ内ゲバだなんだと喜ぶ人すらいたりするわけですが、被害との向き合い方とか克服の仕方は人それぞれなんだからそのためのツールとしての被害者団体がまとまっていられる期間が少しでもあることの方が、むしろ奇跡的。
そういう当たり前を丁寧に積み重ねていく映画でしたよね。被害者は聖人じゃないし加害者も悪いことしか考えてない悪人かといったらそれも違う。被害者も加害者も一人一人事情が違う上に時と場合によって違う顔を見せる。全部当たり前なんです。会社なり学校なり行って隣に座ってる人を少しでも観察すりゃ人間そんなもんだなっていうのはわかるわけです。
ところがこれが性犯罪被害者(または加害者)の場合はフィクショナルなイメージに覆われて、なにか特別な人間のように見られることがおかしいのであって、教会であるとか性犯罪の加害者であるとかのおかしさよりも、そうしたイメージのおかしさ、そうしたイメージを疑わない社会のおかしさ、何を告発するかといったら結局はそれを告発する映画だったなぁとか、まぁなんか最近の世の中のいろいろを見ていてですね、思うわけですよ。
【ママー!これ買ってー!】
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こちらも実話に基づくカトリック神父による児童性的虐待の告発もの。アメリカ映画なのでこっちは教会の巨大な闇! それと果敢に闘った新聞記者! 苦痛にあえぐ被害者に一条の光! みたいなみんなが観たがるやつです。