自由解釈映画『ブラックバード 家族が家族であるうちに』感想文(ネタバレあり)

遺伝的なあれで太陽に当たれなくなる色素性乾皮症という難病を題材にしたYUI主演の映画『タイヨウのうた』の米版リメイクはオリジナル版と結末が違っていてオリジナル版では病が進行して歩くことができないほどの神経症状が出始めた(これが色素性乾皮症患者の主な死亡要因らしい)YUIが父親・岸谷五朗のもういいんじゃないか見てられないよ的な泣き言を退けてたとえ動けなくなっても死ぬまで生き続けることを選択するが、リメイク版では主人公とその家族が安楽死を選択する。生き続けるために死ぬまで紫外線防護服を脱げなかったYUIに対してリメイク版の主人公はどうせ安楽死するのだからと紫外線防護服を脱ぎ捨てて太陽の下で自由に遊び回るというわけで、う~んなるほどこのへん日米の死生観とか人生観の違いですね~とか劇場で観たときには思ったのであった。

しかし『ミッドナイト・サン』ではわりとスムーズに事が運んでいたが安楽死の決断というのはゆーて実際そんな簡単なものではないだろう、というわけで安楽死したい難病患者を身内に持つ人たちは安楽死前日とかに一体どんなやりとりをするんすかねっていうのを描いた戯曲みたいな映画がこの『ブラックバード』なのですが、これが面白いのは主人公で一家の母親スーザン・サランドンが(病気の進行で身体が動かなくなる前に)安楽死することは数ヶ月間に渡る家族会議で既に決定事項になっているのですが、そこで交わされた会話内容であるとか、あるいはサランドンの病気はどのような性質のものかというかなり重要な点はボカされているところ。だから観客の想像の余地が大きい。

と、あと安楽死はアメリカでは州によっては可能らしいが映画の舞台となるこの世の終わりみたいなどっかの干潟の邸宅は安楽死のできない州にあるらしく、どうせ死ぬなら色々と想い出の詰まったここしかねぇだろってことでこの世の終わり邸宅で安楽死させることになったのですが、バレたら殺人ほか諸々の罪でみんな捕まってしまうのでサランドン発案の隠蔽工作を家族ぐるみで行おうとしているところ。

ちょっとブラックユーモア的な設定ですがこれが真面目も真面目大真面目で、しかもその真面目の方向がサスペンスとかじゃなくて叙情的な方向の真面目。感傷的な劇伴を流しながら合間合間になんかカモメが空を自由に舞うシーンとかが入るというわけでちっともドキドキする感じでも笑える感じでもない…いや何もそんなつもりで観に行ったわけではないが非合法の安楽死ということは殺人もしくは殺人幇助なのであるからもう少しある意味での映画的不真面目さを想像してたっていうか、こう叙情一辺倒でやられるとそこらの殺人鬼映画とかよりも逆に倫理的なヤバさが出るので、これを観て感動した~考えさせられた~みたいなことを言っている人たちも含めてなんかちょっと怖くなってしまった。

アメリカ家族による身内の殺人の隠蔽という意味では「頼れるパパがまさかの変態シリアルキラー!?」という同日公開の映画『クローブヒッチ・キラー』と同じなので、そちらはジャック・ケッチャム的なスモールタウン・ノワールというかぶっちゃけNetflixドラマ『マインドハンター』の非公式外伝映画みたいなものなのでゴリもゴリのサスペンスであるが、殺人をよくないこととして恐ろしげに描いている点で『クローブヒッチ・キラー』の方が遙かにモラリスティックだった、というのはなんともアメリカ的な倒錯である。

ところで突然ですがここからしれっと結末に触れつつ感想書きますのでどんな安楽死か知らないまま観たかったのにネタバレしやがって俺の安楽死わくわくを返せ! というシリアルにキラーな感じでキテいる人はさっさと引き返しましょう。人の安楽死を楽しむな! 人のセックスも笑うな!

どこが面白い映画かというのは人によって色々あると思うんですが俺の場合は安楽死前夜に家族でやる最後の晩餐の場面とかが面白いなぁと思って、これは悪意丸出しの見方なんですけどオウムっぽいとか思ったりした。あぁブラックバードっていうタイトルだから鳥のオウムねってそのオウムじゃなくてオウム真理教。去年から始まった俺読書ブームがオウム本なのでオウム死刑囚の獄中手記とか裁判本とか色々読んでるんですけど、そういう本で読む方としても書く方としても力が入るのがやっぱ最初の殺人のあたりで、一回殺しちゃった人は二回も三回も同じなんでその後の事件の記述はわりに淡々としてたりするんですけど、最初の事件に関してはその時の懊悩だったり恐怖だったりあるいは言い訳だったりがかなり密に書かれてる。

マインドコントロールの言葉も流行ってあたかもオウム(あるいはそれ以外の宗教でも)に入るとロボットにでもなるかのようなイメージがいまだに残ってますけどいくら末法思想を持つオウム信者ったって人を殺めることに心理的抵抗があるのは当たり前で、ましてや穢れた俗世と関係を持つと修行ゲージが減少して解脱のための魂レベルアップが遅れるみたいなことを教義として受け入れていた修行マニアがオウム信者なんだから教祖があいつ邪魔だから殺せと普通に命令してもむしろ逆に殺してくれない、だからこそ麻原は殺人等々の非合法活動をやらせたい信者それぞれに特命を与えたり秘密教義を教えたり他の信者の非合法活動に同行させて共犯者意識や疑心暗鬼を植え付けたりとかの下準備的マインドコントロールをかなり周到にやっていて…なのでオウム信者が最初の犯罪に至るまでの過程というのは非常に興味深く読める。

それで、そういうマインドコントロールの過程とかコントロールされる側の心理状態とかその雰囲気っていうのがこの映画のとくに晩餐会シーンにはわりと露骨に描かれていて、たとえば家族がまぁ十人ぐらい集まって来るんですけどその中には高校生(ぐらいの)男子とかもいる、で一家の長女ケイト・ウィンスレットの夫にあたるその父親は最後の晩餐だからってそいつにワイン飲ませようとするんです。ケイト・ウィンスレットは未成年だからって止めるんですけど息子の高校生男子は「でも、安楽死だって違法だろ?」とか言って、それでケイト・ウィンスレットと妹のミア・ワシコウスカ以外の大人たちは巧いこと言うじゃないかはっはっはみたいな感じになってでそのままワイン飲ませる。

これは非常にイイですよね。高校生男子にしたら大人たちに囲まれて自分もそこに加わりたいっていうちょっとした劣等感とか背伸び感があるわけじゃないですか。だからワイン飲みたいし、一方で大人たちにしたら無意識的にであれ共犯意識を作りたいからワイン飲ませたい、だけどその下心以外に飲ませる理由なんて本当はないから(そりゃまぁ最後の晩餐は楽しい席にしたいとか言い訳はできますが)飲ませないでって言われたら少なくとも理屈では反論できないんですよね、共犯意識を持たせたいとは言えないから。

そういうわけで高校生男子の側から「でも、安楽死だって違法だろ?」って言ってくれると大人たちみんな安堵するんですよ。一つはこれでこいつも俺たちの共犯者なんだっていう仲間意識の安堵で、もう一つは未成年の飲酒っていう小さな犯罪行為を高校生男子にさせたのは自分たちじゃなくて高校生男子本人なんだっていう責任逃れの安堵。このへんは実にオウム的で巧いなぁって思ったし、で、未成年がワインを飲む/飲まされるっていう些細な触法行為から自由意志の問題を引き出しているようにも見えて、これが映画の後半の展開に繋がっていくところもまた面白いと思った。

あの場であのワインを飲んだ時に果たしてその行為は高校生男子の自由意志による行為と言えるだろうか? 結果的に自分から飲んだのは間違いないが飲酒を断れる場の空気ではなかったこともまた間違いない。だとしたら安楽死はどうなのか? 母親が望んだことと父親(サム・ニール)は説明するがそれは本当に正しい医学知識や正常な精神状態に基づく判断なのだろうか? 家の中に彼女を「自主的な」安楽死へ導くマインドコントロールの環境がなかったとどうして言えるのか?

こうして当初はつつがなく進行していたかに見えた安楽死計画に疑問が生じてきて、打ち明け話という名の密告(「あの人、通報しようとしてるみたいだ…」)や家族同士の疑心暗鬼(「お父さんとおばさんは実は不倫していてお母さんはハメられてる…」)が一家を覆うようになる。温和な人間だったケイト・ウィンスレットの夫はあたかも罪悪感を紛らわすかのように暴力的に妻とセックスをしてそれ以降は妻の隣に座るとエラソーにその太ももに手を置くようになる。しあわせ安楽死計画なんだか台無し。いよいよオウムじみてもくる。まこのへんは案外掘り下げが浅くスルーっと情緒で流されてしまいますけどね。

ともあれ最終的に殺人安楽死は実行に移されるがそれは当初イメージされていたような幸せなものでは決してなかったし、ニューシネマのようにダンディなものでもなかった。スーザン・サランドンとサム・ニールの夫婦はヒッピー世代のヤッピーで、自由意志に基づく自己決定を何より尊ぶタイプの人間であることが会話の端々から窺えるが、そのいわば強者の自由が結局は幻想に過ぎなかったことが安楽死を目前にしてその動機を「自由」ではなく「不安」だと弱々しく語るスーザン・サランドンから明らかになるし、そしてまたその自己決定自己責任のヒッピー的自由信仰が実はケイト・ウィンスレットとミア・ワシコウスカの二人の娘の重いプレッシャーとなっていて、ミア・ワシコウスカに至っては自分が自己決定力のない弱い人間だと母親スーザン・サランドンに知られたくないがために自殺未遂の過去を隠していたことも明らかになる。

オウムがそうであったようにこの家の全ては虚勢であり虚栄だったわけだ。意志が強いから安楽死を選んだのではなかったし、理性的な判断でもなかった。本人も含めて誰もが母親スーザン・サランドンの難病を受け入れるだけの強さを持てなかったから安楽死を選んだんである。そしてその責任を誰も持つことができなかったから幸せな安楽死という虚構に逃避するしかなかったんである。その意味でこの映画は安楽死の是非を問う映画ではなく、自由な自己決定を是とするアメリカ人の強さの虚構性を暴くことこそが主題の映画であったと俺には思える。

オウムが殺人教団へと転じた最初の一歩は修行中の信者の事故死だが、教団運営に支障が出ることを恐れた麻原はこれを警察に届け出ることなく、後に坂本弁護士一家殺害事件などの実行犯となる早川紀代秀、新実智光、岡崎一明、村井秀夫らに死体の焼却と遺棄を命じた。麻原がリアルな人間の死を「ポア」として正当化したのはおそらくこれが最初であり、早川紀代秀は死体を焼却しながらポアされたこの信者のことを羨ましく思ったと手記に綴っているが、この心理と構図はスーザン・サランドン一家のそれとさほど離れたものではないだろう。どちらの場合も素直に自分たちの弱さを受け入れることができていれば悲劇は回避できたかもしれないのだ。

とはいえ、難病を苦にしての安楽死と難病苦と共に生き続けるのではどちらが悲劇かは当然ながら一概に言えるものではないし、っていうかたぶんどっちもそれなりに悲劇である。結局は安楽死という悲劇を自分たちで選んだんだからこの一家はなんやかんやあったけれども最後にはみんな弱い自分と向き合うことができたんだろう…と、一見そのような幕切れに見えるのだが、人間そんな簡単に自分の弱さを克服できるだろうか? そういえば、騒動の中で一家の面々は各々自分の本音をさらけ出していくが、一人だけ最後まで本音をさらけ出さない人間がいて、それは安楽死のための透明な液体薬をスーザン・サランドンに飲ませたサランドンの夫、一家の父親のサム・ニールなのであった。

なぜサム・ニールは本音をさらけ出さないのか。さらけ出す必要のない鉄の意志を持った強い人間であったからか。最後まで本音をさらけ出さないのでそれは謎なのだが、序盤に出てくるサム・ニールのさりげない一言はその一つの解釈を仄めかしているように思える。リビングでケイト・ウィンスレットの夫がクロスワード・パズルをやっている。ここはなんだろうなぁ、ヒントはHIJKLMNO…五文字の単語…と頭を悩ませていると通りかかったサム・ニールはWATERと告げる。H to OでH2O、水。

よくこんなとんちクイズが瞬時に解けたな。それはたぶんサム・ニールがずっと水のことを考えていたからで、自分の手で妻を殺す前日なのに水のことばかり考えるとは一体どんな水なんだとか思うのだが、サム・ニールがスーザン・サランドンに飲ませた水みたいな安楽死の薬は、おそらく単に水だったんである。だから水のことばかり考えていたんである。自分の手で妻を殺すという選択も、自分の手で妻を生かすという選択も、そのどちらもサム・ニールにはできなかったのだとすれば彼が本音をさらけ出せないことの意味も通るし、ほとんど家族内のドラマに加わることのなかった彼が一人あてどなく散歩に出るシーンで幕を閉じるいささか不可解な構成も、自由意志と自己責任をブランドマークとして高く掲げつつもぶっちゃけそんな風には強く生きられない、アメリカ人の弱さを巡る物語としてしっくりくるように思えるのだ。あくまでそうも解釈できるという話ですけどさ。

※あとここ良いなって思ったのがシネスコ画面を存分に使った家族の配置で、これが見事なものであったからシネスコとは家族の風景を撮るために生まれてきた規格なのではないか…とか思ってしまった。

【ママー!これ買ってー!】


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『タイヨウのうた』をハリウッドがシュワルツェネッガーの息子主演で映画化! と聞いた時には耳を疑いましたが観てみたらわりと普通の映画でした。

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