《推定睡眠時間:45分》
なんかツイッターで哲学者も物理学を学ぶべきだというようなことを言っている人がいてそれはそうだなと思ったんですけどその人続けて例え話として哲学者が鏡を見てなぜ左右反対に映るのかと疑問に思うことは物理学知識で解決できますみたいなことを言ってて、いや、そんな哲学者いる? っていう。俺の哲学知識はAmazonのマーケットプレイスで安く売ってるやつを買って読むみたいな半可通どころじゃないいい加減さだし、まぁ古代ギリシアとかまで遡れば元素論とかと関連付けてそういうことを思考対象にした哲学者もいないことはないかもしれないけど、少なくとも現代の哲学者で「なぜ鏡は左右反対に映るのか」を哲学の領域で考えようとする人っていないよね? っていうかそもそもの話、物理学とか数学の基礎ぐらいは頭に入れてる哲学者って今は普通じゃない? 逆に哲学の分野だけにこもって仕事続けてる哲学者の方が希少なんじゃないかっていう…。
俺それでさ、世間に哲学どんな風に思われとんねんってちょっと苦笑いしてしまったんですよ。なんかすごいイメージだけで見られてる気がするな。これはなかなかおかしい、だって今年の芥川賞で候補になった千葉雅也だって哲学者だし、國分功一郎の哲学書は現代では異例ってぐらい話題になったよね、東浩紀はオタク層に向けて精力的に発信を続けているネット有名人だし、マルクス・ガブリエルの新実在論に関する本は世界的に売れて日本の書店でもちょっとした新実在論コーナーが組まれたほど、ちょっと古い話になるかもしれないがそうだそうだマイケル・サンデルの正義論だって忘れちゃいけない、あれは本屋のみならずテレビでも大きく取り上げられてブームになりました。
ほか、加速主義というのも無名の哲学者が主にインターネット上で始めたムーブメントだし、反出生主義というのもやはり哲学の話、フェミニズム思想だって哲学とは切っても切り離せない。こんなに身の回りに哲学が溢れているのにまだ哲学者は鏡を見てその不思議さを考える人だなんて考える人もいるし、それはその人だけの話ですけど、まぁどうも哲学というのはこんなに身近にあってもまだ身近なものとは認めてもらえていないらしいというのが『ぼくたちの哲学教室』、というよりもそれに対する反響を見て思いましたねうん。
これはなんか北アイルランドの男子小学校で哲学の授業というのがあって、その授業では人を殴ってもいいのかな? 悪いのかな? さぁみんな自分なりに考えてみよう! みたいなのをやるんです。でそれを中心に北アイルランドの暴力の歴史とか学校の日常風景を捉えていく。そういうドキュメンタリー。
まぁ半分くらい寝ていたわけだから偉そうな口はきけない…が、良いとか悪いとかではなく、これ哲学かな? って俺は思った。本質的には道徳とかコミュニケーションの授業なんじゃないだろうか。その教材としてセネカとか使ってるだけで。まぁ小学生に哲学が扱う抽象的な概念を思考するのは難しいかもしれないし、入り口としてはこういうのもいいなとは全然思うんですけど、でもやっぱりモヤモヤするのはさ、暴力と哲学を対立させているわけですよねここで映画の作り手は。それで、どうも観客の多くもそこに共鳴しているらしい。こんな渋いめのドキュメンタリー映画なのに朝日新聞かなんかで紹介でもされたのか公開数週目にしてかなり客入ってたから、戦争がどうとか分断がどうとか言われてる世の中だからこそ哲学を…みたいなところで人気が集まったんじゃないだろうかと俺は推測する。
暴力を停止するための哲学か。うーん、そうかなぁ? そりゃまぁその、哲学的な思考の結果として非暴力が導き出されることは大いにあるかもですけど、でも実例に即して言えば、哲学史の巨人ハイデガーがナチスに積極的に加担したという事実それ1点だけで、哲学が非暴力の道具であるなんて間違いだってことが完璧に証明されちゃってるんじゃないかと俺は思うんですよ。哲学は暴力を推進することもあれば暴力を押しとどめることもある。事実はただこれだけじゃないかと思うんです。
それなのにさ、日本社会(主語でかすぎ)がこの映画を捉えるときの切り口って「非暴力のための哲学」という感じで…なんかそれズルいなっていうか、不誠実だなって思う。これは俺の妄想に過ぎませんけど、みんな道徳っていう言葉を使いたくないんじゃないかな。道徳ってほら自民党の人とかがよく言うし小学校でも道徳の授業の役割を拡大しようとしたでしょ。それは自民党道徳であって道徳一般ではないし道徳哲学でもないですねって話ですけど、とにかく道徳っていう言葉は現代日本では基本的に保守勢力の使う用語になってる。リベラルの人で道徳は大事ですねと言う人は、あくまでも俺の観測した範囲ではほとんど見当たらない。代わりに人権っていう用語をよく使いますねリベラルの人は。
で、この映画は話題にしてるのはもっぱらリベラルの人なんですよ。っていうか保守の人はねそもそも映画にあんまり興味ない、これはミニシアター上映の映画ですけど、ミニシアターなんかまぁ保守は行かないね。これなんでそうなのか不思議なんですけどそうなんですよ本当に。映画はいろんな世界をスクリーンに映しますけど保守はリベラルと違っていろんな世界に興味がないからかもしれないね。まぁそれはいいとして…そうリベラルの人がこの映画をよく観ていて、それで非暴力のためには哲学をすることが大事だねみたいなことをネット感想で言ったりする。
でもこの映画で描かれる授業ほどシステムが洗練されてはいないですけど、俺が小学校の頃に受けてた道徳の授業もおおむねこんなでしたよ。こういうお話があります、それについて答えはありません、みんなで自分なりにこの行為の善悪を考えましょう、みたいな。だからこれ本質的には道徳なんですよ、この授業って。道徳と、道徳をある程度でも共有するためのコミュニケーションの授業。そしたらさ、観た人は素直に(そう思ったなら)「道徳って大事だね」って言えば良くない? それをなんか保守っぽくて言いたくないから「哲学って大事だね」とか言い換えてる感じがするのよ俺には。だからなんかずりぃなって。ずるいし、哲学ってずいぶん都合の良い言葉だと思われてるんだなぁって、なんかガッカリしたね。
そういう感じだよ。全然映画の感想になってないが、まぁその、あれだ、物事の前提を疑うというのは哲学の基本態度ですからこれでいいんだよわはは!(←都合の良い哲学解釈)
※それにしても劇中の男子小学生たちの行儀の良さと発言の明瞭さには驚いた。こんなにしっかり自分の意見を声に出せてそれに対してあーだこーだと囃し立てたりもしないなんてよほど日頃から良い教育を受けているのだろう。どうもミッションスクールのようなので宗教教育の成果だろうか。なんか更に哲学の授業どうこうの話じゃないような気がしてきた。
【ママー!これ買ってー!】
こちらは幼稚園での哲学授業を撮影した映画。しかし所詮は幼稚園児と侮るなかれ、記憶は正直あやふやなのだが、たぶんこっちの方が本気で哲学をしていた。