《推定睡眠時間:5分》
映画が面白かったから原作も買って読んでみることは間々あるが映画がつまらなかったから原作を買って読んでみたのは初めてのことだ。こういうときにその場で買える電子書籍は便利ですね。映画の記憶が色褪せぬ間に原作と照らし合わせてあれこれと的確な文句が言えます。そんな邪な目的に利用されて電子書籍も泣いているであろうが。
いやぁ…不老不死ですよ。人類で初めて不老不死になった人が見たものは的な惹句だったのでそういうSFかーと思って観に行ったらびっくりするよね腕時計で確かめたところ主人公が不老不死になったのが開始してから約一時間後。な、長くないか!? 長いっていうか遅くない? それでその不老不死になるまでになにをやっているかというとこの主人公は育児放棄した舞踏家の人なんですがひょんなことから人間の死体を彫刻化する会社の偉い人にスカウトされまして死体彫刻をやってました。
物語の始まりは入り口に用心棒が立ってるいかにも怪しげな地下スポット。知らんけどなんかこういう非合法っぽい場所よくある近未来日本の話かなと思って見ているとステージではリメイク版の『サスペリア』で魔女舞踏団が着ていたような衣装に身を包んだ舞踏家たちが踊ってます。なんかヒョウのポーズみたいの取って「シャー」とか言う。…エロい店なのかな? 入り口に用心棒まで立ててるぐらいだからアダルティな雰囲気ぷんぷんであるがしかしそのわりには健全すぎるような…舞踏見るだけっぽいし…。
ヒョウのポーズダンサーズが退場すると次にステージに出てきたのは主人公の舞踏家・芳根京子です。しかし昔捨てた赤ん坊のことが不意に脳裏をよぎってとても踊る気分になれない。オールスタンディングのガラの悪そうな観客たちの中から「踊れよ!」と嘲るようなヤジが飛ぶ。なんて治安の悪い舞踏バーなんだ…っていうか、舞踏バーってなに? 唐十郎の状況劇場みたいなこと?
よくわからないが客のヤジに激高した芳根京子はその場でなんかいろいろひっくり返したりしながら踊ってみせる。するとその様子を特等席から見守っていた大物感のある寺島しのぶが声をかける。その肉体、うちで使ってみない?(的な)
寺島しのぶの会社というのは前述の死体彫刻を手掛けるところ。プラスティネーションといって人間の肉体が死後も腐らないように諸々入れ替えて剥製化、その剥製死体を死体アーティスト(これが寺島しのぶ)が任意のポーズを付けて固定するわけですがポーズ固定には全身を使ったマリオネットのような操作が必要というわけで、そのために芳根京子の身体能力が買われたのでした。
原作を読んで興味深く感じたのはこのへんの改変で、俺はてっきり(原作ではストリップバーから始まったりするんだろうけどR指定付けるわけにはいかないから裸の出ない舞踏になったんでしょうな~)とか思っていたのだがそもそもそんなシーン自体出てこない。代わりに出てくるのは主人公に身ごもらせたボーイフレンドのエピソードで、このボーイフレンドとのあれこれとか出産に際しての両親との確執とかが色々あって主人公はフっと子供を捨ててしまい、ふらふらと歩いているうちにたまたま通りかかった死体彫刻会社に入社するというのが原作の導入部なのであった。
それは別に金がかかるわけでもなさそうだし変な改変しないでそのまま映像化すればよかったのでは…と原作を読みながら思ったのだが、おそらくそうしなかったのは死体彫刻の描写に理由があるのだろう。原作の死体彫刻描写を一部抜き出すとこうである。
肉の薄い膜は、内臓を隠していたが、その内臓も薄くスライスされて、彩り豊かなジグソーパズルを見せていた。瞼のない片方の目がまばたきをせずに、大勢の人々を見下ろしていた――もう片方の目はくり抜かれて、虚ろな眼窩を見せていた。頭蓋骨のてっぺんが帽子のように取り外され、その下にある脳が新鮮なスフレのようにわたしたちの視線にさらされていた。
〔…〕
皮を剥がれた男性が宙を飛んでいる瞬間の像がこちらにあるかと思えば、スピンしているフィギュアスケートの選手のように片脚を上げ、片方の乳房が爆発しているヌードの女性像があちらにあった。
ケン・リュウ『円弧』 古沢嘉通 訳
映画版の死体彫刻はこれとはまるで異なり、おそらく生身のダンサーが静止状態で演じているが、神経剥き出しも乳房爆発もなく、なんか昔ながらのミイラ男みたいな感じである。全裸死体は一応あるが乳首などは映らないのでレイティングを考慮したのではないだろうか。代わりに(?)この設定を活かした見せ場として強調されるのは死体の調律である。ところが。これは死体にポーズを付けるためのものなのでイメージとしてはピキピキと神経をすり減らして腕をあと3ミリ上にとか頭をもう何度か傾けてとかそういう微調整を延々と繰り返す地味過程のはずなのだが、画面に映し出されるのは死体とダンスでもするかのようなダイナミック調律であり、それじゃあ調律にならんだろと思うのでちょっと意味がわからない感じである。
なにもグロ死体があればいいとかなければダメとかそういう話ではないが、これはその重荷に耐えきれずに息子と親と縁を切って「自分で自分を所有する」ことを選んだ一人のシングルマザーが、人間的なあらゆる関係性を失った単なる肉塊として死体を認識して、「ミラーニューロン」の台詞が仄めかすようにあたかも肉塊としての自分自身を操作するかのように死体調律の仕事を通して自己を再生していくという物語なのである。そのためには子供だましのミイラ男なんかではない肉塊としての死体彫刻は必要だろうし、操作としての調律を死体との共同ダンスとして解釈するなどというのは物語の含意をまったく汲めていないとしか言いようがない。
かくして映画版はトンチンカンな舞踏バーの場面で幕を開けることになるが(実際にはその前に「私は息子を捨てた」という簡素な説明モノローグがある)、ボーイフレンドのエピソードはちゃんと終盤の展開に、それもかなり重要な展開に関わるところであり、タイトルの『円弧』というのもこのエピソードと終盤のあるエピソードの円環的対応を指すぐらいなので、そこを変えてしまったらタイトルの意味もなくなってしまうじゃないか…と、呆れつつもその大胆な改変っぷりにうーむと唸るのであった(良い意味でとは言ってない)。
改変部分はここだけではないが残りの部分はネタバレになってしまうかもしれないので伏せておこうと思う。原作はさほど俺の趣味に合う小説ではなかったが面白いは面白いし短編ですぐ読み終わるので気になった人は買って読もう。貶しつつもちゃんと販促に繋げる私は大人です。ここで大人成分は使い果たしてしまったのであとはわりと子供の悪口に堕ちますが。
なんでしょうなぁ、つまらない映画だったよ。うんなんでしょうもなにもないねそれは。あえて言えば舞踏とか死体アートが多少面白くないこともないですけどそれはそのシーンそのシーンごとの単発的な面白さで、言うならばインスタ的というか、そのシーン自体は映えるが他のシーンとの関係を考慮しないでオモシロを繋いでるだけなので物語は表面的になるし、だいたい盛り上がっていくところがない。
これでも俺は気を遣って書いてるんである。最近の邦画実写は本当にSF不毛地帯で『シン・ゴジラ』とか『orange オレンジ』とか堤幸彦の『人魚の眠る家』とかはあるSF設定の中で人間がどう動くかということを丁寧にやっていたのでSFしてるなーと嬉しくなったが、他はもう本当にガワだけSFばかりでそのガワにセンス・オブ・ワンダーがあるならまだしも作り手の記憶の中から取り出してきたカッコイイ記号を並べてるだけの安易かつ幼稚な作りがあまりに多い上、邦画の全体数からすればそんなガワだけSFですらメジャー映画では年に数本あるかないかみたいな絶望状況。そんな中で果敢にもSFジャンルに挑んでくれた映画とくればありがとうとは思うのである一応は!
でもそのありがとうの思いをつまらなさが越えてきたからなー。不老不死(と便宜的に書くが原作では長命化である)になるまで一時間かかるのもその一時間で描かれるものがことごとく下らないのもどうかと思うが不老不死になってからの一時間はもっとつまらないしSFですらなくなってしまう。どんだけSFを真面目にやる気がねぇんだよと思うがこの監督の石川慶という人は前作の『蜂蜜と遠雷』で『ブレードランナー』のオマージュみたいなシーンを入れていたし今作でもやはり『ブレードランナー』のセバスチャンの家みたいなシーンとかフォークト=カンプフ・テストの有名な設問である「亀」絡みのシーン(これは原作にはない)とか、『ブレードランナー』原作のディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に出てくる動物の修理(のイメージ)が出てくるのでおそらくSF映画とか小説はそれなりに好きなはずである。
SFに興味のない人間がつまらないSFを撮るならアホかの一言で済むが、SFの好きな人間がこんなものを撮っているのかと思うとつまらないでは済まずに軽く腹が立ってくる。う~ん認知の歪み! 人間って難しいですね! いやそういう話ではないんだが。ある意味そういう話だが…。
ともかく、これは俺の中ではガワだけSFなのです。オリジナル脚本でもなくちゃんとケン・リュウの手堅い原作を持ってきてるにも関わらずのガワだけSF。一枚絵としては綺麗に撮れている(インスタ映えってやつですよ!)がケレン味がゼロなので何も迫ってこない空虚ショットの連続、別に下手なわけではないが上手いわけでもなく明確な性格付けもされていない(そのためにもボーイフレンドと家族のエピソードは必要だったと思うが…)ので主役なのに存在感が無きに等しい芳根京子の人形っぷり、原作の持ち味といってよい人体と人間存在に対するドライな洞察を泣きと感傷で上書きした台無しアダプテーション、『AI崩壊』でも失笑ものだった邦画SFの定番クソ演出「怒れるデモ隊」のバカバカしさ! ちなみにこれも原作にはないシーンなんですがなんでどいつもこいつも入れたがるんだよそれ!
でもね、俺この原作はメジャー邦画ではそのままやるの無理だったと思いますよ。単純に死体描写が(R指定を避けるために)無理っていうのもありますけど、テーマ的にっていうか、これは人類が次のステップに進む歴史の一ページを一人のシングルマザーの視点で描いたプレ・ポストヒューマンというべき物語ですけど、その結末で提示される新人類の倫理観は現人類のそれとは相容れないものです。メジャー邦画はびっくりするほど超保守的なのでこういうのは無理なんです。今ある世界を肯定すること以外になにもできない。だからそもそも別世界を空想するSFっていうのはジャンル自体が邦画実写では不可能なのだと言える。あまりにも情けないことですが。
だからこの映画も監督とか脚本家は本当はもっと原作に忠実に作りたかったのかもしれないですけど相当妥協を余儀なくされたんじゃないですかね。そう思えば映画の最後に出てくる台詞は涙を誘います。それは旧人類と新人類の断絶を表すもので、言っていることは原作も映画も同じなのですが、文脈の違いにより映画では新人類の新たな倫理観の肯定の意味合いが抜けてしまっていて、結局人間は死を意識した方がいいんですよメメントモリだ、とこういうまるで自己啓発本のように薄っぺらい、まぁ薄っぺらいだけならいいが原作とは真逆の方向を向いてさえいるしょうもない台詞と結末に堕してしまっており…でもそれが、しょせんメジャー邦画の限界なわけです。こんなに泣けるSF映画は久々に見ましたよ。号泣。
【ママー!これ買ってー!】
文庫本にしてわずか十数ページ程度のワンアイディアSF短編を原作を凌駕する奇想と構成で見事に映像化したSF映画化の大成功例。これだって金がそこまでかかってるわけではなくてほぼほぼシナリオの面白さだけで傑作になってる映画なので、やる覚悟さえあれば邦画でも似たような挑戦的なSFはできないこともないと思うのだが…。
↓原作の入ってる短編集
わたしもコレを観て余りに酷いのでびっくりして後で原作を読んだクチです。
結構好意的な評価がネットに溢れててどーゆーこと?と思ってました。
凄く納得の映画評です。読んで腑に落ちた部分もいっぱいありました。有難うございます。
本当につまんないっすね。こんな作品がメジャーな世の中っ…
前評判が高かっただけにつまらなくてガッカリした映画でした…でも日本人は受動的な傾向が強いので、こういうつまらない展開というか、後ろ向きな死生観が肌に合う人が多いのかもしれません。少子高齢化の国らしい映画かなぁと思います。
私は原作を見てた状態から映画を観ました。
前半はまだ好みじゃないな~くらいだったんですが原作にない部分がことごとく合わなかったですね。
同じ作者の作品なら「良い狩りを」って作品が映像化されていてそっちはお勧めです。
オリジナルの部分は本当に余計というか原作のエッセンスを何一つ汲んでいないように思えてそれはないだろ~ってなりましたね。「良い狩りを」の映像化、Netflixアニメシリーズの「ラブ、デス&ロボット」の一編かと思いますが、実はそれは前に見てかなり好きだったので、あの作者が不死をテーマに描く(「良い狩りを」もある種の不死についての物語でしたし)なら面白いだろうなぁと少しだけ期待して観に行ったらこういう映画で…ケン・リュウはもっと読みたくなりましたけど。