何者でもない俺の映画『ケイコ 目を澄ませて』感想文

《推定睡眠時間:15分》

誰かがフレデリック・ワイズマンのドキュメンタリー『ボクシング・ジム』のようだとこの映画を評していてどういう意味か考えあぐねていたのだが冒頭のボクシング・ジム内のモンタージュを見ていたらあぁなるほどな、たしかにそうかもと思った。『ボクシング・ジム』はジム内の様々な器具や行為を楽器ででもあるかのようにサウンドトラックに組み込んでいて、カメラが捉えるジム風景も面白いが音楽的な環境音のコラージュがとても楽しい映画でもある。そして荒川区の古い住宅街にぽつんと佇む『ケイコ』のボクシング・ジムもやはり音楽を奏でるんである。

ケイコがコンビネーションの稽古(ダジャレである)をしている場面もリズミカルにパンパンパンッとミットを打つ、ミットを打ってウィービングする、その音が気持ちよかったのだが、そこで俺が思ったのはケイコはこうして音を感じているんじゃないかということだった。いつからそうなのかはわからないが感音性難聴を患っているケイコは音が聞こえない。聞こえないのにボクシングをやってプロのライセンスも取ってるのだから凄いが、それにしてもなにがそこまでケイコを駆り立てるのか。これが劇中で明示されることはないが、俺は音のある世界と振動の形でコミュニケートしたくてボクシングをやっているんじゃないかと思ったのだ。

ただ、映画を最後まで観たらそういうことでもないんだろうなと思った。なにせコミュニケーション希求説はいささか劇的に過ぎる。この映画には劇的なものがない。ボクシングの映画だが宿命のライバルのようなものは出てこないし、その試合も四回戦ボクサーのそれなので大して盛り上がったりはしない。大きな病も大きな決断も出てくるには出てくるが、しかしそれが物語に大きなうねりを生むことはない。起承転結さえ明確ではなく、ただ淡々と荒川区の片隅に住む週末ボクサーのホテル清掃員にカメラが付き添うだけだ。したがって登場人物の心理にも劇的にして明確なものはなく、映画的な一貫性もない。

ケイコがボクシングに打ち込んでいるのは単になんとなく面白かったからでしかないかもしれないのだし、自分のことを振り返っても確かにそんなもんだなぁと思う。何かを好きになったり熱中したりすることに大抵の場合は理由とかないよね。現実ってそんなもん。その「そんなもん」のひとつひとつを丁寧に掬い上げた映画だと思ったよこれは。だから、あんまり襟を正して観たり、劇的な賞賛はしたくない映画だ。映画ってそんなもんでしょ、まぁ本来的にはっていうかさ。

それにしてもこの「そんなもん」感覚は北野映画と似てる。とくに『キッズ・リターン』と『あの夏、いちばん静かな海』は結構影響を与えてるんじゃないだろうか。前者は何者にもなれない高校生がボクシング・ジムに入る話で後者は聾者がサーフボードを拾ってサーフィンに明け暮れる話。最近はあまり見られなくなったが90年代の北野映画は何者にもなれない若者の「そんなもん」をドライでありつつもじっと見守るように撮っていてそのへんが俺は大好きなのだが、『ケイコ』にもそんなところはある。

あるいは『サタデー・ナイト・フィーバー』とも似ているかもしれない。平日はしがない整備工、しかし土曜の夜はディスコキングに変身するのが『サタデー・ナイト・フィーバー』のジョン・トラボルタだ。『ケイコ』の岸井ゆきのも変化のないつまらない日常を突き破る非日常をボクシングに求めたのだろうか。ケイコが心底楽しそうにしているのは試合中ではなくジムでの練習中なので、あの空間で仲間と共に何かに熱中している時間に魅了されていたのかもしれないけれど。

映画のラスト、夕暮れ時の荒川の土手に一人佇んでいたケイコは溢れる感情を抑えるように土手のてっぺんの歩道に駆け上がり、ルーチンにしていたランニングを始める。その姿は夕陽が強い逆光となって影絵のように見える。歩道を行き交う他の影に混ざるとどれがケイコなのかわからない。この見事なショットには優しさも切なさも残酷さもあった。彼女はただのそこらへんにいる人、どこにでもいる人で、他の歩道の影と同じようにとくべつ変わったところは何もない。誰もがとは言わなくとも大抵の人がそうだ。何かになろうとして結局はなれなくて、なぁなぁの人生を時折唇を噛みしめたりしながらそれでもとりあえずは生きている。街の騒音をサウンドトラックに荒川の街のとくに絵にならない各所が映し出されていくエンドロールは、そんな冴えない人々の営みを無言で祝福しているのかもしれない。

何物でもない人間の一人としてケイコ同様にホテルの客室清掃をやっていた俺からスーパー些細なツッコミを入れさせてもらうと、ケイコは客室の便器の内側をワイパークロスかなんかでゴシゴシ磨きながらたまにサンポールと思しき洗剤をかけるのだが、客室清掃は時間との戦いみたいなところあるし、時間に余裕があっても普通は便器をあんな風には磨かない。一般的には中性洗剤を先にかけておいて後はスポンジでヨゴレを拭き取るぐらいじゃなかろうか。これも、マニュアルではスポンジを使うことになっているが、汚いので自己判断でブラシを使ってやってる清掃人も結構多いんじゃないかと思う。俺が間違っている可能性も大いにあるとはいえ、そのへんの描写はなんとなぁく何物でもない労働者の生活をしたことのない監督の作った映画だなという気がしたな、ははは。

【ママー!これ買ってー!】


Boxing Gym By Frederick Wiseman
『ボクシング・ジム』(字幕版)

日本ではソフトも出てないのになぜかアマプラにはあるワイズマンの入門編的一本。4時間とか6時間とかは普通にあるワイズマン映画にあってこの作品は珍しく90分程度なので見やすい。

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