《推定睡眠時間:寝てるどころではない分》
たくさんの生き物が出てくる映画なのだが突然ですが次の生き物の共通点はなんでしょう。
①かえる
②いもり
③さんしょううお
物知りな人は両生類と答えるかもしれない。知らなくても常識のある人は水辺に住む生き物と答えるかもしれない。ではもうひとつ生き物を加えるとどうだろうか。
④にんげん
人間は霊長類なので両生類説は不正解になる。水辺に住む生き物という答えは人間が水源なしには生きられない以上は外れというほど遠くはないが全ての人間が水辺に住んでいるわけではないので正解とも言えない。ではかえる、いもり、さんしょううお、にんげんに共通するものとは何か。
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答えは単純。目が二つある生き物である。あるいは手足が一対ずつある生き物でもよし。または胃が一つある生き物でもたぶん正解だが、果たしてかえる、いもり、さんしょううお、にんげんの並びを目にした時にこうした答えを出せる人はどれだけいるだろうか。かえるもいもりもさんしょううおもにんげんも目が二つある生き物であることは少なくともその名称を知っている人なら誰でも知っているにも関わらず、そのうえパッと見たときの外見的特徴の中でも一番と言ってよいほど目立つものであるにも関わらず、俺は大抵の人がそうは答えられないと思う。
動物がそれぞれに固有の知覚センサーを用いて知覚する世界の在り方を生物学者のユクスキュルは環世界と呼んだ…などというのは俺はまともに通ってないから知らないが中学か高校の生物の授業で習うと思われる一般常識だろうから改めて書くまでもないかもしれないが、セルフ復習も兼ねて書いておけば、それは要するに同じものを見ていたとしてもダニの見るそれとトンボの見るそれとニンゲンの見るそれはすべて異なる形をしているということである。そして同時に重要なのは、ダニもトンボもニンゲンもすべて異なる「もの」を見ているにも関わらず、見ている対象はすべて同じだということだ。
主人公の小学生~中学生あみ子は言ってみればダニのように世界を見る人である。その世界は周りの人間と同じものを見ているはずなのに周りの人間と違っていて、それが彼ら彼女らを不快にさせずにはいられない。もう少し良い喩えがあるだろと文句を言われそうだが別にダニは人間と比べて下等生物でもなんでもなくただ単に人間と違った生態と形態を持つ生き物でしかないのだから、その人間的かつ良心的なツッコミが生じる時点で我々は既にあみ子のような人間の持つ環世界を拒絶する一般化の罠、それこそ網に囚われている。
あみ子であれば目が二つある! と即答できるかもしれないかえる、いもり、さんしょうお、にんげんに共通するものは何でしょうの問いに、多くの人はおそらく正しく答えることはできない。そこに見えている当たり前の光景が、俺を含めて多くの人には『姑獲鳥の夏』よろしく認識できない。この映画の中で逆説的に描かれるのはそうした「普通の人」の盲目性、環世界の限界なのである…とまったく迂遠な前置きになったがそうとでも書かないとこの映画が普通の人たちに「可哀相な人」の物語と受け取られてしまいかねない気がしたのでついついタイプする手が動いてしまったわけです。あのねそんなスケールの小さい環世界のケツの穴が小さい映画じゃないからこれ。自分で書いておいてあれだが斬新な表現だよね、環世界のケツの穴って。
ところでこの映画のポスターを見たときに俺の環世界がすぐさま接続してくれたのは写真家ホンマタカシの不機嫌な子供の表情を撮ったシリーズで、そのときは偶然の類似かなぐらいだったのだが映画を観たらおそらくこれはインスパイアもしくはオマージュ、俺の環世界もなかなかやるじゃないかと自分を褒めてしまった。
というのも撮影がとにかく写真的ですばらしい映画なのです。アングル、コンポジション、色彩いずれも惚れ惚れする美しさ、のみならず言いようのない悲しさ、それでもあふれ出る楽しさ、その中に静かにしかしじっとり滲む恐ろしさ。ホンマタカシの写真ぽいというのは一見シンプルな一枚絵の中の強靱な複雑性に由来するのだが、この見事と言うほかない調和と意外性の共存は現代日本映画の最高峰をゆうに超えて世界映画の最先端といっても全然過言ではないと俺の環世界を信じて断言したい(撮影監督は今泉力哉の映画でお馴染みの岩永洋)
しかしこの映画が俺の環世界の中で(いやそんな留保はつけたくないのだが!)傑作なのは何も絵が綺麗だからなんていう生ぬるい理由ではない。これらの充実した一枚絵があみ子の環世界を半主観的に表現しつつ、反面でその厳密な構図があみ子の環世界を拒絶して、彼女を檻の中に閉じ込める残酷な役割を果たしているからこの映画は類を見ない傑作なのだ。これはすごい。すごいじゃないか! そんなものを見せられたらあんたどんな感情になったらいいかわからないですよこっちは、ゾッとするやら笑うやらで。
この徹底して安易な理解や感情移入を拒む姿勢。フィルムの美さえも観客を残忍な「普通の人」の環世界に送り返す罠として機能させる覚悟。…が作り手にあったかどうかはともかくも、結果的に出来上がった映画はそのようなものになってしまっている。あみ子を演じた大沢一菜の棒読みに近いある意味ギリギリの、フィクションとリアルの絶妙な狭間にある子供の生が剥き出しになった演技が画面を決定的に変質させてしまっているのだ。もちろんそれを井浦新や尾野真千子、それから名前は知りませんがあみ子の同級生たちなんかが迫真の演技でアシストしていることは言うまでもない。
とにかく観る側としては良いも悪いもなくあみ子とあみ子以外の環世界のズレをただ黙って直視することしかできないのがこの映画である。そこにはなんの答えもないしそもそも問題さえ立てられていない。映画を観ながら逃げ出したくなったのは久しぶりだ。なぜならここにはこれはこうだと安住できるような視座がひとつもないから。そしてそうであるからこそどこまでも目を離すことができない。あのラストシーンをいったいどう受け取るべきなのだろう。それは一つの環世界の中で幸福な光景に見える。けれども別の環世界の中では…という次第なのである。
と、そうは言いつつあみ子の方にどうしても視線を寄せて見てしまうところもあり、かなりどうでもいい超私的情報だがあみ子がフライドチキンの骨をバリバリ食ってたように俺も小学校の頃フライドチキンの骨食ってた。抜歯箇所に部分入れ歯を入れている今となって遠すぎる過去である。「お墓」を作ってガン切れされるところはあみ子同様に俺も意味がわからなかった。なんでこっちが怒られるんだろう、ただ弔ってあげただけなのに。ちょっとあんたら了見ってものが揃いも揃って狭いんじゃないかね。むしろ褒められたっていいぐらいなのに怒られるなんて…と思う俺もさぞ周囲の大人にとって扱いにくいガキだっただろう。
とはいえそのおかげで自分がひとつの環世界の中にいることに、そうしておそらく環世界の輪郭にすら気付かない右にならえの鈍感なレミングの衆の仲間に入ることを免れたわけだから、結果的によかったのではなかろうか。下手にバカどもとつるんでバカのリスクをこっちまで背負うことはない。環世界とはその生き物が危険だらけの世界を生き抜くために作る固有の世界なのだ。
ネグレクトされ風呂に入らなくなったあみ子を見ればそういえば小学校の頃はこんなヤツがクラスに一人ぐらいはいたなぁと思う。風呂に入らないヤツもいた。漢字が読めないヤツもいた。突然走り出したり叫び出したりして教師をうんざりさせるヤツもいた。あみ子みたいなヤツは俺の小学校には何人もいたし俺もその一人だった。その郷愁も俺がこの映画に法外な評価を与える大きな理由だとはわかっているので、郷愁を覚えない人にとっては『こちらあみ子』は変な子ども映画程度でしかないのだろうとはこれだけ熱狂的に書いておいて案外ドライにわかってはいるが、まぁでも、俺にとってびっくり傑作なら俺にとってはそれで充分なので、別によいのです。
かえるといもりとさんしょううおとにんげんの共通点が俺にはわかるし、自分以外の大多数に見えない線が見えることは、生きるための才能だ。そう考えればこの映画は勝手に病んで傷ついて死んでいく人々の中にあってただ一人あみ子だけが健全に生き続ける超ポジティブな映画と見ることもできる。森井勇佑とかいう完全に無名かつこれが商業長編第一作の監督の、このまま死んでたまるか! の叫びが聞こえてくるような、これを渾身と言わずに何を渾身と呼ぶのかという魂の映画である。
※最初の方に無線機のオモチャとかインスタントカメラとか出てきたから少し昔の話なのかと思ったら現代の話で、果たしてその意味するところはと考えてしまったのだが、世界の方は時代に流されるがままに目まぐるしく変わっていくがあみ子は流れに動じずその世界は変わらないとかそんなことなのだろうと一人で納得した。流されるやつはいざとなったらすぐ死ぬから流されないのは大事なことだ。
【ママー!これ買ってー!】
ホンマタカシの子供写真は「子供らしい」という表情が全然出てこないのだが子供らしさなんて大人が自分が安心するために勝手に押しつけるイメージでリアルな子供なんてこんなもんでしょうよということでこの見る者を落ち着かない気分にさせる写真がとても痛快。
↓原作
これ、フィルマークス見たら女の子はヤバイ、親かわいそうみたいな感想多くてビビりました。私の感想は、子供はみんなモンスターだから、ダメになる親がショボすぎ、でした。でも思い返せば、この映画はオバケを見せており、なによりミカンが落ちてこないシーンで、第三者的な現実ではなく、女の子の「環世界」を表現していると後で気づきました。だから、女の子に降りかかる事件、すなわち継母からの嫌悪、思い人からの暴力が、唐突だった、つまりあみ子はKYだから非常識な言動を日常的に行い、周囲の気持ちがわからなかったのだと悟りました。ラストで女の子はオバケとサヨナラしますが、彼女にとって親はたいして重要ではなく、いなくなってすっきりしたと言うことでは?親があるから子は育つのではなく、「親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。(坂口安吾)」。これは普遍的かつ現代的なキャッチ―さがあります。きっと私も「親ガチャ」外れたんです!だからいまこんなみじめな…って、うるせぇ!!!
あと、クソ田舎過ぎるのは広島では少女だけでなく土地も時をかけているからかも!
食人大統領さんコメントありがとうございます。
そうなんですよね、俺もあみ子目線で「そんなに怒らなくてもいいのになぁ」とか思うんですけど、でもまぁあみ子の相手をする周りの人間にとったら毎日が「ええ加減にせぇよ!」の連続なんだろうというのもあって。その両方を見せる映画だったのですごいなぁと思いました。どっちの気持ちもまぁまぁわかるけど、どっちにも100%は肩入れできないっていう。
それから、これは本文にも追記しようと思っていたことですが、あみ子は自分がどんな目に遭おうが置かれた環境がどれほど変わろうが、絶対に動じない強い自己を持っているんですが、あみ子の周りの普通の人たちはちょっとした環境の変化ですぐに自分を保てなくなってしまう。だからあみ子はどんな状況でも生き抜くことができるんですが、普通の人たちはそうじゃないんですよね。そういう映画かと思いました。
そうか、トランシーバーとかのあの古さは時をかけていたからか笑
クイズの例え、ご自分で考えたんですよね?!見終わったあとに言い得て妙だなとびっくりしました。
私もすっかりあみ子側で見てしまいました。はあ〜〜救いようがない〜〜。でもこれがリアルですね
まぁでも、あみ子は無駄に生命力に溢れているからきっと大丈夫だと思います。周囲の人は大丈夫じゃないかもしれないですけど笑