《推定睡眠時間:20分》
新聞紙で作ったドレスを着たヤングウーマンがタタターと古い英国家屋の廊下を踊りながら歌いながら駆けてきて部屋に入ると壁一面に広がるのは『ティファニーで朝食を』等々60年代カルチャーのポスター、歌と踊りの合間にその一人モノマネごっこを挟んでストンとレコードプレイヤーの針を落とすと流れ出す英国オールディーズ、いや~これは俺は違うな~俺には合わない映画っぽいな~60年代ロンドンとかが舞台で過去作の引用満載のガーリーな懐古映画でしょ~? と思っていたらシーン変わって電車の中、なんとさっきのヤングウーマンがbeatsのワイヤレス・ヘッドフォンをかけているではないか!
このヤングウーマンは60年代カルチャーオタクの田舎女子ということで今はロンドンへ上京中、有名な服飾専門学校に受かったのでこれからその寮に入るところなのであったがこの万華鏡のような目まぐるしい世界の変転! 冒頭からワンダフルに翻弄されてしまって結果、合わないかな~は超杞憂でした。もうねグワングワン振り回されて遊園地みたい。たのしい。そのグワングワンは田舎から都会のど真ん中に出てきたヤングウーマンのストレスとか動揺を反映したもので物語上はそんなのたのしいものではないのですがまぁでもこれホラー映画だから人が困っているのを観てたのしむみたいなところあるじゃないですか。
ホラーっていうかジャーロって感じですけどね。実際エドガー・ライトが公開してる主要なネタ元映画(絶対にそれだけじゃないはずで、『シャイニング』とか『サスペリア』の影響も確実にあるはずなのだが、それぐらいのメジャータイトルになると挙げるまでもなく…ということなのだろう)の中にはジャーロ映画の元祖的な『モデル連続殺人!』もあり、主人公のヤングウーマンが間借りする屋根裏部屋を周期的に照らす赤と緑のネオン照明は『モデル連続殺人!』のイメージと見てまぁ間違いない。
俺がこの映画から想起したのはルチオ・フルチの傑作超能力ジャーロ『ザ・サイキック』で、それは主人公の母親が自殺している設定とか女の受難がテーマになっているところとかあと…それはまぁ言うとネタバレになってしまうので我慢我慢ですが、まとにかくそういう具合にジャーロジャーロしている映画で、ガーリーな感じでもスウィンギンな感じでもあんまりなかったというか、その華やかさの裏側で的な感じだったので、俺は大たのしかったわけですが予告編とかポスターのイメージからそういうものを期待した人は逆にちょっとガッカリする映画かもしれない。
さて憧れのロンドンにやってきた主人公ですが駅で拾ったタクシーで(ここが『サスペリア』っぽい)既にちょっとだけ出鼻をくじかれる出来事が。運転手のオッサンは普通にオッサンだったのでお嬢ちゃん可愛いねぇそうなのファッションをやってるのでもモデルさんもできるんじゃないのぼく君のストーカー第一号になっちゃおうかなげへへと来たもんで「降ろして下さい!」。都会ウーマンであれば中指一本立てれば済む話だしそもそもオッサンも値踏みしてそんなこと言わないんじゃないかというか向こうもなにも悪意で言っているわけではなく単に感性がオッサンなんだろうと思うが田舎のおぼこヤングウーマンにしてみたら恐怖体験でしかない。
そんなこともありつつ寮に着いた。同室のクイーンビー的な都会派ヤングウーマンはなにやら流行の最先端な感じでタバコも酒も行きずりセックスもどんと来い、オール上等のナイトライフで命を削らなきゃロンドンっ子とは言えねぇってなもんで同じファッション好き仲間と思いきや完全に違う界隈の人。自分でデザインして縫製した60年代風の服は褒められるどころかバカにされてしまって主人公孤立。都会は怖い。都会はエロい。キラキラのはずだったロンドン生活に暗雲たちこめずーんと沈んでいたところで主人公が見つけたのは間借り人募集の広告。かくして隣のフランス料理屋のネオンがジージーうるさいアパートの屋根裏部屋へと逃げ込んだ主人公であったが、彼女の恐怖はそこからが本番なのであった。
まあとにかく目まぐるしい映画でショット単位で風景が変わる、あるいは同じショットの中でも風景は変化して、主人公が「見える」人の設定なので(最初に説明されるのでこれはネタバレではない)幽霊が出てくるわけですが、その幽霊がカットを割らずに現れたり消えたりする、人間が幽霊になったり幽霊が人間になったりの変化が背景のほうでコソっと頻繁にあるから「あれ、さっきそこ幽霊いたよね!?」みたいな、そんな場面の連続で、この映画を象徴するシーンとして階段の合わせ鏡でアニャ・テイラー=ジョイが無限増殖する場面と主人公トーマシン・マッケンジーが鏡を見るとアニャ・テイラー=ジョイになっている…という場面がありますけど、観てるこっちもその幻惑空間に投げ込まれた感じになる。
この一連の鏡の演出は言うまでもなくアイデンティティの分裂を意味する。自分を別の自分(鏡の中の華やかなアニャ・テイラー=ジョイ)にしようとする願望はトーマシン・マッケンジーの場合は奔放な寮仲間たちに合わせようとする半ば無意識なもので、彼女が「見える」ことの理由はそこから了解できるだろう。スピリチュアル風ですけど実はスピリチュアルじゃないんですよね。でもそうも見えるようには作られていて、リアルともファンタジーとも結論づけない『シャイニング』風の曖昧さが幻惑性を高めるのに一役買っていたりする。
とはいえリアルだろうがファンタジーだろうがその体験の意味するところは同じで、ヤングウーマンのアイデンティティの混乱と再確立がぶつかり合って破砕しそうな華麗なる映像群をつなぎ止める作品の主題。フェミニズム的な要素もないわけではないがあくまでもサブ的なもので、そこに目を奪われると消化不良感があるんじゃないかと思われるが(そういう感想を見たもんで)、そうではなくこれはたとえば懐かしの『ドニー・ダーコ』のような自分探しものがたりなので、だからラストがああいうことになるわけです。まぁ要するに人生色々あるけど虚勢虚飾で自分を誤魔化したりしないでこれが自分だっていうのを見つけたらたとえその先にゴールは見えなくても地道に見つけた自分を信じて生きていく人が結局は強いっすよねみたいなことですよね。映像は現代風でもそういう意味ではわりと古風な映画なのだ。
べちゃりと潰れた幽霊の顔はなんだか『シエラ・デ・コブレの幽霊』を思わせて不気味。英国オールディーズ流しっぱなしのサントラは目まぐるしい映像とのミスマッチ感が酩酊作用を生む。トーマシン・マッケンジーのいささかデフォルメされた幼さ演技には大いに不安にさせられる。そんなに多いわけではない殺害シーンもジャーロらしくエレガントに血まみれだ。楽しい怖いそしてちょっとだけ教訓的なよい現代ジャーロ映画でしたねこれは。
【ママー!これ買ってー!】
同じような題材でネタ元もちょっと被ってるニコラス・ウィンディング・レフンのモデル惨歌。こちらは監督の性格的に『ラストナイト・イン・ソーホー』みたいにキャラクターに寄り添う感じがなく、観終わって暗澹たる気持ちになる(のが味)