《推定睡眠時間:0分》
※以下の感想文はネタバレっぽいネタバレはないと思われますがコメント欄は比較的ネタバレフリーになってますのでご注意くださいね!
トム・ホランド版『スパイダーマン』の前二作はどっちももう本当にもう本当につまらねぇガキどもが長々わちゃわちゃやってるのが苦痛でそういうのどうでもいいんだよさっさと悪いやつ来て学校ごとぶっ壊してくれいいよ他の星とか持ってってもいいよ学校ほかの星にあげますからスパイダーマンと悪いやつ戦ってできればあのケツの青いガキスパイダーマン負けてくれーと願いながら観ていたわけだがその悪いやつが魅力的なので結果オーライというのも二作共通でとくに二作目『ファー・フロム・ホーム』でジェイク・ギレンホールが演じていたミステリオは何の特殊能力も持たないにも関わらずスーパーチートパワーのスパイダーマン+シールド残党相手に口八丁手八丁だけで戦いを挑みスパイダーマンを窮地に追い込むどころか情報戦においては勝利をおさめるという最高にアッパレな悪党っぷりで感動のあまり口から糸を吐き出してしまうところであった。
映画には人の数だけ見方がある。なんとなく、あくまでもなんとなくなのだがこれちょっとトムホ版の楽しみ方としては邪道感がないかと思いつつ俺にとってのトムホ版はどう一般人ヴィランが鼻持ちならないスパイダーマンとガキどもを追い込んでくれるかを楽しむシリーズになっていたのだがしかし! ぜ…全然追い込まれてない! 今回スパイダーマン及びドクターストレンジの浅知恵のせいで各スパイダーバースからスパイダーマン絶☆許ヴィランズが大集合してしまったにも関わらず追い込まれないとはどういうことだ! それどころかトムホあいつ余裕ぶっこいて「みんな好きで悪をやってるんじゃないんだ…治療しよう!」とか言ってるぞ! テメェこのガキ俺たちゃ患者かい! いや俺はヴィランじゃないけれども!
思えばMCUフェイズ2では人間相手のバトルが減り人を殺めるシーンはおそらく皆無、ヴィランらしいヴィランもあまり出てこず倒すべき敵は人間ではない物の怪やエネルギー体などに変わってきて、それも倒すというよりは追い返すとか凍結するとか非殺傷の手段でどうにかするケースが多いが…そうですか、マーベルさんの映画ではもう人間が悪でいることさえNGですか。そうね現実の犯罪でも根っからの悪人とかいないものね。大抵の場合は生育環境とか経済状況とか福祉の不足とかに動機には直接現れない原因があります。刑務所というのも刑罰を与える施設という面もありますが犯罪者の更生のための施設という面もありますし、島根の刑務所で試験的に行われている刑務所内でのグループセラピー的な更生プログラムを捉えた『プリズン・サークル』というドキュメンタリー映画はとても面白く学びもあるのでおすすめですが、ただそれは現実の話だからね。俺観てるの現実じゃなくて映画だから。ハリウッドの娯楽映画だから!
まぁ別にマーベルは今後こういう穏健融和路線で行くっていうならそれはそれでブランドの個性だからいいと思うんですけど、たかが映画で神経質になりすぎじゃないかなぁっていう気もしないでもないよ。いいじゃんねぇ良いヒーローorヒロインが悪いやつを面白くぶっ殺すだけのアホみたいな話で。それが嫌ならそもそもヒーロー映画っていうフォーマットをやらなきゃいいと思うんだよな。実際トムホ版は一作目から非ヒーロー映画的なヒーロー映画っていうのを模索してた。だから三作通してスパイダーマンではなくピーター・パーカーの名前が強調されたし、その日常生活にスポットライトが当てられると共に、「ヒーローとは何か? ヴィランとは何か?」の問いが軽快な物語の背後に重く横たわっていた。
そうした試みや問い立てが上手くいっているかといえば、一作目と二作目は上手くいってたと思う。それはトムハ版ピーター・パーカーの生活圏内で起こる事件にピーター・パーカーと学校の仲間たちがいかに立ち向かうかっていう小規模なスケールからギリギリはみ出さなかったからで、ドクターストレンジが魔法で人々の記憶からスパイダーマンを消そうとするとかマルチバースからヴィランズが続々やってくるとかになると、小規模なスケールだからこそ可能だったヒーロー映画と非ヒーロー映画の両立が、そのことで緊張感を帯びていた「ヒーローとは何か? ヴィランとは何か?」の問い立てもろとも破綻してしまう。
その破綻を継ぎ接ぎ救助するためにヴィランは全員治療すべき病人なんだ説が出てくるわけだが、展開のための展開という感じでいかにも苦しい。倫理的にも問題だろう。「悪は治療で治るもの」の命題は一見とても優しく無条件的に善いものに思えるかも知れないが、「悪」とは何か個別の事案に即して熟慮されることなく「治療」の概念が先行してしまえば、その先にあるのは優生思想に基づく遺伝子編集やロボトミー手術等々だ。第一これではせっかくのヴィランも活き活きと破壊活動ができないじゃないか! だって治療前に百人ぐらい街の人を殺しちゃったら治療の倫理的正当性が揺らぐからな。だからたくさんヴィランが出てくるわりにはどいつもこいつも人が犠牲にならないところでばかり暴れてるんじゃないかと邪推してしまう。どう考えてももっと破壊できるでしょグリーン・ゴブリンとかあいつ本気出せば。
かくして俺がトムホ版唯一のたのしみにしていた要素は粉砕された。実に長い149分もの上映時間中アクションが占めるのはせいぜい30分だから残りの119分は俺にとってはどうだっていいピーター・パーカーくんのお悩みコーナーとかヴィランズの人間ドラマのコーナーになる。待ってましたのアクションも前述の理由でなんだか炭酸の抜けたサイダーのようだ。複数ヴィランとの乱戦はぶっちゃけ、単純にカメラさばきが下手でテンション上がんない。
笑えるところはそこそこあったしそこは良かったですけど、でも『スパイダーマン』にとくに思い入れのない俺としてはそれぐらいな感じすかね。っていうか今回学園パートも短かかったな。俺は消えろガキどもって思いながら前二作を観てましたけど実際に消えるっていうかあんまり画面に出てこなくなるとそれはそれで寂しい…いや出たら出たで結局ムカつくけどね!
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この頃のアメコミ映画が一番ストレートに楽しめてたような気もする。
コレ過去作見といた方がいい奴ですか?
超見といた方がいいやつです。スパイダーマン1〜3とアメスパ1〜2。
あーやっぱそういう感じなんすね
まぁ過去作を観とけば楽しめるのは間違いない
治療という言い回しに疑問というか、かなり不快に僕も感じたりしました。
ワガママで生意気な子供なだけならともかく、思想まで偏ってしまうのか恐ろしいよマーベル大資本。
それが本国でも大好評で受け入れられて、日本なんかでも期待以上の出来だと只今絶賛中だという。少し前リドリースコットが「ヒーロー映画なんてあんな物いつでもぶっ潰してあげますから」とか言って、さすがに楽しみに観てるヒーローファン達が可哀想じゃないかよ…なんて思ったのですが、ほぼ満員の映画館で今回のスパイダーマン観てたらヒーロー映画ファン達なんて少しは懲らしめてやってほしいなんて思ってしまいました涙
サムライム版スパイダー前夜というか、その数年前のアメコミ映画とか好きですね。スポーンだとかバットマンのMr.フリーズだとかの明らかにスーパークソ映画なんだけど、堂々たる映画というか。やっぱりユニバース化が全ての癌なんじゃないでしょうか
俺もユニバース化が悪いっていうのはあると思うんですよ。ガンダムとガンプラの関係と同じで効率よく商品(映画)を客に買わせるための手段でしかないものがいつの間にか映画の内容を束縛するものになってしまって、そればかりか何か神聖なものででもあるかのようにファンに受け取られていて。そんなもんマルチ(バース)商法じゃないかとか思いますよ。面白いは面白いんですけど。
Mr.フリーズ、下らなくていいですねぇ! 下らないけど、でも下らないことをいい大人たちが本気でやってるから、単に下らなくて面白いだけじゃなくて美しさもあったと思います。
めちゃくちゃ感想パクられてますね
https://filmarks.com/movies/86717?mark_id=125788996
本当だ!おそらくこれは前にこのブログ感想をコピペしててそれを指摘したらアカ消ししたヤツの別アカウントでしょう。前回は本当に丸ごとコピペだったんですけど今回は一応リライトしてるので、う~んどうしようかなぁって感じですね。下手なりに自分の感想を頑張って作ろうとしてるようにも見えるし。でも挨拶ぐらいはしておきます。知らせてくれてありがとうございます!
初日に見て、僕も同じことを考えてました。ロボトミーみたいで怖いな~と。オクトパスとか速攻で変わりすぎですし。「治療が必要」ってメイおばさんが指摘したのは、個人的には、まぁその通りだと思ったし、その背景でオズボーンがドーナツをくすねるのも上手いなと思ったんですよ。貧すれば窮するを上手く表してると思いましたし。『プリズン・サークル』とまではいかなくても、犯罪者の更生と社会復帰、というテーマを扱うのかな~その過程でストレンジと衝突するのかな~と思ったら、治療の内容が物理的過ぎてヤバいヤツじゃないのかコレって。ハンセン病や昔の精神病患者に対する扱いが分かりやすい例ですが、強制的な治療って、ある種の暴力性を帯びますので、内容的にはかなり疑問でした…皆スパイダーマンの競演だけで絶賛していますし、疑問に思わないのかな?と思い検索したら、さわださんのレビューを見て、上手く言語化されててすごいな~と感心しました。失礼しました。
怖いんですよね、ヴィラン側の意志とは無関係に「治療しよう!」とかやりだすから笑
察するに色々と要素を詰め込む中でそこまで丁寧にやってる余裕もなかったんでしょうけど、でも治療というのは基本的には本人の意志あってのもので、せめてもう少しヴィランと対話してヴィランの意志で治療するよう仕向けて欲しかった。それは映画的にはほんの少しの違いかもしれないですけど、仮にそうなってたらわりと号泣してた気がするので、残念だな〜って。オズボーンがドーナツをちゃっかりポケットに入れるところは良かったですね笑
最後、長文失礼しました、ですね。すいません。
いえいえ、何も失礼なことはないので気にしないで下さい。どんなコメントでもいつでもウェルカムですので。
「能力はギフトだ」みたいな台詞出しておいて「彼らを治療してあげよう」路線はちょっとどうなのって思いますよね。ギフトを持つ人間はどう生きるべきかみたいなテーマもあったのに……ヴィランズは治療して自分は治療しないの?って思っちゃいました。特にエレクトロとかサンドマンは能力のせいで人格を乗っ取られてるわけではないから説得次第では第2のスパイダーマンにもなれるわけですし。最終手段の最小暴力としてやむを得ず「治療」を実行するとかならいいんですけど……
やっぱり主人公がヴィランズを「こいつらは鏡に映った俺だ……」と思うシーンをちゃんと入れるべきでしたよね。望まない事故で能力を得たという点で主人公も悪党共も共通していて、彼らはあり得たかもしれないスパイダーマンの姿なんですし、それなのに「治療」というワードを無批判に受容して実行してしまうのはスパイダーマンという存在を自己否定してないか?とすら思っちゃいました。ヴィランを5人も出すから収集が付かなくなるんですよね。興行的には難しいことは放り投げてファンサービスに徹するのが正解なんでしょうけれど……
治療に行く前にもっとちゃんとヴィランズとの対話&バトルが欲しかったですよね。5人も来ちゃったら(上映時間的に)一人一人構ってられないのはわかるんですけど、そこ妥協しちゃったらヒーロー映画としてダメくない!? っていう。
伝統的にというか、アメリカ映画的にはヒーローとヴィランが光と影の鏡像関係になってるのが基本ですけど、トムホ版はその点でちょっと違って大人ヴィランと子供ヒーローが非対称的な関係にある。なのでヒーローとヴィランの対話が成り立たなくて、ピーター・パーカーに感情移入する観客もそこにあまり違和感を感じないから、ヒーロー側が一方的に治療するぞーってやってもその独善性に観客は気付かないんですよね、対話とか鏡像関係の提示を通したヴィランの「言い分」みたいのが出てこないから。
それがマーベル映画らしい軽快さとか親密さを生んでいるとも言えますけど、やっぱりちょっと薄っぺらいと思いましたねぇ。鏡像関係は大人ヒーローたるドクターストレンジの次回作で存分にやるからいいだろみたいなことかもしれないですけど(ズルイ!)
昨日ようやく観賞しました。
さわださんの書かれた事もわかります。
治療、治してやろう、そういう言葉、考え方は嫌いです。
ただ、自分はこれを、素晴しいものとして、最善として描いてはいないと思います。
これは子供のバカな浅知恵であることはわかっていて描いていると思います。
ヒーロー映画だからって、常にみんなの鑑である必要はないと思います。
ただし、各ヴィランが身体の変化に人格を引っ張られていたり、周りから過剰に反応されてどんどん悪いほうに追い込まれたとは思うので、各ヴィランの思考や思想は元来のものでなかったり、決して表に出したくなかったものであるとも思います。
なので、能力を消して救うというのも、否定はできません。
それも各ヴィラン当人にとってはまた別の幸せかもしれません。
すべては結果に現れていると思います。
ピーターは全て失い、自分を大切に思う人から奪う結果となりました。
これはスパイダーマンのヒーロー未満映画の最終章であり、この失敗からやっとライミ版のようなヒーロー映画が始まると思っています。
自分はMCUが好きな人間なので、そう期待しています。
ヒーロー映画の前日譚。なるほどって思いました。たぶんどこに関心を寄せるかで結構見方の違ってくる映画で、俺はマーベル映画よりもDC映画が好きなのでヴィランの方に関心があったんですよ。
救済についてもヒーロー側、救済したい側から見たときの「治療」と、あくまでもヴィランの目から見たときの「治療」って同じようで同じじゃない。DC映画でいえば「ジョーカー」で売れないお笑い芸人がジョーカーとして大衆に祭り上げられる展開は悲劇的にも見えますが、本人にとっては自分と同じように世界が壊れることが「治療」と映ったかもしれませんし、治療行為の本質が心身のある状態を標準として、そこから外れた状態を標準と一致させることとするならば、壊れた世界と(ジョーカーの)壊れた精神が結果的に一致することが「治療」ではないとは言い切れません。それは「治療」行為に必要な標準点をどこに置くかの違いでしかないからです。
この映画の作り手は治療者の未熟さには問題意識を持っていても治療の標準点が適切かという問題意識は持ってないように見えたので、そこが引っ掛かったんですよ。面白かったですけどね。
みんな意図せず精神が変容してしまったので
ロボトミーはちょっと違うんじゃないですかね
生まれついての個性じゃないんだし。
むしろロボトミーで精神おかしなってる人を
元に戻すようなものですよね今回してるのは
例えばオクトパスはチップの破損で脳を乗っ取られてる
オズボーンは常にもう一人の人格に怯えてる
エレクトロも電気吸い出した後は元の人のいい青年に戻り電気ウナギめと呟いてるっていう感じで
むしろそういうバックボーンなのに救われないこれまでが
ある種の精神患者は社会から排除するしかない的な悲しさがあったとすら思ってたので今回の展開は素直に感動できました。
上のコメント返信とかで書いたことと重複しますけど、障害とか病気の治療という行為をどう捉えるか、ということだと思います。たとえば統合失調症の患者さんがいるとして、この人が幻聴に苦痛を感じる場合に、幻聴そのものに苦痛の原因があるのか、それとも幻聴が聴こえるこの人を取り巻く環境に苦痛の原因があるのか、といった問題があります(往々にして両方ある)。
前者の治療がこの映画で描かれる治療ですが、後者の治療は描かれず、現実の治療の場では比重はともかく後者の治療も必須と言えるので、それが俺が違和感を感じたところなわけです。幻聴を聴こえるということを前提としてその人を受け入れていく、幻聴を聴こえる前提で幸せに生きるための環境を整えたり理解を求めていく、周囲の人間にそれができた時に初めてこの患者の人は本質的に「救われた」と言えるんじゃないかと思うんですよ。
その考えはよくわかります。例えばこれがジョーカーなら彼を手術して治療完了となればひどく独善的な映画となったと思います。(その点でレゴバットマンザムービーでの対立者としての宿命を絆と再解釈したストーリーが素晴らしかった)
ただ、今回のヴィランは別に本来の人格に問題があったわけではなく、それぞれ幸せを見つけている人物であった。にも関わらず成果を求め暴走する科学技術、人間のエゴの生贄になるよな形で精神が変容してしまった。むしろそれをストレンジの言うように運命と放置するほうが、自己責任論的な切り捨てを感じました。それはこれまでのシリーズでもこれで解決でいいの?というひっかりとして私の中にも残ってた疑問でした。
なので個人的には彼らは他人でも他人事ではない。救いたいという純粋さが今回のヴィランたちの人選とベストマッチだったと、あくまで個人的にですが思いました。
救いたいという純粋さを表現して観客を満足させるために「救われるべき悪人」を選別するのは救う側のエゴじゃないかと思うんですよ。だって本来は悪人じゃないっていうならミステリオだって悪人ではないわけじゃないですか、セコイ人間だとしても。少なくとももっと穏便に話し合いで「治療」できる可能性はむしろ身体変容をしている今回のヴィランズよりも大きいですよね。でもミステリオの件には今回スパイダーマン側は一切触れてなくて、それは作り手がスパイダーマンの善性を観客に印象づけるために見てみぬふりをしたところだと思うんですよ。
いや、別に俺はこの映画を存在ごと否定したいわけじゃないんですけど、でもそういう倫理的なツッコミどころって普通にあったんじゃない…?って思ったんですよ。だけどシリーズのファンの人はやっぱり思い入れもあるし単純にイイ話だなってなるじゃないですか。だから野暮かもしれないけどこういう視点もありますよっていうのを書いておかないと、なんか、良くないんじゃないかな〜と思ったんです。