正しさのシネマティック・ユニバース

ちょっとだけ凹んでる。なんだか最近どんどん世の中の感覚からズレてきている気がしていて俺がこれはどうかな~と思った映画は少なくともインターネット世論的には大絶賛だったりするし逆に俺がこれは最高だな~と思った映画は少なくともインターネット世論的にはウケが悪いっていうかなんか結構嫌われてる。率が比較的高い。

友達いない人間の逆張り的被害妄想と言えばそれまでなのだが(なのだが!)それにしてもどうしてこうズレるのだろうと考えていて思いついたのが「正しさ」ということである。俺が好きな映画は正しくない映画が比較的多くてインターネット世論が好む映画は正しい映画が多い(とひとまず断言してしまおう)。なにやら曖昧ですがつまりたとえば第一に、物語の倫理的な正しさがある。それは非常に単純な形では善人が悪人に打ち勝つといった勧善懲悪ということになる。第二の正しさは形式上の正しさで、それは勧善懲悪の物語を描く場合にはストレートに勧善懲悪の表現で描かれなければならないといった正しさを指す。物語が勧善懲悪でもその表現に皮肉を含ませればそれは正しくない。

第三の正しさは構成要素の正しさで、ハリウッド映画なんかでは現実の人種構成を可能な限り反映して特定人種だけにキャストが偏ったりしないようにという配慮があったりするわけですが、こんな風に映画の物語とかその表現形式よりも下のレベルで映画全体を支える、社会的な正しさというのがある。とりあえずそういうことにするなら、正しい映画というのは正しい構成要素で正しい物語が正しく表現された映画、と言い換えることができる。

例を挙げて考えてみる。インターネット蛮族たちにポンコツ映画枠に入れられてしまった『スーサイド・スクワッド』は構成要素の正しさは可も不可も無く、物語の正しさは全体としては正しいかもしれない、表現形式の正しさは…「物語がよくわからない」という感想も散見されるのでおそらくこれは正しくない。
ネット絶賛の『ザ・スーサイド・スクワッド』はどうか。構成要素の正しさは少なくとも『スーサイド・スクワッド』と比べれば人種や性格や性別の多様さという点でかなり優良、物語の正しさは部分的に正しくないが最終的に正しくなる、そしてその表現形式は最高に正しい。

どう最高に正しいのかといえばオリジナルとリメイクのような関係にあるこの二作の最終盤の展開の違いに注目してもらいたい。『スーサイド・スクワッド』はワル連中が悪を討ったがその功績は世間に認められることなくチームは再び刑務所にブチ込まれる。『ザ・スーサイド・スクワッド』は対照的にその功績が世界中に報じられてワル連中は一躍ヒーローになる。

よく映画のストーリーはこれを必ず入れるべしと言われるのがキャラクターの変化ですが、『スーサイド・スクワッド』のワル連中は少なくとも表面上は悪を討った経験を通してなにか学んだような感じも失ったような感じもなく元の鞘に収まるだけ。『ザ・スーサイド・スクワッド』は司令室の連中なんかも含めて全員がその物語の中で何らかの変化を遂げて新たな展開を予感させる。

俺は昔から不思議だったのである。映画にはキャラクターの変化を絶対に入れるべきだとか、最後はハッピーエンドにすべきだとか、そういうのが模範的な娯楽映画だとされているし、実際に売れている映画を見渡せばたいへん悔しいのだがそれがまったく正しいことは『スーサイド・スクワッド』と『ザ・スーサイド・スクワッド』の例からもわかる。でもどうしてなんですかね?

と考えた時にそれが要するに「正しさ」を見せるための最良の手法だからなんじゃないかと仮説が浮かぶ。善人が悪を討つだけの物語は確かに正しいがその正しい物語は最初から最後まで正しいがために観客は正しさのありがたさを感じにくいものであるし、表現形式でこれに緩急やうねりをつけようとすれば物語の正しさを蚕食することにもなるだろう、というわけでそれは正しい映画としては二流の域を出ないのである。

しかしこれがたとえば悪い奴の物語ならどうか。最初は悪い奴として登場したキャラクターが物語の中で正しいキャラクターに変化を遂げて、そうすることで正しさのカタルシスを観客は得られるかもしれない。で、ハッピーエンドは正しいことは正しいと循環論法的に正しさを証明する。もし物語の中で登場人物がみんな正しいことをしたのに漫☆画太郎の漫画みたいにラスト1分とかで全員死んだら観客は物語の正しさを損ねられた気になるんじゃないだろうか。

逆パターンのハッピーエンドを考えてみる。主人公は最初善人であったがどんどん悪事に手を染めてめちゃくちゃ人々に迷惑をかけるのであるが、警察に捕まったり復讐をされたりすることもなく死ぬまで最高に幸せに暮らす。これはこの登場人物にとっては超ハッピーエンドだと思うがこんな映画を見せられた観客はたいそう居心地の悪い思いをするに違いない。正しくない物語に正しさの認証マークが付けられたらなんか観客の認知はバグるっぽい。たとえば『ファニーゲーム』のような映画に対する観客の反応がその一例。

おかしなことに悪人主人公が他の人物に成敗されるような場合、たとえば『13日の金曜日』ではジェイソンの悪行に対するゲスト的キャラクターの罰の執行がハッピーエンドとして機能する。このことからわかるのはハッピーエンドというのは実は主人公にとってのハッピーとはなんら関係がないということであり、どうせ生き返るとしてもジェイソンが死んだのにそのオチがハッピーエンドに感じられるとすれば、それは登場人物ではなく物語に対するハッピーエンドとしか考えられない。

『13日の金曜日』(の二作目から先)ではジェイソンは一貫して悪人であるが、物語は悪人ジェイソンを主人公として置きつつもゲスト主人公も別に置いて、その戦いの中で「悪いことをした奴はやっぱ負ける」という物語が紡がれるのである。これはキャラクターの変化とも密接に関係するもので、往々にしてこの手の映画では最初ゲスト主人公は影が薄く消極的だが、ジェイソン等々の悪人をぶっ殺すためにより積極的なキャラクターへと形を変えていく。

ホラーのキモが突き詰めれば死の恐怖にあるとすれば、これらのゲスト主人公は最初死ぬかもしれない(死なないけど)ポジションに立っていて、その時点ではその映画が「悪いことをした奴はやっぱ負ける」のハッピーエンドの物語なのか「悪いことをした奴が実は勝っちゃう」バッドエンドの物語なのか判断することはできない(できるけど!)。それが本主人公たる悪人との対決を通してキャラクターが変化することで「悪いことをした奴はやっぱ負ける」の物語であることが観客の目に明らかになってくるのである。ここでは物語のカタルシスと物語が開示されることのカタルシスがキャラクターの変化によって観客にもたらされるわけだ。

とにかく観客はどうにかして正しいものを映画に見たいし作り手はどうにかして映画を正しく見せたい。感情移入とかいうもっともの程度の低い作劇テクニックは正しさを観客に感じさせる目的のためならいくら程度が低いとしても確かにいつでも超有効である。これもハッピーエンドと同じで結局は物語に対する感情移入なのであって、子供をめっちゃ殺す殺人鬼にすごい感情移入しちゃうような作りの映画があればそれもやはり観客は嬉しく感じない、ことがおそらく多い。むしろ嫌悪感すら感じる。

感情移入といっても観客が求めるのは正しいものへの感情移入であって、仮に貧しい者や罪を犯した者に感情移入してしまう場合でも物語としては「この人は貧乏でこれだけ辛い(だから世の中が悪い)」とか「この人が罪を犯すのにもこんな理由がある(だから世の中が悪い)」とか、個々のキャラクターの上に覆い被さる物語の「正しい」視座への感情移入なのである。そうした物語への感情移入を可能にするために表現形式の正しさが求められるとも言えるだろうか?

じゃあそこまで観客が浴びたがる正しさとは一体何かと考えるとこれはもう謎、完璧に謎なのですがごくごく平凡なインターネットあるあるとしてある正しさの提示に対するカウンター正しさの発生というのがある。ポリコレは良いことなんだと言えば反ポリコレは絶対湧く。多様性は良いことなんだと言っても反多様性は絶対湧く。逆もまた然りであって反ポリコレに対してはポリコレ推進派が湧いて反多様性に対しては云々。

こういう論争になるときに偽善のワードがそれ自体はとくに疑われることなくアンチの側から出てくることは珍しくないが、ということはこれは善と悪がぶつかっているわけではなくて、どちらも俺たちこそが善ということを言っているわけである。つまり正しい。インターネット論争のほぼすべては正しさの独占的所有を目的としていると言っても過言ではないと言い切りたいし、俺は悪いことも平気言っちゃえるんだぜという無頼気取りの反動バカがいたとしても、坂口安吾ではないがそれは堕ちた方が幸せだから堕ちるんだという逆説的な善の提示であり、自分たちの正しさの宣伝と確認でしかないのである。人間は堕ちきれるほど強くはないのだ。

正しさ摂取装置としての映画においてヒーロー映画ほどその目的に適ったジャンルはないので実際これは世界的に超特大人気を得ている。従ってこのジャンルでとくにポリコレが重視されたりしているのも当然であり、正しさが先鋭化する政治イシューを扱うこともまた当然である。正しさの追求はそのうち正しさとは何かという正しい問いに行き着かざるを得ない。『アベンジャーズ エンドゲーム』と『ダークナイト』はおそらくその到達点であり、ヒーロー映画の限界である。

『エンドゲーム』について言えば、その前作で最悪強敵サノスが目論んだのは生命半減による秩序の回復という正しさであり、もしそれに異を唱えるなら生命半減後の世界でひとり寂しく余生を過ごしているサノスにその正しさの正しくなさをどうにかして思い知らせるか、あるいはもう諦めてそのうちサノスが「…これやっぱ正しくねぇな」と気付くかもしれないのを辛抱強く待つべきであったが、アベンジャーズはサノスの首をとりあえず刎ねて歴史修正に逃げるしかなかったのであった。

アベンジャーズはサノスの独占する正しさを力ずくで奪い返しただけでその正しさは正しいのかというようなサノスの問いにはついぞ答えることができず、最後は看板ヒーロー(たち)の献身的な死でもってなにやら感傷的に、アベンジャーズの正しさこそがやはり正しかったのだと半強制的な感情移入を用いて観客に感じさせる。正しさと正しさの競合を調停する唯一の方法は自分たちの正しさの正しさを疑うことにしかない。疑った結果正しさを捨てて一から作り直すかもしれないし、お互いに自分たちの正しさの不完全さを認めて不完全な正しさ同士をこねこねと合体させることでもう少しマシな新生正しさを作ろうとするかもしれない。

ヒーロージャンルでは不可能に思える正しさへの疑念と一時的にであれ放棄を試みたのはなんつっても『ダークナイト』である。その劇中でバットマンが突きつけられる問い、自分の愛する人間と街を救う検事のどちらか一方しか救えないならどちらを救うか? というのはどちらも正しい選択であるがゆえにどちらを選んでも間違った選択になってしまう。バットマンはここで正しさの不可能性に直面するのだ。だが、正しさ摂取ジャンルたるヒーロー映画を否定するようなこの正しさの不可能性は、その後の二つの出来事で結局は撤回されヒーロー映画の通常営業に戻ってしまうのであった。

一つはバットマンが救ったデント検事がジョーカーに唆されいささか不可解な動機で怪人トゥーフェイスと化すことで。なんだ、そっち選んで失敗だったじゃん。ここで愛する人を救うというもう一つの選択肢が「本当の」正しさであった可能性が示される。もう一つはジョーカーに勝利したバットマンがトゥーフェイスの悪事をも被って民衆に憎まれながらも影でゴッサムシティを守り続けるダークナイトと化すことで。ここでは二つの正しさが復活する。その直前の爆破スイッチを押す押さないのシークエンスを引き継いでゴッサムの混乱に民衆の責任はなく悪いのはバットマンだという形の民衆の正しさが示され、しかしその正しさは善良だが無知な民衆の憐れな錯誤に過ぎないのだと描写されることで、逆説的にバットマンの正しさも決して民衆とは交わることなく示されるのである。

観客はそれを観て溜飲を下げるわけだ。やっぱりバットマンは正しいなぁ、とかまぁなんかそんな感じで。ゴッサムの混乱はバットマンのせいでもあるしバカな民衆どものせいでもあるので本当は全員正しくないにも関わらず、全員が自らの正しさに対する検証義務を放棄して無批判的にその正しさの中に引きこもってしまうわけだから、ある意味で正しさの不可能性を無批判的な正しさの称揚のために利用した、極端に進歩的であると同時にどこまでも退行的なヒーロー映画である。やたら感傷に逃げたりしない分だけ『エンドゲーム』よりマシですけどね。

もしも自分の持つ正しさを信じることができずに何かをする度に「やっぱこれ間違ってるんじゃないかなぁ…」とか思うようになってしまったらその人が日常生活を送るのは大変むずかしくなるだろう。そんな人に必要なのは正しさを信頼することであり、正しいことは正しいのだ、と開き直ることである。そう開き直られると今度は周囲の人の日常生活が難しくなってしまうが、そうは言ってもそうしなければ生きられない人間は確かにしかもかなりの数(脳内推計)存在するのだから仕方がない。

映画の正しさはもしかするとそんな人たちのためにあるのかもしれないと思う。特定の正しさを摂取したいのではなくて正しいことは正しいという思考放棄の論理を映画を通して正当化してもらうこと。だから正しい映画というのは大なり小なり独善的である。俺は『スーサイド・スクワッド』は一応ヒーロー映画のジャンルなのに独善的じゃなかったから好きだし、それはストリートで生きてきたデヴィッド・エアーの(本人は自分のフィルモグラフィーから消したがっているが)この世の中で自分が正しさを独占的に握っておくことはできないという生活実感と覚悟から出てきたものではないかと思っていたりする。

みんな間違っているし自分だってやっぱり間違っているのだからどうしようもないが、どうしようもなくても残念ながらクソ人生は続いてしまうし、正しさを信じることができなくても毎日が不安定なだけで別に死ぬわけじゃない。今日もせっせと正しさを正しさの正しさを求める正しさの正しさがわからなくなった憐れなみなさまに送り届ける正しさの正しい映画たちを遠目に眺めながら、そんな何かに追われるように映画観てて楽しいの、作ってて楽しいの、とか俺としては思うのである。

これはね、一応言っておきますけど俺が「正しくない」脚本を脚本賞に送り続けて全然成果が出なかったことの婉曲的な愚痴ではないですから。最近はちゃんと大衆の皆様のレベルに合わせて正しい脚本を書くようにしてるからまだ大きな賞は取れてないですけどそこそこ成果出てきてるの! 創作でメシを食っていきたい人は正しくないことを色々書いてみたくてもさっさと諦めて正しいことを書きましょうネッ!

※『エンドゲーム』と『ダークナイト』をヒーロー映画の極限とかスーパー安易に言ってしまったら『ウォッチメン』はどうなるんだよみたいな話になりますけれどもあれはだからヒーロー批判の物語なわけだからヒーロー映画ではないんだよ。いや別にヒーロー映画でもいいんですけど「ヒーロー映画」を観たい人は『ウォッチメン』観ないだろっていう。

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hishi
hishi
2021年9月14日 10:43 AM

【正しさ】は快感につながりますものね。
自分の感覚や感性や感情を肯定しているものを求めるという意味で、自己承認にもつながるのかも。

ただ、興行的には、『スーサイド・スクワッド』と『ザ・スーサイド・スクワッド』は前者(世界約7億ドル、日本約15億円)で後者(世界約2億ドル、日本約4億円)で評価と真逆の成績を残しています。
なので、お言葉を借りるなら、【宣伝における正しさ】というものもあることになるのかなと。

匿名さん
匿名さん
2021年9月14日 11:25 AM

ダークナイトの内容についてですが、一つ気になる点が…
バットマンが結果的に助けたのはデントでしたが、あれはジョーカーが二人の場所を逆に教えてて騙された結果だったと思うんですよね。
つまりバットマンは迷わずレイチェルの方を選んでいたというわけで、そうなると話が覆ってしまうんですが…