《推定睡眠時間:30分》
アリーさんという人に関する悪夢のお話かと思ったらこのアリーは『アリー my Love』のアリーではなくALLEYすなわち路地のことであった。悪夢路地。なのか、悪夢の路地なのか、路地の悪夢なのか、英語にまったく堪能ではないのでそこらへんのニュアンスは完全お手上げだが内容的にはふと人生の曲がり道に入ってみたら悪夢が待っていたという感じでもあれば路地裏で見るような汚れた悪夢という感じでもある。なんにせよいろいろな解釈のできる単純にして気の利いたタイトルといえよう。
主人公のブラッドリー・クーパーは金も職もない人殺し。これはネタバレではなくこの人が殺したらしき誰かを家ごと燃やして始末するというのが映画のファーストシーンなのである。しかしその背景は説明されないし死んだのが誰なのかも説明されない。一種の倒叙ミステリーといったところでクーパーが誰をなぜ殺したのかというのがこの物語の意味を説き明かすためのキーになる…が、それがわかるのは150分の上映時間のうち130分ほどを過ぎてようやくなので、なかなか手の内を明かさないシブいミステリーといったところ。
さて誰かを殺しちゃったので取り合えず逃亡の旅に出たクーパーは旅の途中で煌びやかな巡回カーニバルを目にする。どうせ行く当てもないのでふらりとカーニバルに立ち寄ってみたクーパーが興味を惹かれたのは半人半獣の触れ込みでニワトリ食いちぎり芸をやっている男。うへぇ、あんな風にはなりたくないなぁ…と気取ってみたところで自分だって人殺しなので偉そうなことは言えない。「おい! お前! 俺を尾けてきただろ!」声に振り返るとそこにいたのは低身長症の少佐と呼ばれる男。どうやらこの男も訳ありのようである。
巨匠セシル・B・デミルの巡回カーニバル映画『地上最大のショウ』では犯罪者が身を潜めるためにカーニバル芸人をやっていたが、土地に根付かず人の出入りも激しい巡回カーニバルは訳あり人間にはお誂え向きの職場といえて、興行主も低賃金でこき使えることから訳あり人間を歓迎する。クーパーの振る舞いに同族の臭いを嗅ぎ取ったのか興行主は即日彼をスカウト、クーパーはカーニバルの下働きをすることになる。
カーニバルにはいろいろな見世物があるが中でもクーパーが興味を持ったのはトニ・コレットの読心術。タネがわかればチンケなものだが心に闇や傷を抱えた人はこれに面白いほど引っかかる。引っかかるということは金になるということだ。下働きなんかで終わる俺じゃねぇの野心を密かに抱えたクーパーはやがて自らも読心術師として興行に出るのだが…というわけでここからクーパーの後戻りできない悪夢が始まるのであった。いやそもそも、誰かを殺した時点でもう後戻りはできなかったのかもしれない。
ちなみに読心術というのは後醍醐的な名前のタレントが流行らせて日本でもお馴染みになったメンタリズムのことで、スピリチュアルのワードがなんの躊躇いもなくメディアで用いられる退化ジャパンなのでメンタリズムもとくに留保なく受け入れられてしまっているようだが、あんなものはそもそもいかがわしい見世物芸であると懇切丁寧に教えてくれるのだからこの映画は教育的である。もっとも教育を教育と理解できるのはある程度教育の済んでいる人間に限られるという卵が先か鶏が先かみたいな話もある。占いが日常生活の隅々に浸透しパワースポット巡りがレジャーになりヨガやアーユルヴェーダといった宗教行為(明確に宗教行為である)がカジュアルな自分磨きとして消費される日本でメンタリズムのいかがわしさを説いたところであんま教育効果とかないだろう。
とはいえだからこそ観られるべきだとも言える。なぜならここには占いやメンタリズムの本質は客が見たいものを「見せる」ことにあるのではなく「見られる」ことにあるのだということが描かれているからで、これはまた宗教や政治のカリスマが客寄せに使う手法でもあるからだ。「見られる」とは何かと言えば観客が見たいものを投影する器になること。「外国人は出ていけー!」と叫ぶ扇動家に惹かれる人がいるとすればその人は自分が漠然と思っている「外国人は出て行ってほしいなぁ」を扇動家を通して見ているに過ぎない。扇動家はそれを「あなたがそう思っていること」とは言わずに「自分がそう思っていること」として叫ぶのである。観客が自分の口からはやましくて言えないようなことを扇動家は自分の言葉として代わりに言ってやる。こんな簡単な仕掛けで臆病で愚かな人間たちは案外引っかかってくれるものだ。
閑話休題どころではない脱線っぷりなので大急ぎの巻き巻きで映画に話を戻すとこの映画の物語で描かれていたものは俺の中ではだいたい2.5つぐらいあり、ひとつはハッタリをかまして相手より優位に立とうとする男性文化の虚構性であり、それに付随する形のもうひとつがエディプス・コンプレックスであり、そしていまひとつは「人間は自分の見たいものを見る」ということである。あんまり立ち入った話をするとネタバレになってごにょごにょなので(別にネタバレどうのの映画ではないが)まぁそのあたりは映画館で観て確認してねですが、その三つのテーマの絡みっぷり、男性文化とエディプス・コンプレックスと「人間は自分の見たいものを見る」を歯車にしてどん底人間の犯罪的立身出世ストーリーが回転していくサマはまったく見事、意外性とか新奇性に頼らないストーリーテリングの巧さに唸らされる映画だった(デル・トロ監督作なのに今回は特撮もほぼなし!)
大衆に「見たいものを見せる」扇動家があちこちで権力を握って困ったことをしがちな昨今であるからこれはギレルモ・デル・トロ流の警鐘なのでありましょう。あるいは映画という見世物に対するデル・トロの屈折した愛情表現なのかもしれない。半人半獣の怪物として出てくる男は単なる人間にしか見えないのだがそれを見るカーニバルの観客たちはあくまでも半人半獣と思い込んで見世物を楽しむ。本当はそれがニセモノだなんてわかっていても興行主の嘘に乗っかるんである。これが映画とどう違うだろう。ニセモノの人物のニセモノの物語をニセモノの風景の中で俳優が演じるニセモノの見世物を見て、観客はその人物の死に涙を流しアクションに興奮し社会問題を真面目腐って考えたりするのだ。
アカデミー賞なんていうしょせんはニセモノの映画賞にノミネートされるにこれほどふさわしい作品はない…かどうかは知らないが、映画のラスト同様に皮肉が効いて愉快な話。
【ママー!これ買ってー!】
これに収録されている『知られぬ人』(“The Unknown”)っていう映画を『ナイトメア・アリー』を観ていて思い出した。ハリウッド名優ロン・チェイニーがカーニバル芸人に扮するこれと比べると(比べるのもどうかと思うが)『ナイトメア・アリー』はカーニバルのホンモノ感とかニオイがあまりしないのが玉に瑕なのだが、ニセモノはあくまでもニセモノに過ぎないとドライに突き放す物語内容からすればカーニバルをあえて素っ気なく描いたのかもしれない。
↓その他のやつ
サスペンス映画コレクション 名優が演じる犯罪の世界 DVD10枚組
※『ナイトメア・アリー』と同原作の『悪魔の往く町』を収録。他にもノワール・サスペンス映画史上の傑作が何本も入ったお得ボックス。
えふ えふ様からの伝言だ
もっとまともな記事を作れ
それが出来ないならさっさとハロワ行けカス
お前なんか生きてる価値もない
だそうだ
文句あるならURL付けたからそこから来いと言っていました
一応削除はせずに残しておきますがこれはえふえふという人のアンチが評判を下げるためにやっている限りなくスパムに近いコメントだと思われますので読んでいる人はURL踏まないでください
興味深くブログを拝見いたしました。
まさに見せたいものを見せる、これに尽きる映画だったと感じます。
円環をたどるストーリーの作り込みもさることながら、ストーリーに関連した画の造り込みがエグかったように思います。
人殺しには、見世物小屋の地獄めぐり館の多数の目や鏡は、責め立てられるものがあったのでは…。
見終われば、件のホルマリン漬け胎児には三つ目の目が額についていたのだなあと、読心術師としてステージに立つ彼の衣装を思った次第です。
博士と権力者のくだりはシャーロック・ホームズの「高名の依頼人」を思い出しました。
心霊ショーで「プラネタリウム」を思い出したのですけれど、心霊モノに手を出したら破滅する因果があるのでしょうか。
大戦下の時代背景で、相手の見せたいものを見せる、それは留まることを知らない、というこの映画の主題は、今見るからこそ言い知れない重みを抱かせるような気がしてなりません。
自分勝手に長々と失礼いたしました。
結構寝ていたので胎児のオブジェはあんまりよく見ていなかったのですが(恥)、そうか、あれも主人公の鏡のようになっていたんだ! それでピコンと腑に落ちましたよ、ビンの中の胎児、永遠に成長できない…つまりは父を乗り越えることのできない、父としての興行主に使われるだけの見世物。様々なメタファーとかアナロジーがあちこちに象眼されている映画なので色々解釈ができて面白いですよね。
心霊ショー/降霊術で破滅しがちなのはなんででしょう? ハッピーになる映画って全然見た記憶がありません。戦争を背景にしているのもまた深いというか、考えさせられるところですよねぇ。