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西ウクライナでは当初ドイツ軍は歓迎された。とくにOUN(ウクライナ民族主義者組織)はじめ民族主義者たちは、これがウクライナの独立と統一に結びつくものと期待した。当初ドイツ側は、対ソ戦争の道具のひとつとして利用するとの観点からウクライナ民族主義者に若干の宥和的な態度を見せたが、次第に弾圧の方向に向かった。
黒川祐次『物語 ウクライナの歴史』
バビ・ヤールというのはウクライナはキエフ郊外にある谷間のことでその名を冠したこの映画が主題とするのは第二次大戦中のドイツ軍占領期にバビ・ヤールで起きたホロコーストの一幕だが、そのわりにはホロコーストとあんま関係ないように見えるウクライナの地を舞台とする独ソ戦の映像が全編資料映像で構成されるこの映画の大半を占めていることの意味は、俺を含めて日本の観客にはよくわからないのかもしれない。
ウクライナがソ連構成国から独立国家となったのは1991年8月24日、ソ連崩壊に伴って半ば棚ぼた的にもたらされた独立であり、それ以前に現在の国境線と政治体制を持ったウクライナは存在しない。この『バビ・ヤール』で描かれる1941年、ウクライナはソ連の支配下であったが、同年ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻、それによりウクライナはドイツ軍の占領地となる。
この映画では描かれないがドイツのウクライナ人に対する扱いはやさしいものとは到底言えない。『物語 ウクライナの歴史』によればドイツが占領したソ連領から徴発した食糧の内85%はウクライナからのもの、ウクライナから強制連行されドイツでの強制労働を強いられたオストアルバイター(東方労働者)は230万人にも上るという。ではなぜ、にも関わらず、映画にもその映像が出てくるように西ウクライナではドイツ軍が歓迎されたのか?
18世紀末に大部分がロシア領に編入されたウクライナだったが第一次世界大戦が勃発すると水面下で醸成されていた独立気分が噴出、ソ連共産党とウクライナ自治を行うウクライナ中央ラーダ(評議会)が紛争状態に入り、その際にウクライナの膨大な食糧提供を条件に中央ラーダに加勢したのがドイツ軍なのであった。その結果ウクライナは一時ドイツの傀儡国家となるも、この支配は長くは続かず、その後はソ連の赤軍、白軍、ポーランド軍、ルーマニア軍、フランス軍などが地図上の空白地帯となったウクライナを手中とすべく各地を戦乱の渦に巻き込んでいくこととなる。
西ウクライナにおける独ソ戦中のドイツ軍歓迎ムードはこうした前史を踏まえなければ理解するのは難しい。加えて、ウクライナが改めてソ連領となった第一次世界大戦後には党主導の集団農場化と農産物の強制徴収に起因する大規模な飢饉がウクライナを襲っており、この飢饉での死者は少なく見積もって300万人とも言われているから、そこに独立の夢まで託さずともソ連から解放する勢力としてドイツ軍を歓迎することは、むしろ当然のウクライナ庶民感情であったとさえ言いたくなる。
『バビ・ヤール』が明らかにするのはウクライナのホロコーストは決して歴史から切り離された出来事ではないということだ。バビ・ヤールでは3万4000人ほどのユダヤ人が虐殺され、ウクライナ全土では85万~90万のユダヤ人が虐殺された。それはウクライナの地を巡るソ連とドイツの領土争いの結果であり、ウクライナの独立運動が武力でもって抑圧されてきた結果であり、不幸なことにも大穀倉地帯「欧州のパンかご」としてウクライナが栄えてきた結果である。
バビ・ヤールの虐殺はその後、ソ連当局によって「ソ連市民の」虐殺として書き換えられ(ユダヤ人だけではなくナチスが敵視する他の属性の人々、すなわちロマや精神病患者も虐殺対象となった)、ソ連末期からウクライナ独立後にかけては再び「ユダヤ人の」虐殺としてウクライナに書き直されることになる。ドイツ軍占領下でウクライナ警察はユダヤ人の連行に積極的に加担したが、バビ・ヤールのユダヤ人虐殺を歴史の影から引っ張り出してきたのもまたウクライナである。ウクライナ人監督セルゲイ・ロズニツァがなぜ今(※2021年)この映画を作ったのが、なぜバビ・ヤールの虐殺を主題とする映画で独ソ戦の映像を多く引用したのか、少なくともその理由の一端はここから察することができるのではないだろうか。
…となにやらサブテキストじみたことばかり書いてしまったので映画そのものの感想を書いておくと、ロズニツァのドキュメンタリー映画を特徴付けるのは映像から切り離され誇張された環境音にあるわけですけど、今回も数々の資料映像よりもそこに付けられた荒々しく豊穣な(というとなにやら語弊がありそうですが)環境音が魅せる。キャタキャタと砂埃を舞い上げながら進む戦車隊や街路にひしめく群衆の歓喜の声や怒りの声は映像の撮られた時代からいって作られたものであり、そのズレが映像のリアリティに亀裂を入れるのが面白いといってはなんだが、でもやっぱり面白い仕掛けである。
説明なしではいささか難しい映画だとは思うが、他のロズニツァ映画同様、これも必見。
【ママー!これ買ってー!】
物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 (中公新書) Kindle版
現今のウクライナ戦争についてはそりゃ侵略した側のロシアが完全に悪いわけだが、だからといってウクライナ戦争を良い奴と悪い奴の戦いに単純化してしまうと脳みそが溶けてしまいます。戦争に前史あり。これはウクライナ戦争の前史としては足りない部分が多いが、その基礎となるウクライナの成り立ちを知るにはたいへんよい本です。