バカじゃないの映画『エマ、愛の罠』大悪口感想文

《推定睡眠時間:0分》

別にジャズが嫌いというわけではないのだがドイツが誇る頑迷思想家テオドール・アドルノのジャズ批判は本当に口さがないというかなんだかものすごい知性の無駄遣い感があってお前頭いいんだからわざわざ嫌いなものにかかずらってないで他のこと考えればいいじゃんと何度読んでも呆れながら声を上げて笑ってしまう。様々なエッセイで繰り返し同じような叩きをしているが(その天丼っぷりがまた笑ってしまう所以なのだ)ここは代表的なエッセイ集『プリズメン』からその粘着叩きを引用しよう。

ジャズがまだ日常的慣行となっていないヨーロッパでは、それも世界観的にジャズをやっているジャズ教信者たちの間では特に、ジャズはまだ飼い慣らされていない根源的な人間的本性の爆発であって、博物館的文化財に対する勝利なのだと誤解する傾向がある。ジャズがアフリカ的要素をもつことは疑うことはできないが、しかし、ジャズのうちの手に負えない野性が最初から厳格な図式にはめ込まれていることもまた疑いを容れない。そして一見暴動のように見えるその態度にも、精神分析学がサド・マゾ・タイプについて教える通りの仕方で、盲目的に服従する用意が加えられてきたし、今なお加えられていることは疑いを容れない。このサド・マゾ・タイプとは、父親像に反抗するが心中ひそかにその像を賛美しており、それに負けまいとして大嫌いな従属関係をふたたび楽しむというタイプである。

娯楽の領域では、必要とあれば音楽的素材そのものを発明したり、処理したりする豊かな可能性があるのに比べて、ジャズはまったく貧困に見える。ジャズが使用可能な音楽技法の何を使うかは、まったく自由である。しかし、曲の進行にともなって一拍の長さを生き生きと変更してはならないという禁令は音楽活動をせばめるもので、その禁令に唯々諾々と従うことは美的な様式意識どころか心理的退行を必要とするほどである。
ちくま学芸文庫『プリズメン』所収「時間のない流行」渡辺祐邦 訳

この仮借のなさ。原語でなんと書いているかは知らないがジャズ教信者とか心理的退行とか明らかに煽っている語のチョイスも酷くて最高なのでアドルノの生きていた時代にツイッターがあってアドルノがツイッターやってたら毎日炎上してただろうなとか思ってまた笑ってしまう。怒ってるなぁアドルノ。ジャズ楽しいのにねぇ。

で、こんなことを思い出したのは『エマ、愛の罠』で主人公のダンサー・エマの夫である振付師がエマ率いるならず者おんなダンサーズに同じようなことを言っていたから。振付師が非難するのはジャズではなくてエマたちの踊るレゲトン。なにがレゲトンだ! あんなもん単調で発展性なんて全然ないじゃないか! レゲトンで踊ってセックスしてを繰り返すだけのクソみたいな毎日で自由気取りか! それで本能の発露のつもりか! そんなもんイビサ島の金持ち連中がやってることと同じなんだよ! その精神の貧困から抜け出すために俺がゲージツダンスを仕込んでやったんだろうが!

この振付師はどうやら元々ならず者おんなダンサーズにコンテンポラリーダンスとかをやってもらっていたようである。まぁ俺が仕込んでやった云々の恩着せはともかくとして…アドルノ読者の俺としてはめちゃくちゃ正論ではないかと思う。やがて振付師の舞踏団から離脱したエマとならず者ダンサーズは朝から晩まで街のあちこちでレゲトン流して同じ振り付けの集団ダンスをしては乱交パーティに励んで金がなくなったらそこらで売春とかそういう感じの生活を送るようになるが、普通に考えてそれ出来ることがめちゃくちゃ限られた退屈かつ平凡で何の刺激もない生活だし、本能の発露とか言ったところで流してる曲は民族音楽ですらなく現代文明のテクノロジーと消費社会の差異化運動が生みだした商業音楽レゲトンである。そんなもん本能もクソもないだろ。

ならず者おんなダンサーズの反逆を気取った社会への無抵抗無関心の態度をバカだなぁと思いながら観ていた俺にとってこの振付師の台詞はいかに振付師が気に食わなかろうが(いやでもそんな悪いやつではないだろ)待ってましたという感じであったのだが、ならず者おんなダンサーズのスケ番代行みたいなやつがこう反論したことで振付師はウッと沈黙してしまう。なぁにがゲージツだ! レゲトンで気分アゲてセックスしまくったっていいじゃねぇか! テメェだって所詮セックスの産物だろうが!!!

いやいや、こんな反論になってない反論で沈黙するなよ振付師。こっちはお前らが自由って呼んでるものがその実まったく自由ではなくたとえばコンテンポラリーという枠の中にあえて自分をはめ込むことでその枠を壊すような表現こそが精神の自由であって同時に生活の面においても定職に就いてお金に余裕のある生活をすることでできることの選択肢は増えるわけだからその中であえてレゲトンで踊る毎日を選ぶのだとしたらこれこそが自由であり本能の発露と仮に呼べるとすれば本能の発露であろうとそのようなことを言っているわけだし金のないやつが他にやることがないからとレゲトンで踊ってセックスに溺れるとか貧困からの逃避以外の意味なんかなにもないし更に言うならそうした状況から目を逸らし続けることは君たちの大好きな自由とか本能とか反抗とかそういう概念とはむしろ真逆の社会への服従でしかないじゃないかどうせ君たちは選挙なんかには行かないだろうし社会に文句があっても直接社会と対峙する勇気だってないんだからということは結局君たちは傷のなめ合いをしているだけなんだよ同じような奴らとつるんで同じような行動を取ることでこの根性なしが君たちみたいな逃避的人間はさぞかし権力者にとって都合がよろしいでしょうな社会に対して少しの異議申し立ても行わずたまにやってる放火遊びで社会への不満を埋め合わせちゃってスッキリしたらポコポコ子供を産んで勝手に増えてくれるわけですからこれは男社会とか国家権力にとって最も都合のよい人種ですな! …と思っているんだよ映画観ながら!

付け加えるなら(まだあるの!?)このならず者おんなダンサーズは見たところ誰一人スマホを持っていないようだったがそれなりに社会への不満を持ちつつもそれを発散する手段がダンスとセックスと放火しかなくてそこからの脱出も希望しないような怠惰な連中ならインターネットの情報の海にぷかぷか浮かぶ危険思想なんかには全然あっさり取り込まれるであろうというところでありこういう輩がISのカッチョいいプロパガンダ映像とか見てウォーってなるんだよとかも思ってしまう。

就職面接の場面でエマが言うようにこの人らには思想なんかないからIS戦闘員とか極右構成員にはピッタリなのだ。ただなんとなく暴れたかったりするだけで、あるいはなんとなく「家族」とか「親」のイメージが欲しいだけなのだ。親子双方の素行不良により養子の男児の養育権を取り上げられてしまったエマはなんとしてもこの男児を取り返そうとするが、その動機らしきものはエマが語る彼女自身の家庭不和であった(本人は否定するが)。

男児はあくまで記号であり、そこにあるのは欲望ではなく欠如であり、失われた愛情に溢れた家族のイメージを取り戻したいがためにエマは男児を希求するのであって、決して男児を思ってのことではない。エマと男児の親子のコミュニケーションや男児の意志は最後の最後まで結局ほとんど描かれることがないのだった。

そしてそれが所詮はイメージに過ぎなくて、愛情に溢れた家族なるものを実体としてエマが手にすることは今後もないであろうということを、あの不穏で不満げなラストシーンは暗示するのである。

田舎のヤンキー毒親映画としてはよくできている。よくできているものだからまったく恐れ入りますよ、こんなものをこれまでの価値観を突き破って誕生した新時代のヒロインとかなんとか言って肯定的に売り出そうとする配給宣伝の姿勢には。たしか惹句は「きわめて不道徳」とかいうものでしたが不道徳なのは映画じゃなくて日本の配給の方だろう。だってレゲトンとセックスと放火しかやることがない貧民の話なわけですからね。やってることの見てくれが反動的なだけで本質的には保守なんですこの人たちは。現状の変革を拒絶して家族と生殖とかいう発展性のないものに閉じこもろうとするって意味で。

だいたい映画の作りとしても新しいところなんかないだろう。火炎放射器で街のあっちこっち焼いたら革新ですか? そんなの放火だけにアメリカンニューシネマの今更な焼き直しじゃないですか。『暴力脱獄』の冒頭でポール・ニューマンが意味も無くパーキング・メーターをぶっ壊して回ってから何年経つと思ってるんですかね。ノマド的な女たちが男どもに歯向かって放火とか自由なセックスとかしまくるから先進的ですか? そんなもんラース・フォン・トリアーが初期から散々やってたわ『イディオッツ』とかで。ペドロ・アルモドバルにも表現とか題材チョイスで被るところあるよな。

でもこういうのはウケるんです。心から面白いと感じる純粋で真面目な客を除けば二通りの客がいる。映画を観てそれが自分の価値観や世界観と合わなかったら「私がバカでこの映画の深さを理解できていないんだ…」とへりくだって本当はそこまで面白くなくても自分を騙してすごく面白い映画だったことにしてしまう奴隷根性タイプ。それからもうひとつはシネフィルタイプです。シネフィルタイプはこういう映画すごく大好き。理由は単純でダンスがたくさん出てくるからっていうのと主人公が見かけ上は奔放だから。

こういうのフランスの映画批評経由とかなんでしょうね。シネフィルは映画を観て自分の頭で考えないんですよ。画面に映る記号に動物的に反応して快楽を得ようとするし、それを物語から解放された「自由な」映画の見方だと勘違いしてるんです。ロラン・バルトが日本を「表徴の帝国」と呼んだのを未だに無批判的にこれこそポストモダン的先進的態度とでも思って喜んで受け入れてるんですよ。バカですよね。いかん映画にムカついて無関係な映画ファンまで巻き添え攻撃してしまった。

でも本当シネフィルなんかチョロイっすから。抜め目のない映画監督なら心得ていると思いますがああいう手合いを喜ばせたかったらとりあえずダンスシーンを入れればいいし、主人公は感情を抑制できない人とかに設定すればいいんです。あとは適当に過激っぽい(っぽい)映像にしてればシネフィルは賛否両論の傑作認定してくれます。

嘘だと思うならダンスシーンが出てくる非ミュージカルの映画でシネフィルがどんな感想を垂れてるか探してみればいいですよ。まぁ9割はダンスがすごいダンスがすごいとそればかり言ってるね。俺も言ってるし。でもそれって思考放棄なんですよ。ダンスシーンっていう記号にパブロフの犬みたいに反応してるだけなんです。そう言っとけば分かってる奴を気取れるって打算を織り込み済みでね。まぁ、シネフィルに限らずオタクなんてどこの業界でもそんなもんでしょうが。

閑話休題。だからそういう連中を喜ばせるのが巧い映画だなぁとは思いました。っていうか俺の感想ほぼそれだけ。他にべつにない。強いて言うなら浅はかな映画っていうぐらいですね。いや、俺がムカつくのもそれなりの個人的な理由っていうのがあるんですよ。こんだけ叩いてるんだからそれは言っておかないとフェアじゃないし言うけどさ、いやぁ、世の中いろいろあるわけじゃないですか。そうですね、うーん、たとえばフェミニズムとか。

フェミニズム、これはやはり性っていう人間身体が持つ機能の中でも比重の大きいものを扱うわけですから重要なことですし、またフロイトの精神分析とかマルクス経済学とか20世紀の文化や社会を規定してきた思想潮流を吸収しながら20世紀から21世紀にかけてたいへんに発展を遂げてきたものなわけじゃないですか。俺は主義者というわけじゃないですけどこういうラディカルなものは基本的に面白いとおもっているのです。

それで『エマ』、ポスターとか予告で例の新世代のヒロインっていうのを強調するじゃないですか。そしたらそれ期待して観に行くじゃないですか。心底ガッカリしたよね。こんなのロマンポルノとかピンク映画でいくら描かれてきたかわからない子宮で考える女でしかないじゃないですか。ノマド的な女レゲトン集団っていうのはそれなりに面白い設定だとは思いましたよそれなりには。だけどそれがそれだけなんです。

社会の中で彼女たちがどう位置付けられるかとかどう影響を与えるかとか、あるいは社会が彼女たちにどう影響を与えたかっていう視点がほとんどなくて、そのおとぎ話を成立させるために誰もスマホ一つ持ってない設定とかになってるんですきっと。まぁシネフィルは抽象的なおとぎ話も好きだからこれもシネフィルと欧米批評家向けのエサなのかもしれませんがね。でも俺はノマドたちのダンスと放火に触発された貧乏民衆が自分の中の凶暴性を解放していってホームレス放火とか少数民族の迫害を始めるとかそれぐらいやったらよかったのにって思いますよ。最終的にエマがポピュリズム政治家に祭り上げられてヒトラー的な独裁政権が誕生したら風刺が効いてて最高。

と話が逸れましたが、何が言いたいかというと、演出も脚本もあまりに古くて保守的な映画だったのです。どこが過激か。どこが新しいか。どこがラディカルか。未だに生殖と家庭に固執する隠れ俗流フロイト主義のアホみたいに凡庸な映画じゃないですか。だって欲求不満を象徴するのが炎なんだよ。バカでしょ控えめに言って。ラディカルなものが見たかったら適当なフェミニズムの本でも読みゃいいんですよ。どんなアホなフェミニズム研究者でもこれの最低8倍は面白いことを書いてます。それはフェミニズムというものが様々なレベルで広義の社会と性の関係を考察する学問だからであって、物の見え方の刷新を意図するからですよ。

翻って『エマ』はどうだろうか。そんなものがほんの僅かでもあるだろうか。それどころかフェミニズムが切り拓いてきた革命的闘争領域を全部なかったことにしてフロイト回帰と子宮主義回帰じゃないですか。女題材の過激な映画を標榜しといて舐めとるんかと思いますよ。こんなの女の解放じゃなくて女の束縛でしかないでしょ。だいたい火炎放射をするんならそんなチンケなことに使うんじゃねぇーよ。ビルの一棟ぐらい燃やせバカ。そのへんの中途半端さもまた腹立たしいところだ。

まぁ、そんなことは何も考えずにおもしろいダンスとおもしろいミュージックとおもしろいセックスに身を委ねていればおもしろいのかもしれないですけど、それがおもしろいっていうんなら別に映画ある必要はないんだから、普通にAVとか見てればいいんじゃないの。AVでもあるじゃんダンス入ってるやつ。昔、涼宮ハルヒのパロディAVでやたらダンス再現に気合い入ってるのがあったな…。

※ギャスパー・ノエ的な客の挑発を意図したのだとしたら俺なんかはまんまと乗ってるのでしてやられた感じですが、それって現代美術で額縁だけ飾ってるのを絵と称するやつを見た時と同じような反応なので、バカじゃねぇのとはやはり思います(しかし額縁絵画はこんな映画より遙かに高等な表現だろう)

2020/10/5 追記:
日付的には同じなのですがこれ書いて一旦寝てもう一回読み直してみたらいやそんなにキレることはないだろって自分で自分に引くと同時に映画の内容を反駁しながらあーそこ気付けてなかったなーっていう発見もあったのでたかが感想とはいえ反省も込めて諸々整理しつつ追記しておこう。

エマの放火、これなんなんだろうって思ってましたが振付師の夫がパフォーマンスで船を焼いたっていうエピソードがならず者おんなダンサーズのナンバー2から語られるじゃないですか、火炎放射器取りに行くシーンで。エマたぶんそのエピソードずっと覚えてて一面では夫への復讐として、もう一面では夫と精神的に同化するために火つけて回ってたんじゃないすかね。

夫との関係っていうのがなんだか不可解な物語を読み解くに重要な映画で、たとえばエマはずっと養子がどうとかって言いますけどそこにあるのは愛ではないしやっぱり記号なんです。あの養子に対してエマは性的な眼差しさえ向けるわけですが、それは養子の髪型をわざわざ夫と同じにするシーンが端的に示しているように、夫の代理として養子を見ているということなわけです。だから養子を取り戻すための戦いはめちゃくちゃ婉曲的に夫との関係の回復を求める行為だったわけですねぇ。

エマは自分がそこには居なかったらしい夫・妻・子供から成る「標準家庭」に憧憬を抱いていて、そのことは彼女が子取り戦争を開始する決意をした養子一家の家族団らんのシーンから分かるわけですが、公園のブランコを焼くシーンなんかを踏まえればその憧憬は憎悪と表裏一体になっている。「標準家庭」に憧れるから「標準家庭」を憎む。夫由来の不妊で自分が夫・妻・子供の関係を作れないと知ったエマは夫を激しく憎むようになるし、反面でそうして切り離されてしまった夫を激しく求めるようになる。こうしたことがエマを犯罪的な養子獲得に駆り立てるわけです。

基本的にフロイト主義の映画で、家族を軸とした様々なアンビバレントな感情が描かれるわけですが、やっぱりですねぇ、そうやって見るとポジティブに見られる映画じゃ全然ないと思いますねぇ。なんでもかんでも俗流精神分析に則って家族の問題に還元しようとするこの監督の価値観は古くさいなぁとも思います。思いますが、しかし家族を失った女の人の彷徨の物語として見れば結構切ない。

宣伝文句にあるようにジェンダーレスでもボーダーレスでもないんですよね。逆にトラウマ的な過去のせいでジェンダーレスにもボーダーレスにもなれなかった女の人が私は「標準家庭」を作らなきゃっていう強迫観念に苦しむお話で、そうすることで家族に関する自身のトラウマを解消しようとするお話で、エマはだいたい無表情なのでそれを表面的に彼女の強さの表われだと受け取る人もいるみたいですが、そうではなくてあれは自己防衛的な無表情なわけです。

そりゃ映画を売らなきゃいけないのは分かるけれどもそういうお話を新世代ヒロイン誕生とか言って宣伝する配給は無神経だし悪辣だし明らかにピントを外しているし、それをそのまま受け入れてエマかっこいい的に消費するのも俺はどうかと思うんですがね。まぁ映画をどう消費するかなんて自由だけどさ。

【ママー!これ買ってー!】


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女テーマの映画でラディカリズムを導入したいのなら少なくとも『ザ・ウーマン』ぐらいはやるべきなのである。たぶんこれをこのブログで言うのは8回目ぐらいである。

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