謎にほっこり映画『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』感想文

《推定睡眠時間:15分》

「花のサンフランシスコ」っていう名曲っぽい名曲のカバーが予告編のBGMだったのでなんかA24映画らしく家族に関する話みたいだししっとりとしたドラマなんだろうと思って観に行くと最初のシーンが防護服姿の謎の男たちが魚? 小動物? 植物とかゴミとか? を検体としてなんだか汚染物処理としてなんだか知らんが回収する横でアメリカ映画名物木箱の上に立った終末牧師風の男がお前ら防護服の連中は何を隠している! 核実験か! この海は汚染されている! とたった二人のバス待ち黒人聴衆(※主人公)相手に大演説。

ら…ラストブラックマンってそういうこと? なんか慣用句とか…詩の引用とか…そういうやつじゃないの? 『地球最後の男』的な用法なの(※たぶんそういう用法ではない)? 終末なの? サンフランシスコ死ぬの? なにやら目が四つある奇形魚などが桟橋に打ち上げられていたが…このサンフランシスコにいったい何があったのか!

『アンダー・ザ・シルバーレイク』寄りでした。A24映画といっても俺が想像していた『フェアウェル』みたいな家族ドラマ路線じゃなくて『アンダー・ザ・シルバーレイク』みたいな変映画。そこまで変ではさすがにないが充分変。防護服が既に変だし待てど暮らせど一向に来る気配のないバスも変(そもそもあそこ停留所なのだろうか)。待ちくたびれた主人公の若者ふたりがスケボーで行こうぜっつってスケボータンデムで街に繰り出すと活人画的なスローモーションで「今日のサンフランシスコ」が画面に現われるのも変だし、主人公ふたりをわけのわからないことを言って追いかけながら全裸になってしまう通行人も変。かなり変な映画である。

途中からは一応ちゃんと(?)イイ話っぽくなりますけどね。なりますけど最後までふわふわしてるので夢の中を漂ってるようなというか。曰く言い難い不思議な余韻を残す映画で、アメリカの黒人映画といえば最近は社会情勢を鑑みて社会派な感じのものが多いわけですが、これも一応題材として貧困層の黒人を描きつつ…でも社会派の枠からするりと抜けて行ってしまう。

腑に落ちるところと腑に落ちないところの区別があまりない。きわめて現実的なところとどこか現実離れしたところが混ざり合ってる。結論、なんかよくわからん。なんかよくわからんですがでもそのわからなさがおとぎ話みたいでよかったです。なにも黒人映画だからとフォーマル系かストリート系かのどっちかを選ばなきゃいけないことはないわけで、こういう枠にはまらないゆるゆる黒人映画もたまにはまぁいいじゃないですか、それがサンフランシスコ精神ってもんですよ…かどうかは知らないのだが。

映画の輪郭はふわふわしているがあらすじはシンプル、サンフランシスコのベイサイド貧乏地域にある親友宅に居候中の黒人青年ジミーは金持ち地域の小ぶりなお屋敷の無断修繕が日々のたのしみ。無断修繕のために不法侵入してるので住民の老金持ち白人からは怒られるがそんなのは気にしない。だってここは祖父の建てた家。狭い敷地の中に美意識と遊び心がいっぱいに詰まった麗しのお屋敷は元々ジミー一族のものだったのだ! 自分の家なら大事にしてやらないとなってことでジミーは今日も無断修繕しては住民に野菜とか投げつけられてとくに怒りもせずに親友宅へ帰るのだった。お前はレプラコーンか。

でジミーも変な人なんですがその親友モントも変な人で時代遅れな服着ていつもノートに絵ばっか描いてる。あと誰も見てないところで今日見かけたサンフランシスコ黒人の真剣モノマネをする。古い白黒映画を盲目の祖父と一緒にめちゃくちゃ楽しそうに見る。変な人だしあんまり金のある感じでもないが、なんかこう、いつも近所を暇そうにうろついてて遭遇する度に絡んでくるヤンキー黒人たちとは対照的に自由気ままな、案外理想のゆるい暮らしぶりである。

さてそんな二人がついに住民がどっかへ消えて空き家と化した例の豪邸を不法占拠。不法占拠と言えば聞こえは悪いが暴力的なことは何もしてないし無茶苦茶な要求を地権者に突きつけてるわけでもないし家を汚すわけでももちろんなくむしろ不法占拠して一番最初に手を付けたことは内部の修繕作業、他の友達呼んだりもしないので騒いで近隣に迷惑をかけるわけでもなく単に家具持ち込んで普通に住んでるだけだから平和な不法占拠だ。でも不法占拠は不法占拠なのであっさり不動産屋に追い出されるのだった。はたしてジミーの念願が叶う日は来るのだろうか…。

『アンダー・ザ・シルバーレイク』がそうだったようにこの映画も他作品の引用をヒントというか、観ている人にどんなお話かわかってもらうための補助線として使っているようだ。ジミーとモントとモント祖父は家で二本の映画を観る。その一本はわからなかったがもう一本は『都会の牙』というサンフランシスコを舞台にしたフィルム・ノワールで、劇中でモントも説明してくれるがこれは怪しげな毒物を盛られて余命数時間とかいう極限状況に置かれた男が犯人を捜してサンフランシスコの街を奔走するというお話。

サンフランシスコの町並みを男が駆け回る(とにかく時間がないのだ)路上ロケも見所だが、この映画を特徴づけるのはなんと言ってもオープニングである。警察署に一人の男がやってくる。その男はある殺人事件について話し出す。刑事が訊く。「で、その殺人事件とやらの被害者は誰なんだ?」「私だ!!」。こうして、毒物のせいで余命幾ばくもない男はこれまでの経緯を語り出すのだった。厳密には全部語り終えてから死ぬので比喩的な表現なのだが、「既に殺された男がなぜ自分が殺されることになったか語る」というユニークな趣向なのだ。

これがおそらく『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』の輪郭を形作っているんだろう。この映画には様々な種類の死が出てくる。古き良き街の死、ケアホームでの老人の死、海洋汚染を食らった魚の死、抗争に巻き込まれた黒人の死。で、モントはどうやらその死んだものたちの物語を彼なりの方法で、『都会の牙』の主人公エドモンド・オブライエンのように語ろうとしているらしいんである。

じゃあジミーはといえば、こちらも『都会の牙』の主人公のように「死」の運命からなんとしてでも逃れようとする。「死」というか、もう終わったもの。彼が祖父の建てた屋敷に拘るのはそれがもう自分の家ではないと知っているからだ。屋敷の安っぽいミクスチャー様式は永遠の生を約束するかのようである。久しく会っていなかった母と偶然再会すれば在りし日とのギャップにかえって幻滅させられる。死んでいる。もう終わった。奇形の魚を見てジミーはサンフランシスコの街自体の死を想う。

なんだか暗い映画に思えるが暗くなってきたところでするっとまた違う方向に抜け出してしまうのが繰り返しになるがこの映画のよいところだ。『都会の牙』は主人公の死で幕を閉じるが『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』は終わらない。死の語りは次なる生の始まりなのだというわけでむしろそこから新しい何かが始まろうとする。そのことを暗示する唐突なラストシーンはなんだか人を食ったものでちょっと笑ってしまうぐらいだが、でもこれが不思議とほんのり感動的。そのまま突入するエンドロールで卑怯にも「花のサンフランシスコ」が流れたりするものだから結構じ~んである。

死を恐れると人の行動はパターン化する。だから生へのしがみつきは同じ仮面をかぶって同じキャラを演じて同じ生活範囲で同じ遊びをするということなのかもしれない。モントの家の近所に住んでるヤンキー黒人たちはそんな生活を送っている人たちで、やがて分かることには、彼らは生死の境を日々歩き続けていたのだった。でもそのことが時には人を生きなくさせることもある。自分の給与水準では到底手に入りそうにないお屋敷に固執して人生に台無しにしてしまうのなら、それは生の希求がもたらした逆説的な死にほかならないのではあるまいか。

『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』はそんな硬直した死のような生から人を解放する映画だったように思う。それが押しつけじゃなくて、自由に生きたって案外平気だよ、サンフランシスコなんか路上で急に全裸になる人とか普通にいるし…みたいなゆるトーンで語られるのが良いところ。映画の作りもなんかゆるゆるなので説得力がありますよ、そういうの。

※それにしても主人公ふたりの朴訥な友人関係はなんかよくわからんが羨ましい感じである。通じてるような通じてないような、お互いを束縛しないけどなんかやるときには自然と集まってるみたいな。ほっこり。

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