《推定睡眠時間:40分》
誰だかは知らないが映画の最初に登場するのはソ連のお偉方と思しき男でこの人報道陣に囲まれて何か質問の嵐を食らっているのだがその中で記者の一人が「ミスター!」と呼びかけると男はムッとした様子でこう返す。「ミスターなどと呼ぶのはやめてくれたまえ。ソ連はミスターの呼称が蔓延するような国にはならない」。おそらくペレストロイカ発表を受けて報道陣が集まったのだろう。このソ連高官らしき男の言わんとするのは西側に門戸を開くわけではない、ソ連が解体されるわけではない、といったところか。その直後に画面変わって現れるのがタイトルの『ミスター・ランズベルギス』である。
いやはやニクい演出じゃあありませんか。へぇ、そうですか、わかりました、ところでミスター・ランズベルギスの話なんですが…みたいなね。お前らなんか知ったこっちゃねぇよとニヤリと笑う監督セルゲイ・ロズニツァの顔がスクリーンに透けて見えるようで、2021年の作ながらウクライナ侵攻継続中のプーチン・ロシアに対するカウンターのようでもある。2014年にクリミア半島を強奪され実質的なロシア傀儡勢力が一部実効支配するドネツク・ルハンスクを巡って2021年時すでにロシアと局地的な戦争状態にあったウクライナであるから、ロズニツァがソ連指導部とリトアニア独立運動の主導者ランズベルギスの闘争にウクライナの現在を少なからず重ねているのはまず間違いない。ランズベルギスも映画の最終盤でカメラに向かってこんなふうに語っている。ソ連解体に反対してクーデターを起こした連中は今もクレムリンの要職にある、まだあの頃から本質は変わっていないのだ、とか。
さて映画の内容はソ連解体の引き金となったリトアニア独立の一部始終を膨大なアーカイブ映像で辿り、適宜現在のランズベルギスのインタビューを解説的に差し挟むというもの。ロズニツァの映画は前提知識がないとわかりにくいものが多いがこれはランズベルギスのインタビューが入ることでアーカイブ映像の持つ意味が明瞭になるという珍しくずいぶん易しい映画である。そのランズベルギスの語りも肩肘ばったものではなくヘラヘラ笑いながら「あのときは奴らの裏をかいてやったよ~へっへっへ」みたいな砕けた調子。楽しくリトアニア独立が学べていいが、このランズベルギスのゆるいスタンスはリトアニア独立のある意味原動力。そこからはなぜリトアニアが血を流さずにソ連からの独立を果たすことができたのか、その理由の一端が見えてくる。
アーカイブ映像に出てくるランズベルギスって感情的にならないんですよね。どんな状況でもはいはいみなさん冷静になってくださいね~みたいな。自国民を煽動するようなこともソ連指導部を挑発するようなことも言わない。安心させるためのウソもつかなければ不安にさせることもしない。危機的状況をしっかり受け止めながらもあくまでも理性的に、対話や交渉を通じてクールに乗り越えようとする。
もちろんランズベルギスのクール戦術が成功したのはランズベルギスは相当低く評価しているゴルバチョフ(西側の評価とはかなり違って面白い)がそれでも話の通じる人間だったからで、突然隣国の首都にまで部隊を進める現在のプーチン・ロシアに対しては成立するか怪しいとしても、まぁウクライナ戦争に限らずいろんな分野で敵か味方かみたいな二項対立思考が蔓延っている現在ですし、ランズベルギスのクール戦術からわれわれが学ぶべきものは多いんじゃないだろうか。
一夜にして状況が劇的に改善する特効薬はない。それでも冷静かつ粘り強く理性的に戦い続ければ一筋の光明はそのうち見えるかもしれない。ランズベルギスが教えてくれるのはなにもリトアニア独立の顛末だけではないのだ。
さて映画の前半は政治編でリトアニア国内で独立の機運が醸成されていく様子とそれに伴う政治闘争が描かれる。このへんはちゃんと見ていれば面白いのだろうが渋いやりとりが続くのでぶっちゃけ結構寝てしまった。しかし休憩を挟んでの後半は一転スリリングな戦争編、リトアニアが独立を主張しソ連軍の戦車部隊がリトアニア首都に進軍してくるというギョッとする場面で幕を開けて寝る暇などない。事態はかなり深刻である。議会や放送局など要所を押さえようとするソ連兵たちは最初あくまでも威嚇射撃に留めているがそれでも抗議するリトアニア市民たちが引かないとなると市民に直接銃を向けるようになる。議会内部にはバリケードが張られ市民も政治家も徹底抗戦の構え。
こんなことが起きていたのかと己の不明を恥じるばかり。俺のうっすい世界史知識ではリトアニア独立というのはソ連解体の一ページに過ぎず、あたかもペレストロイカに伴って自然に独立しちゃいましたみたいなイメージだったのだが、なるほどそれはぶっちゃけソ連構成国の歴史なんか全然興味のない西側から眺めればという話で、実際のリトアニア独立はリトアニア市民が文字通り血を流して死ぬ覚悟でギリギリ勝ち取ったものなのであった。
いやぁ世界にはまだまだ知らないことがいっぱいありますね。4時間と長尺の映画だがまぁ前半寝てたのもあるけど長さは感じなかったし、面白い映画でした。敵か味方かの二項対立にハマってしまいそうな人とか反米・反グローバリズムの感情から親ロ陰謀論にハマってしまいそうな人にはその深みにハマって後戻りできなくなる前に、こんな世界の見方とか状況の対処の仕方があるんだなってわかるこの映画、見て欲しいっすね。もちろんおもしろい映画が観たいだけの人も観たらいいと思います。
【ママー!これ買ってー!】
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この欄に貼るものがとくに思いつかなかったときに俺が貼るでお馴染みのエリア・スタディーズシリーズ、リトアニア編。