《推定睡眠時間:0分》
解体中の民家の廃墟のようなところに幻のように玄関のアーチだけが残っていてその向こうに一人の作業員が姿を現す。脚本に凝る映画監督はタイプにもよるだろうがオープニングにその映画のエッセンスを出そうとするもので、観終わって振り返ればこれはまったく見事という他ないオープニングなのだった。この作業員は映画の主人公マット・デイモン、彼がどんなポジションの人間かはここを見ればわかる。彼は「その他大勢」の一人である。
廃墟はハリケーンの被災地にあり主人公はその解体作業に従事していることが直後の会話シーンで明らかになる。移民と思しき作業員が話している。「街を再建したところで住民は戻るのかな?」「戻るよ。アメリカ人は変化を嫌う」。映画のテーマはこのたった数秒の会話に言い尽くされていると言ってもわりと全然決して過言ではない。一度壊れたものを作り直したら、それは前と同じものなのだろうか?
同じものだと信じるからマット・デイモンは廃墟を解体して更地にする。それは彼が異国の地で出会うことになる人々もまた同じ。古めかしい筆記体のタイトルロゴはリアルなタッチの内容にそぐわなくてなんだか可笑しい。それが喚起する古き良きアメリカは今のアメリカにはもうないからだ、と書いてしまえば先の問いの答えバレのようなものだが…それはともかく、このタイトルロゴにはまた別の重要な意味もあるので要注目。
いやー、超面白かったなこれは。一分の隙も無い見事なミステリーでハリウッドの底力を思い知るこれぞ的な最高のアメリカ映画だ。二時間半とかありますけど誇張じゃなしに一瞬たりとも目が離せなかったね。まぁ今観たから超面白かったっていうのはある程度あってさ、壊れたものの修復っていうテーマで今そういうハリウッド超大作映画がやってるじゃないですか。あえて言いませんけど。タイトルはあえて言いませんけど! でも分かるね書かないでも!!
で俺はその映画を面白くは観たんですけどテーマに対する作り手の答えは楽観的すぎてどうなのそれは~って思ったんですよ。そりゃ客層が違うといえばそうだけど子供も観る映画だから楽観的でいいじゃんみたいなのは子供を含めて観客をバカにしてるんじゃないですかね。もちろんその映画も決して安易なものにはなってなくて「大いなる力には大いなる責任が伴う」っていうのを子供の成長物語の中で一抹の苦みを残して誠実に描いていて…そこまで書くならタイトルを隠す意味はあるのかな!
まぁともかく『スティルウォーター』も心のサブタイトルはノー・ウェイ・ホームです。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』が壊れたものの修復をそれに伴う痛みもそこそこに明日への希望としてポジティブに提示するのに対して、『スティルウォーター』は壊れたものの修復に伴う痛みをこれでもかってぐらいに突きつけてくる、その痛みの先に希望があるのかどうか分からないけれどもたとえ希望が見えなくても修復をしなければならない大人の責任をビターに提示する映画だったので、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の甘さの後ではビシビシと心に響いたのでした。逆に『スティルウォーター』を観て俺の中ではちょっと『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』の評価が上がったりもしたけどね、こういう修復の形もアリだよねぇみたいな感じで。
で件の見事なオープニングに続いてパッパッパっと小気味よいテンポで点描されるのは主人公の現場労働者のプロファイル。食事の時には「神さまアリソンをお守りください」と必ずお祈りする敬虔なクリスチャンで酸素チューブは付けているがわりと動ける達者な母親がいて妻はどうやらだいぶ前に亡くしていて以前はBPの油田で掘削とかしてたけど景気悪化で解雇されて現在は解体を含め様々な現場仕事を転々としながら再び石油業界に足場を固めようとしているところ。
…アメリカ男! あまりにも典型的なアメリカ男! その風貌も入れ墨ありのぶっとい二の腕に赤く焼けた顔面、ジーンズにツーポケの作業シャツイン&野球帽とその上に乗せたスポーツサングラスというパーフェクトなアメリカっぷりでこの時点でもう既に面白くてニヤニヤしてしまうがところでお祈りに出てきたアリソンて誰? と思っていると舞台は説明もなく一転マルセイユ、んー石油の仕事で来てるのかー? などと観ているとマット・デイモン刑務所の面会室へ、そこに収監されているのが娘のアリソン(アビゲイル・ブレスリン)であった。
まったくおもしろい、おもしろい。この映画情報の出し方が本当に巧くて見せるものと見せないものをほんの些細な描写に至るまで細心の手つきで吟味しているのがわかります。主人公のプロファイルは簡潔明瞭に何一つ隠さずに見せる一方でマルセイユ行きの理由は伏せたままその旅程は見せる、そうすると「あれ?」って思いますよね。俺なんか聞き逃したかな? っていう。こういう見せる情報と見せない情報の差分を少しずつ積み重ねていくことで何でもない穏やかなシーンでも通奏低音のようにサスペンスが流れて落ち着けない、不安になる、画面に映っているものや登場人物の言葉がちょっと信用できなくなって、次はどうなるかと見入ってしまう。
だから二時間半の長丁場もずっと飽きることがなくて、同時にこれは豪胆に見えて内面はわりと脆かったりするアメリカ男が異国で感じる心細さを言葉やこれ見よがしの演技を通さずに観客にも感じさせる仕掛けになっているし、陽光の下にあっけらかんと暴力が転がっているマルセイユ独特の空気を伝える手段にもなっているわけで、異国情緒と異国不安が、緊張と緩和が、笑いと恐怖が別々にではなく常に同時に漂っているという…なかなか破格でしょ? この多声志向は撮影にもあって、とくにマルセイユの場面では暗いアパートの室内とその窓の外に広がる景観のコントラストが素晴らしく、そうした絵画風の固定ショットがあるかと思えばまったく予期せぬところで手持ちカメラの即興的なパンが入ってきたりもする。これもまたサスペンスの醸成装置。
さてアリソンの面会に来たデイモンはそこで娘から思いがけない情報を文字通り掴まされて言葉もわからぬマルセイユで素人探偵をすることになる。そこで出会うのが現地の舞台俳優カミーユ・コッタンとその娘。フランス語のできないデイモンはコッタンの助けを得ながら娘の関わった事件の真相に一歩一歩近づいて、と同時に彼女との距離も縮めていく。まだ幼く英語を解さない娘とフランス語のできないデイモンの言葉は通じていないのにニュアンスでなんとなく成立してしまっているコミュニケーションはユーモラスで、個人的にこの映画の最良の場面のひとつ。で、そんなほのぼの異文化交流があるからこそ終盤の展開がずっしり重みを帯びることにもなるのだ。
壊れたものの修復という主テーマの他にサブテーマとして分断社会というのもある。これはフランス団地映画でもあるので団地映画に外れなしの法則が絶賛発動中なのだが、貧困団地住民と都市部のアパート住民が対比的に描かれて、それがまったく違う文化と行動様式を持つように見えて根のところでは大して変わりゃしなかった、というサブプロットも切れ味鋭く本筋に深みを与えていた。「パリと違ってここでは人々が話をするから」とマルセイユに越してきたリベラル派の舞台俳優が団地住民との対話を恐れる一方で文字通り話のできないデイモンは娘釈放のために「この人知りませんか?」の超クラシカル人捜しを団地で行うこの皮肉。
もっとも、それは特定の思想信条を腐すたぐいのものではなく、世界は単純な善悪に割り切れない、ということの表現でしかない。だからこそ人々は割り切れない世界を恐れて善悪が明確な自分たちだけの世界に引きこもり、かくして社会の分断は進む。そこに保守もリベラルも貧困層も富裕層もなく男性も女性もなく誰もが今やそうなのだ。そしてそんな人たちが幻想だとしても統一されていたように見える過去の世界の修復を切に望む。分断を作っているのは自分なのに。
なにやら小難しい話に片足を突っ込みかけているが難しいタイプの映画では全然ない。そうだねぇ、そこがこの映画やっぱりすごいと思うよねぇ。誰でもわかるシンプルで丁寧で裏表のないとっても脳にやさしい映画なのに、その含意を考え出すと止まらない。頭のいい人は難しい話を簡単に説明するというがその映画版がこれ。で、その説明に少しの嫌味も観客を小馬鹿にしたところもないのである。いやはや傑作でありましたなぁ。
※俳優さんの一等賞は信用していいのかダメなのか今ひとつわからん情緒不安定っぷりを見せるアビゲイル・ブレスリン。
【ママー!これ買ってー!】
この世でいちばんうまい食べ物候補といえばマルセイバターサンドですよね! なんかごめんなさい。
観ている最中の私自身の察しの悪さ、頭の回転の鈍さのお陰で、これ、何についての映画かいな…と困惑していたのを最後のマット・デイモンの一言で全てが繋がった!と言う、あまり制作者が意図していなかったであろうインパクトを必要以上に受けしまい、その効果も伴って今んとこ今年ベスト級です。さわださんの文も本作の記憶を気持ちよくなぞれてよかったです。
これはベスト級ですよね。非常に周到なドラマで、俺も最後の一言で「ああっ!」ってなりましたよ笑