《推定睡眠時間:0分》
ほんの数年先にペレストロイカが待っているとは誰も知らない80年代はじめのレニングラードが映画の舞台ということで画面モノクロだしなにやら閉塞感が漂っているが、そんな時代を突き抜けようと当局非公認の西側パンク/ニューウェーブをこっそり輸入しまくっていたソ連のロック・ミュージシャンが「西側の音楽なんかやりやがって!」と同じ電車に乗り合わせた愛国同志親父に絡まれた時の雑アンサーに思わず唸ってしまった。「セックス・ピストルズは労働者階級だから同志ですよ」
確かに…いや全然確かじゃないだろあいつら労働してないんだから。でも一瞬、確かにって思うよね。その後、愛国同志親父ブチ切れ。なんか警察みたいなやつが面倒臭そうに介入してきてロックマンぶちのめされる。ヒドイ! さすがの横暴っぷりに他の乗客からも非難の声が上がるが非難の声が上がったからといって何が変わるわけでもない。これが革命の熱なんかすっかり醒めきった俺たちの故国。これが輝かしきソビエト社会主義共和国連邦の末路。これが…とそこに突如として乱入してくる謎の男。「次の曲はみなさまのリクエストにお応え致しましてぇぇぇトーキング・ヘッズ! 『サイコ・キラー』だ!」
曲入りと共に画面が覚醒、スクラッチ風の微彩色アニメが踊りロック野郎どもは車内を駆ける。閉塞感を突き破れ! 警察なんか怖くねぇ! 邪魔する奴は俺のカンフーを食らえ! ホァー! やがて謎の男が野暮なことにも「これはフィクション」のカンペを持って画面に再登場するが、そんなことは言われなくてもわかっている。レニングラードでアングラロックバンドなんかやってるひょろひょろの貧乏人民がカンフーで警官をぶちのめすことなんかできないし、スクラッチ・アニメは時々シネマスコープの画面を飛び出して上下の黒みに傷を残す。モノクロのシネスコ画面はレニングラードのロック人種たちを閉じ込める檻だったのだ。
俺は思いましたよ。まるで今の日本みたいじゃないですか。明日食う飯がないほどには(まぁ多くの人は)追い詰められていないけれど、かといって何か明るい未来が想像できるわけでもない。それは権力を持ってる人も同じだから大衆がただ漫然と毎日を過ごすことしかできないように権力者もまた体制維持にしか関心を向けることができないし、政治が放任巣ごもり主義に舵を切れば不安に駆られた人々は自粛警察の松明を掲げて「西側の曲なんか聴くな!」の親父みたいに同志に噛みついたりする始末。
「これはフィクションです」そんなのわかってるんだよ。だから響いたよね。電車内で乗客たちを巻き込んで「サイコ・キラー」、バスの中でイギー・ポップの「ザ・パッセンジャー」を合唱する。マスクをつけて距離を空けて毎日電車通勤して後は帰って寝るだけの生活を送ってる人なんかには響くんじゃないすか。それが束の間の夢でしかないからこそ。
エンドロールに入るまで知りませんでしたがこの映画ソ連末期を駆け抜けたヴィクトル・ツォイという有名なロック・ミュージシャンの伝記映画だったらしい。そのバンド名は劇場を意味するキノで…国内配給が木下グループ傘下のキノ・フィルムズだったのでなにやら因縁めいたものを感じてしまう。買い付け担当の人も縁を感じてウチが配給するしかないっしょ! ってめっちゃ上司に訴えたんじゃないだろうか。見た目、あんま売れそうに無い地味な映画だしね。キノとか知らねぇし。ソ連のロック・シーンとか。
でもですね、そのキノの曲というかキノ結成前のライブでやってたのでヴィクトル・ツォイの曲になるのかもしれませんけど、「親父はビート族だったんだろ?」みたいな曲が劇中に流れて…やっぱ一世を風靡した人なんだなーって感じでかっこよかったですよ。当局公認のロック・クラブの担当者に新しいコミックバンドですよ~って紹介されるぐらいで、気怠い感じで日常の些細な不満みたいなの歌うからユーモラスなんですけど、その中に垣間見える深い諦観とか静かな怒りがすごく良くて。
こういうの、不良音楽が制限されていた(らしい)末期ソ連で新しかったんじゃないですか。何に近いかな。なんかブラーとか近いような気がした。80年代でブラーならソ連っていうか普通に西側でも新しいよね。でも新しいからメインストリームからはあんまよく思われない。ロック・クラブ――これは西側のライブハウスと違って当局の監督下にあったそうなので客席はオールシッティングで演奏中の発声など禁止、ロックはロックでも不良度とか退廃度の高そうな音楽をやるやつは出演を渋られるというつまらないライブハウスだが、それでもソ連のポップ・ミュージックの中心地だったとか――の出演交渉をしてる時にヴィクトル・ツォイ、低級だっつって一蹴される。担当者曰く、ソ連のロックは西側よりも立派でなければならないということで、ツォイのエッセイ的な詩世界は受け入れられないわけです。
そういう抑圧の時代からツォイや他のソ連ロック人種をほんの一時でも解き放っていたのが西側のグラム~パンク/ニューウェーブの名曲群だったってことで「サイコ・キラー」から「ザ・パッセンジャー」から「アッシェズ・トゥ・アッシェズ」から「すべての若き野郎ども」からルー・リードの「パーフェクト・デイ」からと…それにしても今まで映画の中で「パーフェクト・デイ」が使われたシーンにパーフェクトなデイが一度でもあっただろうか。なんかだいたい明日のない感じの若者がクスリやったり人が死んだりして全然パーフェクトじゃないよな…いやそれはいいのだが、実にもう絢爛たるサウンドトラック構成。
これがモノクロに閉じ込められたレニングラードをバックに鳴り響くわけですから切なくなっちゃうね。煌びやかであればあるほど目の前の現実の色のなさを思い知らされる。自由の精神を浴びれば浴びるほど自分たちの自由のなさを痛感する。でもどうすることもできない。だから西側ロックで現実逃避する、その繰り返し。準主役のマイク(この人もズーパークという有名バンドを率いたソ連ロック界の重要人物らしい)が愛がないわけではないけれどももう燃えることはないというような、妻との醒めた関係を紛らわすように「20センチュリー・ボーイ」をオープンリールで流そうとする場面には、そんな切なさが溢れていた。
タイトルのLETOというのは夏の意だそうで、ツォイがマイクと出会ってキノのフロントマンとしてデビューを果たすまでの一夏の物語だからこういうタイトルになっているのでしょうが、寒々しいモノクロ世界を切り裂く西側ロックの名曲群はそう言われればなんとなく夏っぽく聞こえてくるというか、夏の開放性を希求するソ連ロック人種の内面を反映したものに思える。
ツォイが初めてマイクと出会ったのはグルーピーを連れた浜辺での乱痴気パーティでのことであった。その夜、盛り上がっちゃったマイクら一行は服なんかそこらに脱ぎ捨てて真っ暗な海へと飛び込むが、内省的な性格のツォイだけはその輪になかなか加われない。しばし躊躇った後、ようやくツォイは全裸になって海へ飛び込む。夏に入らなきゃ何も始まらないってわけでここから物語は動き出す。この場面の美しいこと。
俺はこの映画が伝記映画だとは知らなかったのでラスト、前触れも説明もなく享年テロップが画面に浮かび上がると驚いて声を出しそうになってしまった(ピュアなのだ)。始まったと思ったらもう終わっちゃった夏。切ないな。レニングラードのロック人種が夢見た夏とはなんだったんだろう。崩壊はおろかペレストロイカにすら入ることなく物語は幕を閉じる。雪解けの後にも結局夏なんか来なかったとでも言わんばかり。あの頃、汚らしい家の中で当局非推奨の西側のロックばかりを浴びていた日々の方がよほど夏だったとでも言わんばかり。
映画を監督したキリル・セレブレンニコフはなかなか華麗な経歴を持つ演劇演出家・映画監督らしいが、パンフレットを読むと撮影中に助成金横領の疑いで逮捕・自宅軟禁に追いやられてしまい、軟禁生活の中で編集を行っていたんだとか。切なさ何倍乗せなんだという感じだ。こんな素晴らしい映画を撮ったのだから監督にも来るといいですね、夏。今は出国禁止を条件に軟禁を解かれたそうです。
【ママー!これ買ってー!】
そういえばトレスポも夏! って感じ、しますよね。