庶民感覚映画『東京2020オリンピック SIDE:B』感想文

《推定睡眠時間:0分》

結論から言うと『SIDE:A』に比べてそれほど面白くはないし完成度もいくぶん落ちる気がした。ただそれは映画としてということで多くの日本人がこの2部作のオリンピック公式映画に望むものはむしろ『SIDE:B』の方に多く入ってるんじゃないだろうか。具体的に言えば組織委の人とか開会式の演出チームの人とか選手とかコーチとかその他諸々の表情とインタビュー、そしてその迷走と混乱っぷり。『SIDE:A』の詩的にして私的な作風に対してこちら『SIDE:B』はジャーナリスティックな作風で、対極的なアプローチは面白いもののオリンピックにもオリンピック騒動にもさして興味のない俺には印象的な画や音が『SIDE:A』に比べて少ない分だけ観ていて退屈に感じられたのだった。

さて物語はIOCバッハ会長がオリンピックの理念を語るインタビューシーンから転がり始める。曰く、オリンピックは世界の多様性を認めつつ統合させるもので、日本人がこうしたオリンピックの理念にどんな答えを見せてくれるか楽しみにしている。このインタビューが録られた具体的な日付はわからないがまぁマスクもしてないしコロナ以前のことだろう。ではコロナ禍を受けて日本人はどんな答えを出したか。河瀬直美が描くのは残念ながら当然にもうつくしき統合なんかではなく、オリンピックに向けてむしろ瓦解し対立し分断を深めていく日本人の姿であった。

オリンピックを開催するのかしないのか、するならどの程度延期するのか、会場はどうするのか、選手の練習は、観客の動員は、新型コロナ対策は? 人が喋っていないシーンはない(ありますが)というほどに全編に渡ってオリンピックに関わった様々な立場の人々があれやこれやの持論を語るこの映画には建設的な意見交換や議論の様子はほとんどカメラに入らず、代わりにそれぞれ孤立した人物たちがいかに自分が正しいかということだけをカメラの前でアピールし続ける。

象徴的なのは競歩の会場変更を周知する会見の席でICOの代表団からYESかNOで答えて欲しいと話を振られた小池百合子が「少しスピーチをしてもいいですか?」と返答して代表団の人をムッとさせるシーンだろうか。能楽師の野村萬斎が開会式演出ディレクターだかを降板した際のインタビューも強烈だ。大意だが、「私たち日本人がこういう伝統の上に存在している、ということを理解する人が電通さんを始めとしてチームにいなかった」。その記者会見の場で野村萬斎の後釜に収まった電通マンが「みなさん自己主張が強いのでなかなかまとまらなくて・・・」みたいなことを言った時の野村萬斎のキレ顔、良かったですね!

それからバッハ会長が都庁の前でオリンピック反対デモをやっている人と直接話そうとするシーンも印象的だった。バッハ会長は通訳を介してトラメガで怒鳴るのをやめて話し合わないかとデモの人に持ちかけるのだがデモの人は拙い英語で我々は五輪を求めてない! のトラメガ絶叫一点張り。バッハのバックには通訳からボディガードから報道陣からと大人数が控えているので多勢に無勢の観もあり、カメラを意識してのアピールの面もあるにはあるだろうが、とはいえバッハの話しぶりはわりかし真剣であり、オリンピックをめぐる分断が痛ましく表れたシーンと言えるんじゃなかろうか。

とこのように様々なレベルでの分断状況が描かれるのだがとりわけ批判的にスケッチされるのは大会組織委で、目玉はやはり元会長・森喜朗。ただしその手つきはシニカルでそそっかしい人なら見逃してしまう迂遠なものだ。映画の序盤で森喜朗がスピーチをするとその中のいくつかの言葉が市川崑風の、というよりも庵野秀明風かもしれないが、黒字にでけぇ明朝体のテロップが出て、そのひとつが細部違うかもしれないが「言い訳ばかり」。これは森喜朗がその後「女は話が長い」発言の釈明に追われて「言い訳ばかり」していたことを皮肉った演出だろう。

組織委会長辞任後に「やめた方がよかったのか、それとももう少しふんばった方がよかったのか、まだわからない」と語る森喜朗のインタビュー映像に何かを見つめる子供のカットを繋ぐ編集もまた皮肉。というのもこの映画、何かを批判的に扱う時には「それ、子供が見たらどう思いますかねぇ」と言わんばかりに無言の子供のカットを入れてくるのだ。なんて嫌味な! もっとも子供はそのためだけに挿入されるわけでもなく「これからの日本は君たちのものだからね」的な意味合いでも用いられるのだが。

これらの皮肉な演出を見れば痛烈と言っていいほどに批判というか非難される組織委だが、それとは反対に柔らかい眼差しが注がれるのは福島や沖縄(とあと奈良?)などの地方を走る有名人ではない聖火ランナーとそれを見物する人々、それに会場設営や選手村食堂運営の携わるいわゆる裏方の人々というわけで、要するに中央や上層部といったものには厳しい眼差しが注がれ、周縁や現場に対しては同情的というのがこの映画なのであった。とすれば河瀬直美のオリンピックに対するいささかアンビヴァレントな態度の理由もわかるんじゃないだろうか。

『SIDE:A』で暗喩的に描かれたように河瀬直美は近代オリンピックの商業性や国威発揚、中央集権的な体制は奈良地球市民の観点から否定するが、オリンピックという祭典が地方を活性化してそこに住む人々を結びつけたり、普段は日の当たらない仕事をしている人々に人生一度の晴れ舞台を与えるなら、同じ奈良地球市民の観点からそれは肯定するのだ。だいたい、すごい選手たちがすごいことをしていれば単純にすごい。河瀬直美は奈良地球市民として俗人感覚を大事にするのですごいものを見れば素直にすごいと思うのだ。この点が河瀬直美とすごいものでもすごいと言わない都会のスノッブなリベラルを分かつ点じゃないかと思う。

『SIDE:A』が河瀬直美の世界市民的センスで作られた洗練の映画なら『SIDE:B』は一奈良市民のセンスで作られた少々不格好な映画と言えるかもしれない。『SIDE:A』は新型コロナ禍で一層深まった世界の分断をポエムに昇華していたが、『SIDE:B』は昇華することなく分断の現実を荒っぽく観客の顔面に叩きつける。だからここには起承転結もなければ答えもない。美しいものもなければ崇高なものもない。ただひたすら泥臭く汗臭い(あと加齢臭)人間群像があるだけだ。

なかなか辛辣な映画だが、あの東京2020大会を正面から描こうとすれば辛辣になるのは当然なのだから、(それが現実のすべてではないとしても)しっかりと現実に向き合った真摯なドキュメンタリーと言えるかもしれない。それに一抹の希望だってないことはなく、それは森喜朗の会長辞任後に女性委員を半数にして刷新された大会組織委に見ることができる。問題だらけの東京2020大会だったが逆に言えば大会が日本の問題点を炙り出したとも言えるわけで、組織委のように大会きっかけで仮初めでも良い方向に変革が進んだ領域があるのなら、100年後から振り返った時にあの大会も無駄ではなかったと言われるかもしれない。

今の子供たちが大人になった時にはどんな風にこの波乱の大会を回想するだろうか、と答えのない問いを投げかけて映画は終わる。面白かったのは『SIDE:A』の方だが、力作と言えるのはこの『SIDE:B』の方じゃないだろうか。

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河瀬直美と思われるインタビュアーがどっかの子供に将来の夢を聞くと「ゴジラみたいなオリンピックになる!」と子供らしくよくわからないことを言ってくれるのだが、その発言に触発されたのかある意味逆パターンの『シン・ゴジラ』として作られているようなところもあるのがこの映画の面白いところ。オリンピックという名の巨大不明生物を前に人々が全然一致団結できないっていうね。

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