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リサ・タトルという作家の著した『フェミニズム事典』なるラディカル・フェミニズム寄りの分厚い本が我が家の本棚にさして読まれることなく眠っていたのでどれそこからの引用で感想を始めるか(そうすればなんとなくちゃんとした感想なのだと誤解してもらえる!)と索引を開いてみたところマルクスもエンゲルスも幾度となく言及されているしマルクス主義フェミニズムにも結構な紙幅が割かれているのだがエリノア・マルクスの名はひとつも出てこない。
ちょっと意外な感じである。この本にはフェミニズムとその周辺の活動家の名前と業績が大量にそれはもう大量に読んでいると胸焼けして本を閉じたくなるぐらい載っているのでエリノア・マルクス自身は狭義のフェミニストではないかもしれないとしても女性労働者の地位向上であるとか児童労働の廃止なんかに邁進したのなら載る権利は十二分にあるだろと思うし、だいたいマルクスの後を継いだ社会主義活動家なんだからそれはむしろ載せないとフェミニズムの事典としてダメなんじゃないだろうか。
奥付を見ると1991年の刊行で原著は1986年とある。そう古いわけでもないしマルクスの娘の存在が歴史に埋もれて知られていなかった…などということはさすがにないんじゃないだろうか。英語はわからないのでとりあえず日本語でエリノア・マルクスをGoogle検索にかけるとあまりヒットしないのは確かだが都築忠七という社会思想史の人が1984年に評伝を出したりしている。少なくともマルクス主義がまだ社会のオルタナティブとして命脈をギリ保っていた頃はハードカバーの評伝を出せる程度の知名度はあったようである。
なんなんですかその映画の内容に直接言及することなく外からチクチク非難する婉曲的な嫌味感想は。はいこれはですね日本であまり馴染みのない人の伝記映画が公開される時の定番惹句として「知られざる激動の…」とかがよく採用されてたとえばNASAの黒人計算手たちを描いた『ドリーム』などもそのパターンだったわけですが俺は『ドリーム』の原作ノンフィクションを読んでいるので「知られざる…」の惹句がまるで嘘であることを知っているんです。
正確には『ドリーム』に出てくる主人公三人のうちドロシー・ボーン、メアリー・ジャクソンはあんま知られてなかったがキャサリン・ジョンソンはアメリカではとてもよく知られた人だそうで、原作本の著者はキャサリン・ジョンソンの栄光に隠れた他の黒人計算手にもスポットライトを当てたかったと序文で執筆意図を書いている。日本の宣伝は客の知的レベルを合わせてキャサリン・ジョンソンを無名の人扱いしてやがったわけですね。
もっとも映画版『ドリーム』の問題は宣伝よりも内容にあり、その呆れるばかりの歴史修正っぷりときたら…という『ドリーム』腐しを俺は今までに100回やっているので度々書いているのでそれはここでは触れないとして! たくさんの功績があってよく知られた人を「知られざる…」扱いするのはちょっと敬意ってもんがねーんじゃねぇのって思う。
で、『ミス・マルクス』も「知られざる…」の宣伝がされているわけですが、ちょっと待てよじゃあエリノア・マルクスを「知られざる」人にしたのは誰なのよという話ですよ。明確にカジュアル・フェミニズム(そんな用語俺しか言ってないけどな!)にすり寄った宣伝は男どもの社会はもとよりフェミニズムの中でさえエリノア・マルクスが半ば忘却されていたことには触れないわけだが、その層の客の気分を害さないために「知られざる」ことにしてその存在を一段下げるとか、そんな個人をないがしろにすることを良しとしてる奴らが連帯だなんだと言っても説得力がねーよなぁ!
いや言ってないけどさ。でもそういう感じの売り方なんだよ。エリノアと私たちは同じ世界を生きてた! 一緒に戦おう! みたいなさ。著名人コメントを見てもそんなんばっか載っておる。同じ世界に生きてねーっつーの。あのねそんなの現代の人と昔の人に共通点を探そうとすればそりゃいくらでもありますよ。だけど違うところだって同じくらいかそれ以上にあることなんか普通に考えりゃわかるでしょうよ。
歴史上の人物を見つめる時に自分たちとの共通点だけ都合良く取り出して切断点は見なかったことにする態度を歴史修正主義って言うんだよ。連帯と同調を重視するカジュアル・フェミニズムはしばしば他者との差異を忘れてしまう。同時代ならともかくそれを過去に適用するのは精一杯の悪意を込めて言えば「歴史搾取」である。自分たちの正当性を補強するためだけに過去を利用することに抵抗を覚えない無邪気さに対して俺はケッてなる。ケッ! ま、でも悪いのはお客さんとか宣伝の人とかじゃなくてそんな映画を作った映画監督ですけどネ!
いや別に悪い映画ではないよ。作りとしてはあっちほどエキセントリックではないがニコラ・テスラの実験的伝記映画『テスラ』に近くて、エリノア・マルクスは短い生涯の中で本丸の社会主義革命運動のほか、それに付随する女性労働者の権利向上と児童労働の撤廃に加えて文学作品の翻訳などもやっていて(これも芸術を通じた労働者の啓蒙を主目的とすれば革命運動の一環なのかもしれないが)、どうも色んな分野に精力的に関わった人っぽいそうですが映画で描かれるのはダメ内縁の夫エイヴリングとの関係を中心にした家庭内の話がほとんど。
物語の合間合間で労働者蜂起なども起きるがそちらは記録写真の挿入で済ませて実際に騒乱シーンは撮らない。予算がなかったのかもしれないが最大限好意的に解釈すると、エリノア・マルクスにとっての革命ってそういう暴力的なものじゃなかったんじゃないかな? っていう作り手のエリマル(以下これで行きます)観の表れなんだと思います。社会主義闘争史とか労働運動史のフレームで捉えるエリマルは悲劇的な末路を迎えたものの知的で活動的で不屈の精神を持った華々しい人生を送った人だった。しかし家の中のエリマルはそんな華々しい人生を送っていただろうか。
オッサン党員たちが葬儀で歌う勇壮な共産主題歌「インターナショナル」をエリマルはどこか冷ややかに見つめる。エリマルの人生の多くを占めていたはずの政治活動に関するシーンがそもそも少ないこともあって明確には語られないが、そこには当時のマルクス主義が家父長制の問題を理論化して階級闘争に組み込むことができず、その問題をなかったことにして暴力革命を志す同志の男たちに対する幻滅を見ることができる。それこそ『フェミニズム事典』に帯コメントを寄せている上野千鶴子はマルクス主義フェミニズム版の『構造と力』(浅田彰)といえる主著『家父長制と資本制 マルクス主義フェミニズムの地平』においてマルクスが市場の成立条件としての家庭を自然の産物と見なしたことに異を唱え、これにフェミニズムの視座から修正を加えたのであった。
これは上野の独創ではなくマルクス主義フェミニズムの合意事項らしく、この映画もその問題意識を共有しているっぽいので、観客にある程度の前提知識を要求する映画なのかもしれない。俺はエリノア・マルクスについてはほとんど知らなくてもまぁまぁ面白く観られたが、それは『家父長制と資本制』を読んでいたからで、そこからなんとなくこういうことなんだろうなぁと思考を持って行くことができたんである。
そうでない人ならこの映画のカウンター性…それは現在の男中心社会に対するカウンターという面もないことはないだろうが、力点が置かれているのはマルクスの後を継いだ高潔な社会主義者という偶像に対するカウンターに思える。偶像じゃねぇよ家庭に問題を抱えた普通の悩める人間だよ、というわけでサウンドトラックも偶像破壊的な女声パンクが用いられているんだろう。日本ではエリマルの偶像化がそもそもされていないのでその点が読み取られず、カジュアル・フェミニズム的に宣伝すること(そしてそう鑑賞されること)しかできなかったのかもしれない。
そうだとすれば。この映画の中のエリノア・マルクスがカジュアル・フェミニズムの文脈で安易に共感されてしまうことは偶像破壊の行為自体を偶像化するようなものなんじゃないだろうか。それは、でも、たぶん、共感に関しては監督とか脚本家の側も狙ってはいるところで、ただその狙いというのがおそらく観客のエリマル偶像知識ありきの偶像破壊への共感っぽいので、見方として間違ってはいないけど正しくもないみたいな、まぁ正しい映画の見方なんてないんですけど…そこ、もやもやするよねぇ。
上野千鶴子は左翼であるという当たり前の認識もなくその言葉だけがキャッチフレーズ的に拡散され共感されたりする日本のカジュアル・フェミニズムである。これもなんか悪口っぽく響くんだろうな。こっちは左翼を悪いことだと思ってないしむしろ今の日本には本気の左翼が山本太郎ぐらいしかいないのが問題だと思ったりしてますけど、現代のフェミニズムは大なり小なり左翼運動とか左翼思想の蓄積の上に成り立っているのに、カジュアル・フェミニズムはそうした自覚が極めて薄いように俺には見える。いかん映画の感想ではなくカジュアル・フェミニズム腐しになってる!
でもさー、なんかさー、これはそういう風には観たくない映画だと俺は思ったんだよ。それは人間エレノア・マルクスの存在を軽視してその名誉と功績を毀損することなんじゃないですかね。現在に生きる人たちのために過去の人には犠牲になってもらおうということならそれはそれでまぁ…という気もするが、そうなれば過去の人間を現代の視点で蘇らせたこの映画の否定だろう。
※偶像破壊の意図がおそらくあるんだろうというのはまぁわかるが、でも俺はエリマルがどう社会主義者として政治活動をしてどう文学に通じた人として当時の文学を捉えていたかとか…そういう家の外のエリマルももっとちゃんと観たかったんだよな。家の外の活動だけが人間のすべてではないにしても、家の中の活動だけが人間のすべてってこともないでしょ。一応家の外の活動も出てこないことはないがどの活動も悉く短い形式的なシーンになっていて、あたかもマルクスの娘として家の外での大々的な活動を求める周囲の眼差しにしぶしぶ従っているだけのように見える。そういうところも無いこともないかもしれないが、それだけではないだろう、いくらなんでも。
【ママー!これ買ってー!】
エリノア・マルクス―1855ー1898 ある社会主義者の悲劇
映画公開に伴う需要増を見越してか2021年9月8日現在アマゾンマケプレで古本屋が3万超えのボッタ価格を付けているのでこういう本もありますよという意味でリンク貼りましたが買わない方がいいと思います。