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予定通り来ればオリンピックの開幕日だった2020年7月24日が公開日と制作発表段階から決まっていたのにクラウドファンディングでの資金調達が始まったのが2020年の2月ということでおそらく映画館で公開された作品としては初めて「コロナ対策担当」みたいなクレジットがエンドロールに載っている。なにごとも一番手はいいことだ。できたてホヤホヤの「コロナ対策担当」の肩書きをスクリーンで確認するだけでも1800円の価値は…とはまぁさすがに言えないが、今この時期に映画館で観ることに意味がある映画ではある。
7年前のどこかの田舎町。雪のチラつくその日、都会人っぽい松田龍平が怪物を見に町を訪れた。理由はわからないがどうも以前その町に怪物が現われ、水先案内人の渋川清彦の話を聞く限りでは廃坑の中でまだ生きているらしい。渋川清彦は物好き連中に怪物を見せて小銭を稼いでいる。一方、松田龍平がなぜ怪物を見たがっていたのかは不明である。
時は一気に飛んで2020年。怪物のことなんかすっかり忘れてしまったような町の人々であったが平穏を取り戻したかといえばさにあらず、それどころか怪物由来かもしれない謎の疫病の蔓延という「噂」にすっかりメンタルを冒されてしまい、自粛ストレスと誰が感染者かわからない相互不信で終末ムードさえ漂っているのであった。
そんな町に住むGEZANのフロントマンにして渋川清彦の友人マヒトゥ・ザ・ピーポーは最愛の妹を疫病で亡くしたことから修験道に傾倒、やがて即身仏と化して疫病を鎮めるべく入定を試みる。だが実際に即身仏になるのは苦しくて大変。というわけで入定に失敗したマヒトゥはマヒトゥというよりマニトゥとなって妹が死んだ東京に怒りの大進撃、『ゴッド・アーミー』のクリストファー・ウォーケンみたいに指パッチンの法力でオリンピックが行われるはずだった新国立競技場を粉砕!
…したのかそれとも心象風景だったのかはよくわからないが、ともかく、あいつが暴走したら世の中えらいことになるぞ的な感じで実はこっちも元山伏で法力が使えた渋川清彦、仙人風情の怪人物・窪塚洋介、そして相変わらず謎な松田龍平なんかが東京に集結。はたして暴走マニトゥいや違ったマヒトゥは救われるのだろうか。疫病は無事に退散してくれるだろうか。マヒトゥの妹が見たがっていたオリンピックは無事開催されるのだろうか。っていうか怪物ってなんだったんだろうか。
ここから先は我が法力によってまだ映画を観ていない人がネタバレ見たさに読むと頭が『スキャナーズ』みたいに爆発する呪いがかけられているので映画を観ていない人は爆発したくなければここで退散してください。
退散しなかったでしょう。あなたどうせ映画観ないでネタバレだけわかればいいやって思ってるんでしょう。じゃあな、教えてやるよ。映画はここで終わりだ。ここで終わるんだ! ぐわはははっはっは! 驚いたか! ネタバレなどない! バレるネタなどなくこれからというところで映画は終わってしまうのだからな! さぁ泣け! 喚け! そして脱力するがよい! それは俺だ! 映画館でこの映画のエンディングに辿り着いた時の心の中の俺だ! ぐわはははっはっは! ぐわはははっはっは…。
いやでもね、面白かったですよ。遠足は帰るまでが遠足ですとは言いますがこの場合はクラファンで資金調達して公開するまでが映画です。映画っていうかパフォーマンス・アートに近いんじゃないすかね。当初の狙いとしてはオリンピックでまぁ潤うところは潤うかもしれないけど割を食うところは割を食う、ミニシアターなんか(※この時点では新型コロナは想定していなかったことに注目)結構きついんじゃないのってことで開催日の2020年7月24日に「破壊」の狙いを定めて、じゃあミニシアターから割を食う連中の一人として反撃の狼煙を上げつつ興行の目玉にしてやろうじゃねぇかみたいな感じだったらしい。
題材として何かセンセーショナルなものだったり時事ネタを取り入れるならともかく公開日を含めての企画というのは普通の映画であったりシネコンだとまず不可能。たまに小さな美術展なんかで作家が材廊して鑑賞者の前で作品を作っていくパフォーマンスとかってありますが、あれの映画版て感じですよね。果たしてクラファン資金調達から公開までの僅か数ヶ月でなにができるか、どこまでできるか、どうできるか。
その面白さの映画だし、加えて新コロで脚本も撮影も大幅な変更を余儀なくされたと思うので、それでどう変わったかっていう面白さもあります。もしかしたら(物語的には)未完成状態で公開というのもあえての選択で、なんせ破壊対象のオリンピックが延期になっちゃったもんですからほんじゃこっちも来年まで延期しますわみたいなことかもしれないし、もっと抽象的に新国立競技場はあるけれどもオリンピックの開催は不透明で、新コロだってどうなるかわからない今の日本の置かれた状況を表現したものなのかもしれない。
破壊目標が宙に浮いちゃって渋谷のスクランブル交差点でただ血にまみれて絶叫することしかできなくなったマヒトゥを捉えたゲリラ撮影はその意味でたいへん意義深い、忘れがたいシーンであったなぁと思います。
あとこのシーンは監督・豊田利晃の初長編映画『ポルノスター』のカッチョイイ冒頭シーンのセルフオマージュというか役者を変えた再演になっていて、おそらく90年代の怒りと今の時代の怒りを対比させる意図があったんだろうなというところがある。結構だからですね、当たり前なんですけどアジテーショナルな映画に見えて(いやアジテーショナルではあるんですけど、ダイヤモンドプリンセス号の車窓撮影映像差し挟んだりして)かなり考えられた、観てる方にも思考を促す映画って感じでしたよね。
それは映画の制作形態とか興行形態としてどういうものがあり得るかということもあるし、映画の内容に目を向ければ案外(ということもないのだが)withコロナ的なというか、イッセー尾形演じる還俗した山伏がなんかそういう説法をするんです。疫病は自然から来たものだから力で追い払おうとしても無駄なんだ、古来より疫病と人は共に生きてきて…云々。
これはどうにか新コロを押さえ込んで無理にオリンピックを開催しようとする偉い人たちへの批判とも取れるし、新コロ禍でパニックになって投石する人とか自粛警察的なものの風刺とも取れるわけで、ちょっとみんな一回冷静になりませんかみたいな、そういう問題提起がある。新コロ(的な)で妹が死んじゃって新コロ(的な)撲滅を目指した人が願い叶わず東京をぶっ壊しに来る話なので、新コロは恐いもの、冒頭に出てくるだけでその後は一切触れられなくなった怪物みたいな恐ろしい存在だっていう認識はあるんです。その上でだからと言って過剰に怖がってもそれはそれで社会に悪影響に与えるし人間を壊すんじゃないですかと問いかける。その意味では非常にニュートラルな映画じゃないですかね。
興行実験の部分に関して言えばこれも上映時間60分ちょっとぐらいの木戸銭1800円を取るにはギリギリな感じの映画ですが、一応これの前作に当たる豊田利晃不起訴記念作(?)の『狼煙が呼ぶ』は15分ぐらいの短編で、そこに音楽を担当した切腹ピストルズのライブとか豊田利晃とキャストのトークとかを一時間ぐらい付けて1800円で劇場公開していたので、それで映画の興行が成立するかどうか、そういうことをやっている(ちなみに『狼煙が呼ぶ』のラストシーンは着流しを着た松田龍平が新国立競技場を殺気立った眼差しで眺めるもので、『破壊の日』の「犯行予告」となっている。そうして客の興味を次に繋ぐのもひとつの興行実験だろう)
『破壊の日』の方は上映時間がそれなりにあるので映画だけでの上映が多いっぽいんですが、主演がマヒトゥということもあって爆音で鳴り響く音楽が非常にかっこよろしい映画なので、感覚としては映画とライブの中間ぐらいの体験。ぶっちゃけシナリオとか演出は部分部分MV的な添え物感だったりはしたんですが、実験的なロック映画として楽しめるようにはなっていると思った。
まぁそういう感じで…少なくとも劇場公開される映画ではたぶん類似作のないオリジナルな映画、映画というか実験、実験というか批評的パフォーマンス・アートとして非常に興味深い作品だったので、うん、観に行ってよかったですね。ただ本当にあの何一つ終わってないラストにはええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!! ってなりましたけれども。
※時間にして1分ぐらいしか出てこないが怪物の造形はかっこよかったです。塚本晋也が好きそうな感じというか。
【ママー!これ買ってー!】
ジャーマン・アートの異端児クリストフ・シュリンゲンジーフの映画。90年代後半に折からの悪趣味映画ブームに乗って日本に輸入されたのでずっと悪趣味映画の人だと思っていたシュリンゲンジーフは実は領域横断的・情況介入的にドイツの今を斬りまくっていた著名な現代ゲージツ家だそうで、その映画も糞バカな露悪的人でなしジョークを通して日常の中に隠蔽された問題を人々に突きつけていくラディカルなアート実践なのであった。豊田利晃のやってることもちょっとシュリンゲンジーフに近いのではないかな。