《推定睡眠時間:20分》
なんとなくシリーズ一作目はゼロ年代の映画な気がしていたので今ウィキ見たら2014年公開で意外と最近だったことにちょっとだけ驚きがあった。実際以上に古く感じられるのは思うに脚本の宮藤官九郎のセンスがこれは俺の感覚ではですけど2005年公開の映画初監督作『真夜中の弥次さん喜多さん』からほとんど変化がなくてたぶんそのせい。いや、『真夜中の弥次さん喜多さん』本当に全然面白くなかったんですよ! なにも感嘆符を付けて言うことではないがあの頃はブログやってなかったしツイッターもやってなかったし友達はその頃も今もいないからつまんねぇの思いを吐き出す術がなかったからな。これにて映画版『土竜の唄』も完結ということでなにやらシリーズを彩ったキャラクターたちも顔見せ再登板しておりますし俺もあの頃に感じたつまんなさをここで吐き出しておくよ。な、それでいいだろ宮藤官九郎。ただまぁその当時も掲示板で『真夜中の弥次さん喜多さん』全然面白くねぇぞって暴れていたような記憶もないでもない。ないでもない。
それで『真夜中の弥次さん喜多さん』何がつまんねぇっていうと俺はこれはしりあがり寿の原作が面白かったから「あれがどう映像化されるの!」って感じで観に行ったと思うんですけど、原作もの映画って別に原作に寄せればいいっていう話じゃなくて原作から何を汲むかっていうのが大事なところだと思うんですけど、俺の感覚ではその汲みどころが「そこじゃねぇよ!」みたいなさ、いや、これはストーリー展開で言えばむしろ結構原作に忠実にやってるんですよ。だけど「そこじゃねぇよ!」ってなるのは原作のアシッド哲学的な面白さ(最近の作品だとネットフリックスの『ミッドナイト・ゴスペル』っていうヒッピーアニメが近いと思った)が全然なくて代わりに男子高校生の部室ノリのギャグとかコントに置き換えられて違ぇよそういうことじゃねぇんだよ! みたいなさ。
世代的に宮藤官九郎脚本のドラマで育ったようなものですからファンというわけではなくてもある程度この人の作品の特徴が俺にも言えるだろうと思うんですけど、暗さとか後ろ向きなところとか思索にふけるようなところが基本的にないんだよな、良くも悪くも。なんか主人公は冴えない人とかだったりするんですけどその冴えない境遇にめげたりしないで常にアクティブで立ち止まらない。『真夜中の弥次さん喜多さん』の原作は辛い現実を見たくない二人がドラッグやって妄想に逃げ続けるお話なわけだから立ち止まる物語なんですよね。そこが違うしそこが合わない、俺の感性と。
だって立ち止まるもの。立ち止まるの大好き。それはもう立ち止まってばかりの人生ですよ俺の人生なんて。『土竜の唄』の感想だっていって書き始めてここまでずっと映画版『真夜中の弥次さん喜多さん』の感想を書いてるぐらいだからね。いい加減、先へ進もう。
まぁだからそういうところがあーあいつもの宮藤官九郎だな~っていう映画だったんですよ『土竜の唄』シリーズは。監督は三池崇史ですけど映画のカラーは生田斗真の漫画的顔芸芝居なんかも含めてかなり宮藤官九郎作品寄りだったと思う。三池崇史はどちらかと言えば根暗な立ち止まり型の作風なんですよね。だからこれみたいな破天荒なコメディを撮ると妙に間が悪いところがあって、いつの間にかバカ映画なら俺に任せろみたいなポジションになってますけど、バカをやっても結構突き抜けきれないところがある(オチを除いて)。でもシリアスな映画を撮るとその間の悪さがすごく詩になるんだよな。『初恋』とかはそういう意味で変な映画ですけどバランスの取れた映画だったなーとか思うわけですが。
なんかね、色々出てくるんだよ。シリーズ最終作ってことであのキャラこのキャラが回想も含めてたくさん出てきてオールスターキャストの様相を呈してますけど、それがただ出てくるだけって感じで大した盛り上がりも生まず、まぁ正直なところこれが寅さんとかなら前のシリーズ作に出てきたキャストが再登板して「おぉ!」ってなりますけど、このシリーズだったら「…誰?」ぐらいな感じにしかならないだろ。でしかもそれが出てきたそばから退場するんだからわけわかんないよな。出オチじゃないですかそんなの。テレビドラマ的な単発ギャグ。それを無駄に詰め込むものだから本筋が停滞してしまって盛り上がりに欠いて…というのは『真夜中の弥次さん喜多さん』を観たときにも思ったことだった。
ヤクザ絡みの三池コメディといえば外せないのが下半身ギャグであるからマトリの面々が潜入捜査官の生田斗真のポコチンに「それで、それからどうなった!」とか話しかけて回想に入ったり、風呂に浸かってた全裸のマトリが立ち上がってポコチンが画面に映りそうで映らないギリのフレーミングであったりとか、そのへんはわりと笑ってしまう。青いビニールテープで海を再現とかシャブパスタで人間分裂とか海女ポルノでタコと交接とか生田斗真のポコチンを食いに来る鳥が人形とか(こう書いてもわけがわからないだろうが…)の前衛的なギャグなんかも体育以外すべてCマイナス評価しかもらえないアホ男子版の『ガールズ戦士』といった趣で面白い。
でもこういうの全部序盤なんだよな。こういうことばっかやってて本筋のドラマ部分をちゃんと展開しないから途中からシリアス寄りに転じるとなんだか白けてしまう。ちょっと福田雄一映画の作りとも近いのだが、こっちの映画はそのシリアス転化に痛々しさもあってなお悪く、生田斗真とその兄弟分のメカ足ヤクザ堤真一が打倒すべき敵役ヤクザが岩城滉一なのだが、岩城滉一これ大丈夫じゃないだろ。おじいちゃんじゃん。呂律が危ういしあんまり身体動かせてないし。ほとんど覚えてないからなんとも言えないが一作目はもうちょっと動けていたんじゃないかさすがに。
なんで今更『土竜の唄』の続編なんだよって予告編観た時には思いましたけどこれあれじゃねぇかな今のうちに撮っとかないと大ボス岩城滉一が出演出来なくなっちゃうかもしれないからなーとかそういう動機も一ミリぐらいはあるんじゃねぇかわりと本気で。だからそこはちゃんとシリアス路線で岩城滉一を立てようとするんだよな。だけど結構肉体の限界的な感じだからそんなに岩城滉一にテイク重ねて芝居を引き出すとかもできなくて…っていうのは完璧に邪推なので本気にしないでもらいたいですけど! まぁそういうのもあって、盛り上がろうにも盛り上がれないみたいな感じがあるんです。
いっそのことメカ足ヤクザの堤真一を全身メカのヤクザアトムに改造して空を飛ばしながらロケットパンチで岩城滉一とかその息子の激悪ヤクザ鈴木亮平を倒していくぐらいのバカをやったらよかったのにとか思いますけどね。鈴木亮平も日本刀持って空飛んでたし。なんか『メタルギアソリッド3』のヴォルギン大佐みたいになってたよ鈴木亮平。ねー。そんな面白そうなキャラ立てをしているのになんでラストにバトルシーンを持ってこなかったんでしょうねー。そこは本当ガッカリですよ。でもある意味それ以上の素っ頓狂クライマックスは用意されているし、そこから続く結末もわりと嫌いな感じじゃない。むしろ好き。
ヒーローの話じゃないんだよな。生田斗真も堤真一もろくでもない奴で自分なりの正義とか信念はあるけれども世間的にはそこらへんのろくでもない奴でしかなくて、そういう人たちが自分の進むべき道を探して、見つけて、世の中の流れとは無関係にその道を歩み続ける…ってなんかイイじゃないですか。三池のヤクザ映画って突き詰めれば全部ヤクザにしかなれなかったダメでクズな男どもがここではないどこかへ逃避しようとする物語だから、その文脈の上に置けばあの素っ頓狂オチは少しだけ感動的でさえあるんですよ。
じゃあ面白かったのかと言われればいやそういうわけでも…ってなるので、宮藤官九郎と三池崇史の良いところも悪いところも存分にごちゃ混ぜになった、なんかそんな感じの変な映画だったなぁこれは。
【ママー!これ買ってー!】
METAL GEAR SOLID 3 SNAKE EATER
ヴォルギン化した鈴木亮平を見ていたら三池崇史監督の実写版『メタルギアソリッド』もアリ寄りのアリなんじゃないかという間違った妄想が膨れ上がってしまいましたがナシだと思います。