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回転寿司でイタズラをしたバカなヤンキーが仲間内の「伝説」を作ろうとして呆行に及んだかどうかは定かではないが、とにかく人間は伝説というものが大好きで少しでも昔の出来事なら箸でも棒でも伝説にしてしまうらしい。この映画のラストには草創期から現在までの映画史を超大急ぎで回顧する『ニュー・シネマ・パラダイス』的プレイバックが付けられている。でその中の一本が『列車の到着』の通称で知られる映画の産みの親の一人リュミエール兄弟による『ラ・シオタ駅への列車の到着』。
汽車がホームに入ってくる様子を捉えただけのこの素朴なフィルムにまつわる伝説は映画が好きな人ならなんとなくでも聞いたことがあるんじゃないだろうか。曰く、初めてこのフィルムを観た人はスクリーンに投影された動く映像にびっくり仰天、汽車がホームに近づいてくると慌てて客席から逃げ出してしまった。昔の人だから映画と現実の区別がつかずに本物の汽車が客席に飛び込んでくると思ったというわけですな。なんとも心温まる映画イイ話。
さて、高校生時代の俺はこの話をとくに疑うことなくまぁ昔の人だしそんなもんだろうと思っていたのだが、大人になってから件の『列車の到着』を観たらえっそうなのって感じになってしまった。近づいてくる汽車に驚いた観客が客席から逃げるとなれば、たとえば3Dのサメ映画でサメが客席に向かって大口を開けて向かってくるショットみたいに、カメラは接近する汽車を正面から捉えたのだと考えるのが自然だろうと思う。ところが実際の『列車の到着』はそうではなかったんである。考えてみれば当然のことだがカメラはホームに置かれているので汽車の接近を正面から捉えることはできない。汽車はホームに斜めに入り込んでくるわけで、客席から観たときに、汽車は自分たちの正面に向かってくるのではなく、横を通り過ぎていくように見えるのだ。
『列車の到着』にまつわるこの「伝説」がいつ頃どのような形で生まれたのかはわからないし、ひょっとしたら一人ぐらいは動く映像に驚いて客席から逃げたこともあったかもしれないので、「伝説」と言い切ることはできないかもしれない。とはいえ伝説ではなく事実だとしても、それは後生の我々が想像するような大袈裟なものではなく取るに足らない小さな出来事だったんじゃないだろうか。リュミエール兄弟が『列車の到着』を含む様々な記録映画の巡回興行を行っていた19世紀後半、単に動く映像というものであれば既に娯楽として普及していた。拡大やスライドの操作で絵を動かす幻灯機は前世紀から興行が行われていたし、エジソンのキネトスコープもリュミエール兄弟以前に商用稼働が始まっている。この時代に動く絵に驚いて逃げ出すとすれば、よほど粗忽な人だろう。
『バビロン』なんてタイトルだし監督のデミアン・チャゼルも意識したことは間違いないハリウッド黎明期の伝説的ゴシップ本『ハリウッド・バビロン』を著したケネス・アンガーを敬愛する評論家の柳下毅一郎は、この映画に「映画の神々への愛がない」として手厳しい評価を下していた。映画の神々。それはたとえばD・W・グリフィスであり、セシル・B・デミルであり、エリック・フォン・シュトロハイムであり、夢と退廃に満ちた同時代のハリウッドで繁栄と転落をダイナミックに謳歌したすべての人々のことだろうと思うのだが、たぶんそこでデミアン・チャゼルと柳下毅一郎の認識は決定的にズレてしまっているんじゃないだろうか。要するに、デミアン・チャゼルは『バビロン』の中で描かれるハリウッドのサイレント末期~トーキー初期の映画人を、どうも神々として、伝説としては捉えていないんである。
トーキー導入の牽引役となったにも関わらずトーキー以後は一気にハリウッドトップスターの座から転落したブラッド・ピット演じる伝説俳優(見た目はなんとなくジョン・バリモアに似ている)が馴染みのゴシップ記者にこんなことを言われるシーンがある。50年後の観客はきっとあなたの映画を見てあなたを友達のように思う。スターが本当の意味でスターだった神話の時代は終わったんだよ、という意味だが、ビデオもDVDもなく映画興行が未だ一夜の花火のような見世物興行の範疇にあった時代に、よりにもよって使い捨ての記事を量産して飯を食ってるゴシップ記者ごときにそんな先見の明があるわけはないだろう。これはゴシップ記者の台詞というよりチャゼルの思想の表明として考えていいんではないか。ハリウッド・レジェンドを伝説ではなく友達の距離感で眺めるのが思うにチャゼルという若いハリウッド映画人であり、そしてこの『バビロン』なんである。
だからここには伝説的な瞬間は全然ない。友達の目でハリウッド・レジェンドを眺めるとどうなるかといえば、トム・クルーズの高校時代の同級生にはきっとトム・クルーズが若作りしてるだけのそこらへんのオッサンに見えてしまったりするように、大したことのない凡人に見えてしまう。伝説俳優を演じるブラッド・ピットも蓮っ葉な新進女優を演じるマーゴット・ロビーもまるでスターのオーラをまとわない。そしてサイレント時代にハリウッドを謳歌した二人はその後、トーキーの時代になると単なる能なしになってしまう。
タイトルやエピソードを借用しつつも『バビロン』のサイレント期ハリウッドは『ハリウッド・バビロン』とは真逆のアプローチで構築されている。ケネス・アンガーがセックスだの糞尿だの死体だのにまみれた悪趣味なゴシップを通してサイレント期ハリウッドを神話へと昇華したのに対して、『バビロン』ではそうした悪趣味なゴシップがサイレント期ハリウッドの凡俗性を表現するために用いられる。チャゼルの映画はいつも嘲笑的だ。アメリカにホンモノなんてひとつもないとそのハリボテじみた映像で嘲笑う。けれどもそこに屈折した憧れが入り交じるのもまたチャゼルの映画で、この映画も主人公は業界入りに憧れる金も教養もコネもないメキシコ人の雑用係、彼は凡人だがどうせハリウッド人種だって凡人なんだから俺にもチャンスはあるに違いない…と死体処理まがいのことをさせられてなおハリウッドに食らいつくのであった。
凡俗だからこそハリウッドは無数の凡人たちの希望となり得るというこの皮肉。確かにここには愛はないな、と思う。愛もなければ敬意もない。あるのは凡庸なシナリオと低俗な見せ場と情熱を欠いたフラットでシニカルな現代人の眼差しだけだ。でも、それでいいんじゃないだろうか? サイレント期ハリウッドの巨頭セシル・B・デミルの聖書もの映画だって聖書の教えなんか真面目に信じちゃいないし、出てくるものといえば無駄にゴージャスで俗っぽい映像ばかり、聖書と派手な画と美男美女を入れときゃバカな大衆は喜ぶだろと言わんばかりのその大らかで嘲笑的なスタイルは『バビロン』と一脈相通じるものがある。
今では伝説として語られる他のハリウッドの先駆者たちも大なり小なりそうかもしれないし、ヨーロッパでも事情は大して変わらないかもしれない。とすればこう言い換えることもできるだろうか。『バビロン』が提示するのは映画というものの大したことのなさである。そして、大したことのない娯楽に過ぎないからこそ、映画と同じかそれ以上に大したことのない俺みたいな凡人は、自分もそこに混ざることが可能なものとして映画に夢を見るのである。
こんな屈折した映画へのラブレターを、好きにはなれないとしても、嫌いになれるわけもないだろう。
※俳優陣ではマーゴット・ロビーの無教養な父親を演じたエリック・ロバーツがよかった。うわぁこいつめっちゃ娘に金せびって酒とギャンブルで溶かすんだろうなぁって感じで。あとこの頃のハリウッドに人権の概念とかはなかったので映画撮影で人がバンバン死んでくの笑えましたね。傑作で死ぬならまだいいけどこんなしょうもない映画の現場で死にたくない!
【ママー!これ買ってー!】
というわけでパンフレット代わりにどーぞ。
卓見ですね! ネットの感想だとみんなチャゼルは映画愛を持ってる前提だけど、実は愛はないとすると、みんな一杯食わされたと言うことに!
思えば像のウンコはカメラまでビチャビチャにしてて、観客をクソまみれにしているわけだし笑笑
柳下毅一郎氏とチャゼル氏のハリウッド無声映画のスターに対するスタンスの違いはきっと、評論家と監督という立場の差だと勝手に推定します!
たしかにたしかに、監督目線かもしれません。映画監督は指示を出すのが仕事なので評論家とかより俳優なんかに対して愛着って持ちにくいって絶対あると思うんですよね。親しみはあっても愛はないっていうか。そういうある意味今っぽい価値観は柳下さんみたいな映画愛の強い人にはやっぱり許せないだろうなぁと思いますが笑