《推定睡眠時間:20分》
俺のオールタイムベスト映画の一本はソ連末期の奇天烈SF異文化交流コメディ『不思議惑星キン・ザ・ザ』なんですけどその中に主人公二人が飛ばされた砂漠の星ブリュク星ではマッチが貴重品で金(きん)みたいに取引されるっていう設定があってあははマッチが貴重品だなんて変なのソ連の風刺なんだろうなーって今までなんとなく思ってたんですがこの『親愛なる同志たちへ』を見たらこれは1962年のお話ですけれども物資不足でマッチすら店に置いてないっていうソ連人民の愚痴が度々出てきて「マジでマッチ貴重品やったんや…」とかなった。
そりゃ『不思議惑星キン・ザ・ザ』みたいに金の代わりになるってことはないにしてもこれってたぶんソ連人民的にはあるあるネタなんですよね。『不思議惑星キン・ザ・ザ』ってソ連でめちゃくちゃヒットしたらしいですけどそう考えるとちょっと見方が変わるっていうか、西側の端っこにいるこっちからしたら変な映画だな~って感じでなんでこれがヒットするんだよって思っちゃいますけど、でも自虐的ソ連あるあるの映画だとしたらさ、まぁ使えない官僚が賄賂取るとかテレビで貧窮ソングが流れてるとか色々風刺ネタが出てくるわけですけど、ある意味これはソ連の現実だよね。俺たちの現実こんな苦しいじゃねぇかっていうのを映画でネタにして笑い飛ばしたらそれは日頃から色々耐えてるソ連人民にウケるわ。なんか『キン・ザ・ザ』とのメンタル距離、近くなったな。
で『親愛なる同志たちへ』なんですがこのタイトルは主人公の女性党員が工場で起きたストライキに関するレポートを書かされるシーンに由来する。ソ連はとにかくレポートをやたら書かせる。このレポートは単なる報告ってんじゃなくて暗い現実を理想的な嘘で塗り固めるためのものでもあるし党への忠誠を示す踏み絵でもあるっぽく、つまりそれは要するに報告なんかではなく呪文のようなものらしい。ソ連人民は至る所で四六時中態度表明を求められるため本音の意見が外に出てくることはない、というようなモスクワ滞在の印象をヴァルター・ベンヤミンが書いたのはスターリン体制下の1927年のことだが、このソ連式コミュニケーション(?)は1962年もソ連崩壊も超えてウクライナへの軍事侵攻後もなお健在、というか、軍事侵攻後にプーチンへの「公式な」支持率が上がって80%超えとかになってる現代ロシアではむしろ花盛りらしい…とどんどん話がズレてなかなか映画の話に入っていけないが、まぁでもこの内容でウクライナを絡めた話をしないっていうのはちょっとできないじゃないですかっ…!
さて主人公は地域のなんとか党委員会の人なのでストライキ中の工場へも視察に行ったしそこで治安部隊によるものと思われる銃撃が起こったのも見たしそのせいで労働者側に死者が十数人ほど出たことも知っているがそんなものはなかったというのが党の見解なので党員として必死に目をつむろうとする…と思うが俺は睡魔により目をつむっていたのでこのへんは定かではない。目覚めたときには既に街は戒厳令。表には死体が転がってるし夜間外出はできないしでまるで戦争のようだ。そんな状況にあっても主人公は例の工場の労働者で安否不明の妹を探して東奔西走、KGBの協力者(恋人?)まで得てうーむさすがロシア女性はタフですねぇ。
ストーリーはそれほど凝ったものではないし映像もモノクロで重しをつけようとはしているがぶっちゃけカメラワークは凡庸で軽い、演出も大して気合いの入ったものには見えないが、それでも興味深く見られるのはやっぱ監督のアンドレイ・コンチャロフスキーがソ連時代のロシアを知ってる人だからマッチの話とかもそうですけど経験に裏打ちされた迫真性があったからだと思う。家族や隣人を侵す静かな相互不信の空気はそれがドラマティックな盛り上がりを生まないだけにかえって無気味で切ない。KGBの連中がストの首謀者誰だっつって何枚か取ったストの写真の中でたまたま口を開けて写ってたやつに丸付けてこいつだろって大真面目に言ったりとかはちょっと笑ってしまうが、現実のKGBがそんな適当だったかどうかはともかく(適当だったと思うけど)そういう風に人民に見られてたんだろうなぁっていう説得力がある。
経済政策に失敗したフルシチョフを腐してスターリン時代は良かったと主人公が何度か愚痴をこぼすのも1962年当時のソ連人民の率直なところでありましょう。痛ましい台詞だよなぁこれは。ペレストロイカでスターリン体制下の悲惨を知った時にこの主人公は何を思うんだろうか。映画の最後で真っ暗な夜の街を眺める主人公の目にはまだソ連の明日への弱々しい希望が見える。現状に希望があるからではなく現状に希望がないから未来に形の定まらない希望を見ようとするわけだが、それを切り取るカメラには主人公に対する同情はあっても暖かさは感じられない。あたかもソ連が崩壊しても結局大して変わりはしないんだよ、とでも言うように。そうした皮肉な眼差しは所々にあったように思う。痛ましくもどこか滑稽な映画だ。
かなりどうでもいい野次馬トリビアとしてコンチャロフスキーの弟ニキータ・ミハルコフは熱烈なプーチン支持者ってのがある。ミハルコフはウクライナ戦争についても当然のようにプーチンの主張を受け入れてビデオメッセージで「真実」を発信しているが、それを踏まえて観ればこのタイトル、このストーリー、このラスト、あるいは女性主人公とその妹に焦点を当てた反男性主義的なキャラクター設定というのも、なにやら別種の面白さを帯びてきたりするのであった。
2022/05/03追記
主人公が探してる人は妹と書いてますがあれは娘だとコメントで教えて貰いましたのでここに訂正しておきます。
【ママー!これ買ってー!】
というわけでスターリン体制下の地獄の一端を。これはウクライナのお話なのでアクチュアルですね。
非常にクラシックでオーソドックスな画面作りの映画でしたね。私はハリウッド以降のフリッツ・ラング、特に「処刑執行人もまた死す」とか想起してしまいました。でもお陰で随分と見易くて助かりました。昨今のリアリズム追求型の圧政映画は演出の圧が強すぎて全体の問題に思いが至るまえに感情に流されてしまってしんどいのです。同監督の「インナーサークル(映写技師は見ていた)」は本作と違い、かなり尖がっていて大変お勧めなのですが、ビデオでしか入手できないのが辛いトコです。
たぶん意図的にオーソドックスに作ってるんですよね。商店の倉庫での一幕なんて結構長いシーンですけどマスターショットほぼ一本で簡潔に済ませちゃって、あれはもっと若い監督ならそれこそリアリズムのタッチでもうちょっと凝ったシーンにすると思うんですけど、これはそうしない。「どこで何が起こったか、そこに誰がいるか」というのを観客にわからせることを優先した作りで、一種の擬古調というか、あの頃のソ連映画ならこう撮るだろう…みたいな演出意図なんだと思いました。この題材でリアリズムのタッチでやられても辛いので(笑)よかったですよね、こういう選択で。
『インナーサークル』、実はビデオ持ってるんですよ。しかしデッキの方が壊れてしまっていて、新しく買うにも今は相当値が張るしどうしようかなぁと思っているところです。むしろ今だからこそ名画座でやってくれませんかねぇ、コンチャロフスキー特集みたいなの…
『キン・ザ・ザ』のマッチは、おぉ確かにその通り! って思いましたし、そういうソ連という時代の実感がしっかりとある映画ですげぇなぁ、これは単なるあの頃は良かった的なものじゃないよなぁというのは俺もそう思うんですけど、行方不明になったのは主人公の妹ではなく娘だったと思います…。
ソ連の英雄的兵士(ただし既婚)との道ならぬ恋で生まれた娘という設定だったのでそこもちょっと含みを感じるところかと。
いい意味で凝ってない画作りになってるのはホントそうだよなぁと思います。
え!あれ娘だったんですか…それはまたえらい基本的なところで間違ってますね…あとで追記しときます!