私情を挟み尽くす映画『あしたの少女』感想文

《推定睡眠時間:0分》

考えてみれば仕事を辞める方法って学校で教わらない。仕事を始める方法も教わらないがそれは求人広告かなんか見て電話なりメールなりすれば企業側は人が欲しくて広告を出してるわけだから懇切丁寧にこうしてくださいああしてくださいと教えてくれる。でも辞める方法は一言説明してくれるだけで少なくとも仕事を始める方法に比べれば皆無に近いくらい教えてくれない。『あしたの少女』は仕事を辞めたい気持ちはあっても辞める踏ん切りがつかずに…という人の物語だが、バイトとインターン(という名の安価な労働力)の違いはあっても俺もバイトを辞めたいのに自分から辞めると言い出せなくて客前で腕を切ったことがある。

そのバイトは初めてのバイトでは全然なかったので辞めようと思えばいつでもやめられるはずだったのだが、経済状況が苦しいというのと既に何年も在籍していて俺がこの店を辞めたらだいぶここぐちゃぐちゃになるなという無駄な責任感のようなものから話を切り出せず、まぁ手首を切るわけじゃないから大した怪我にはならないだろうし、客前で腕を切るぐらいのことをすれば社員なんか真っ青になるから、辞めると言い出しやすくなるだろう、とそのように考えたわけである。ひじょうにクレバーにバカな話だがこれが若さというものです。若い人というのは案外世の中には生きるためのいろんなルートが探せばあると知らない。今見えている範囲で生きるしかないと思っている。そう思わせてしまっているのはやはり大人の責任も大きいんだろう。

腕切り退職をキメた後、俺はもうこれからは自分が悪くないのに人に謝るのはやめようと決意した。別に腕切り退職のバイト先が謝りを強いられるような職場であったわけではまったくない。接客業だったのでお客様申し訳ございません的なものは常に発生していたが所詮は定型文に過ぎないので苦痛というわけでもなかったのだが、それはそれとして、なにかもう少し自分本位で身勝手にやっていくことが必要であるように腕切り退職によってやはり感じたりはし、そのためのマニフェストのようなものが「自分が悪くないのに人に謝るようなことはしない」だったのだ。

二人いる内の主人公の一人である職業高校(みたいなとこ)の高校生ソヒは俺のように自分本位になりきることができなかった。この人はどちらかといえば我が強く自分本位な人だったのだが、インターンとしてプロバイダの解約コールセンターに入ったところ生来の我がどんどんと弱くなっていってしまう。解約コールセンターとは名ばかりでオペレーターの仕事はユーザーの解約をあの手この手で防ぐこと、要するにユーザーを騙くらかすである。一度の通話では絶対に解約などさせてくれない。こんなキャンペーンがとかこんなに違約金がなどと飴と鞭と脅しと嘘を織り交ぜてそれでもダメならまだ契約期間が残ってますので別日に対応致しますみたいな逃げに出る。

ここまでヒドい例は個人的に経験がないがコールセンター関連の話題でひとつ思い出した。これもインターネットプロバイダなのだが、契約した覚えのないサービスの料金が請求書に入っていたのでそれを解約するために電話をしたところ、向こうの担当者(男)はお客様は契約時にこのサービスの利用に同意しておりますの一点張り。しかしこちらの記憶にはなかったのでじゃあそのテープ保存してるんでしょうから聞かせてください、と言うとまさかの返答「個人情報なのでお聞かせできません」。俺の個人情報を俺に開示できないというわけである。

インターネットにもたまには役に立つ知識がある。コールセンターで水掛け論になったら消費者センターに通報しますと告げよ。それを掲示板かまとめサイトで目にしていた俺がそう言ってみると、確かにオペレーターは引き下がって今回は特別に解約しますとあっさり話がまとまったのだった。みなさんも困った時は消費者センターに頼ってみてください。もちろん単なる脅しワードとして使うのではなく、向こうが折れなければ長期戦覚悟で実際に通報すること。自分が悪くないのに折れる必要なんてないわけだから。

さてソヒの仕事は解約を求める人間を疲弊させて解約を阻止することであるからしてそんな仕事はまともな人間なら良心が痛む。俺は仕事というのは人間関係さえ悪くなければ案外楽しいものが多いと思っているが、それはおそらくその仕事を通して誰かの役に立てている、誰かがちょっと喜んでくれているからという実感が得られるからで、今の俺は清掃バイト等々をやっているが清掃を含めてどれも俺のハイパーなお仕事によってお客はちょっと喜んでおるのだろう、清掃されてキレイなオフィスに入れば未清掃の汚いオフィスに入るよりはなんとなく気持ちいいしな、てなもんである。

薄給は確かにつらい。人間関係もまぁ自由時間とか少ないしそれほど良好なものではない。しかしソヒのメンタルを徐々に蝕んでいったのはそれよりもなによりも自分がしている仕事の役に立たなさだったのだろうと俺は思う。人々の役に立たないどころか逆に人々に苦痛を与えるような仕事にやりがいを感じるとしたらその人は肉体は生きていても人としては死んでしまっている人だろう。

誰の役にも立たないような仕事をしていると俺はなにをやっているのだろうと思う。生きている実感がなくなる。自分なんていなくてもいいんじゃないかと思えてくる。ソヒにも現場に順応して顧客の解約を阻止しまくっていた時期がある。その中で彼女はインセンティブ欲しさの解約阻止という自分本位がいかに顧客をザックザク傷つけているか思い知らされる。生きるためには自分本位にならざるを得ない。けれども自分本位になれば自分がいかに醜く残酷でクズな人間か日々突きつけられるというジレンマ。そして結局インセンティブはもらえない。

もしかしたら、それでも誰か親しい人が喜んでくれれば多少はしゃーねぇやったるかという気にもなるのかもしれない。けれどもソヒの両親はソヒを嫌っているというわけでもないようなのだが、積極的に関心を向けようとはしない。職場での反抗的な態度により三日間の謹慎を食らった時でさえ「大企業は三日も休めてすごいね~」などと呑気なことを言ってのける。果たして本当にそう思っているかあやしいところ。本当はソヒのインターン先がろくでもないことに勘づいているんじゃないだろうか。勘づいているからこそあえてその実態を見ないように見ないように、そしてソヒさえも見ないよう見ないようにしていたんじゃないだろうか。

現代韓国はたいへんな就職難と聞く。インターンとして企業に入り高校卒業後は正社員登用という道筋が決まっていれば親はそこに縋りつきたい、それが子供のためだとも思っている。それが結果的に子供を追い詰めることになると考えないことは確かに愚かだが、しかし無知な人間の愚かさを責めることは難しい。韓国のお仕事事情は知らないがおそらく正社員に固執しなければもう少しマシな職場はいくらでもあるだろう。俺としてはやはり清掃バイトあたりがオススメである。中高年の吐き溜めというイメージもある(実際そうだが)清掃バイトは若いというだけめちゃくちゃ優遇されるし、常時人手不足なので誰でもできる仕事にしては給料も悪くなく、暇な時間で資格の勉強でもすればそこからステップアップも狙えるかもしれない。

ラブホテルの受付や客室係もこれは勤務先によって労働内容のハードさに随分幅があるとはいえ、少なくとも日本では技能なしで高給の狙える職種。一口にバイトといっても世の中にはいろいろある。今は就職難の時代だから…と悪条件の正社員を目指すくらいなら最初から正社員は目指さずまずは楽に金を稼げるバイトから始めるというのは悪い手ではないと思うのだが、貧すれば鈍するでそれでも就職とか正社員という言葉に抗えない心情は、とはいえ理解できるものではある。ソヒの通う職業高校側が就職率を優先して個々の就職先の実態調査は疎かにしていたことを誰がどんな理屈で責められるだろうか。親たちだってその高校の実態をよく調べもせずただ高い就職率をアテにして子供を入学させるというのに。

映画の後半はソヒと同じダンススクールに通って同じレッスンをしていたこともある刑事ユジンが主人公になる。どうしてソヒの悲劇は起きたのか。その背景にはなにがあるのか。実は望まぬ仕事をやらされている風なユジンはソヒの死に顔に自分の現し身を見る。もしかしたら死んだのは私だったのではないか。その私情が一介の自殺事件に過ぎないソヒのケースにユジンを縛り付ける。ユジンは正義の戦士だろうか。当然そんなことはない。やたらキレ散らかす上司の余裕のなさを見れば他にも解決すべき事件は山積していて、少なくとも事件性が薄くこれ以上被害が拡大するような恐れの低い自殺事件は、他の凶悪事件などに比べれば優先度の低い仕事であることがわかる。

だからユジンの弔い合戦は正義ではなく彼女の身勝手なのである。労働問題は労基の管轄だろという上司の指摘はまったく正しい。これは刑事ユジンが本来やるべき仕事ではないし、ソヒのケースに時間を割くことで本来であれば被害の拡大を防げたかもしれない別の刑事事件の被害者を増やしてしまったかもしれない。それはこの映画では描かれないが、政治的なことと私的なことの鋭い対立が裏テーマ的に伏流するこの映画にあって、決して見逃してはならない点ではないかと俺は思う。

ソヒ事件の捜査を進める中でユジンが間の当たりしたのはさながらカフカの『城』を思わせる巨大にして超合理的な官僚主義社会であった。どこへ行っても誰もが自分の職域で組織の利益を最大化するために最大限の努力をしているだけと言う。これは政治である。自らの利益を直接追求するのではなく所属集団の利益の最大化を通じて自身の利益を最大化しようとする行動、そのため敵味方・ウチとソトの明確な切り分け、それは資本主義体制下で市民が行う日常的な政治活動なのだ。

じゃあその犠牲となる人がもしいるとしたら。ひじょうにどうでもよい例なのだが、以前勤めていたバイト先で「当社では源泉徴収を行っておりません」と通達を出しているところがあった。そんなわけがあるか。お前らこっちが無知な底辺労働者だと思ってバカにしとるだろ。バイト渡世の中でいつの間にか「自分が悪くないときは謝らない」が「おかしいことがあったら都度文句を言う」に進化していた俺はそんなわけないでしょうが、この会社コンプライアンス違反じゃないですかとあえて来客中に客に聞こえる声で文句を言う。すると経理の担当者は半ば泣き声でだって慣例でずっとそうなっててなどと上司と揉めながら言う。

後日パワハラ等相談係みたいな肩書きの人が面談をというので会社に行くとその人はぶっちゃけ何もわかっていなかった。いやでもにわかくんは副業でこっちのバイトやってるわけだから源泉徴収必要ないんだよね? いやそういう問題じゃないんで、これ法律違反じゃないんですかって言ってるんで。それで、でも君は損はしないわけでしょ? だいたいこんなやりとりが一時間続く。そのまた後日、今度は別の社員がやってきて勇気ある告発をしていただいて本当にすいません…と平謝りである。別に告発じゃないし勇気も要してないし単におかしいからおかしいと言ってるだけですし謝罪も求めてないですし。いやー本当にすいません…これはいったいなんだったのかと思ったのだが、おそらく俺が関係各所に通報することを恐れての泣き落としだったんじゃないだろうか。知るかと思ったのでそこに関しては労基にも税務署にも都の通報窓口みたいなところにも見つかった限り全部にこの会社は源泉徴収義務を拒否してますと通報した。ちなみに会社とのやりとりは全部録音してある。

俺が驚きつつ呆れたのはその周囲の見えてなさだった。自分で言うのもなんだがこっちは単なる中卒のちびっこである。そいつが一言これおかしいんじゃないすかと言っただけで蜂の巣をつついたような大騒ぎとは何事か。大の大人たちが半泣きになったりペコペコ頭を下げたりいったいなんなのか。要するに見えていなかった、というか意識的に見ていなかったのだ。源泉徴収をしてくれなどというバイトももしかしたら今までにいたかもしれないが、その人たちが文句を言うことはなかったので、そんな人は存在すらしないと思い込んでいたわけである。誰も存在しないところから急にこれおかしいんじゃないですかと声が聞こえてきたら人はびっくりする。それでみんなびっくりしたんである。そこに存在するはずのない人が存在した…。

官僚主義もしくは市民政治はその犠牲となるごく少数の声や存在を意識の外に追い出すことでもっとも効率的に駆動する。だから、その中に置かれた人々は犠牲者の姿を見ようとせず声を聞こうとしない。映画の序盤と中盤に登場する別々の人物の葬儀は対照的である。最初の葬儀はソヒ以外誰も参列しなかった。しかし最後の葬儀、とはつまりソヒの葬儀なのだが、そこには大勢の人々が罪悪感を抱えて集まる。これがユジンの捜査の成果だった。ユジンは市民政治に抗い官僚主義を文字通り殴って回った。その身勝手でおよそ不合理な振る舞いによってようやく、ソヒを取り巻く様々な人々は自らがソヒの犠牲を見ないようにしてきたことに無理矢理気付かされるのである。

どのような立派な社会でも必ずその社会の犠牲になる人はいる。犠牲なしで回る人間社会は存在しない。ユニクロでチョー安くてかつそれなりの品質の服を買うことができるのは端的に言って段階的搾取の結果である。結構。まぁこっちも高い服買う金なんてないしな、ユニクロさんにはいつもお世話になっております。しかし、ならばせめてその犠牲者の姿は直視するべきなのだ。自分が今ここで生きていることで生じる不可避的な罪をなかったことにすべきではないのだ。なぜなら、と言われれば答えはない。けれども、ユジンはまったく合理的な理由なく、まったく自分本位に、ただそうすべきだと思ったからそうしたのである。そうしなければ自分が納得できないというだけでたった一人そうしたのである。俺はそれを崇高な営みだと思う。崇高とか美とかそんなよくわからないものには一銭の価値もないという世の中でそう書くのはいかにも虚しいことですがね。

労働問題の題材からスタートして政治と私情を鋭く対比させながら生きることの罪と人間の実存にまで羽ばたくこの静謐なダイナミズム。構成も素晴らしいが人間観察眼も実にえぐく、どんなに善人に見える人でもほんの一言「私は止めようとしたんですけど…」みたいなことを言って責任回避をしようとする瞬間を見逃さないその厳しさと細かさ、それでいて露悪的になるでもない抑制された演出には恐れ入るばかり。

個人的にいちばんグッときたのはある不祥事の口止め誓約書(口止め料込み)をソヒ一人だけ提出していないというので担当者がやってきて提出をお願いするシーンで、ソヒは結局しぶしぶ誓約書にサインをして捨てるようにデスクに放るのだが、担当者の男性はソヒのその行動を見て当惑し、どうしていいかわからず固まってしまう。怒るでもバカにするでも呆れるでもなく彼はただ予想外の反応にどうしていいかわからず固まってしまうのだ。こんなリアルな勤め人の反応はエンタメ化・過剰化の進む一方の最近の韓国映画ではほとんど見た記憶がない。この世界には誰も加害者などいないのだ。加害者であり被害者でもある凡庸な人間と、被害者であり加害者でもある凡庸な人間がいるだけだと『あしたの少女』は観客に容赦なく淡々と突きつけるんである。

そしてなにより、追い詰められた人間を捉える透徹した眼差しに感動してしまった。疲れ切った身体を引きずって久しぶりにダンススクールに顔を出したソヒがその帰り道で目にした都市の初雪。行く当てを失ってなんとなしに入ったボロ食堂でソヒの足にかかる夕陽の線。だからなんだと思うヤツはわかってない。精神的に追い詰められた人間の目には、なんでもない風景が突如として決定的に重要な意味をもって映ることがあるのだ。ことにあの天国から届いたかのような穏やかで美しい夕陽の喚起する静かな戦慄! これは今まで観た映画の中でもっともリアルな「自殺者に見えたもの」のひとつではないかと思う。自殺願望は決して劇的にはやってこないでこんな風にぼんやりとやってくる。締め切ったトイレに火を炊いて一酸化炭素中毒自殺を試みたことのある俺が言っているのだから少しは信用してほしいものだ。そのときの理由は「なんとなく」だったのだから。

無駄な自分語りにより感想が長くなったがこれはこの映画が政治に回収されることに対する俺なりの抵抗である。いかにも政治的な題材のこんな映画だからこそ私的に観なければならない。ならないということもないかもしれないが、少なくともこの映画は私的であることの必要性を迫真の筆致で説いていたように、俺個人の目には見えたんである。

※焼き肉屋の店内でライブ配信するソヒと友人を見て別の席にいた男二人が「最近はあんなんで荒稼ぎする若い連中がいるんだってさ。色温度もわからない連中がさ」とか愚痴を言うところはこの映画の数少ない笑えるシーン。まぁ、最近のスマホは色温度も絞りも全部オートでやってくれるからね…。

【ママー!これ買ってー!】


私の少女 [DVD]

『あしたの少女』の監督チョン・ジュリの人間社会に向ける眼差しは誠に厳しく、そのため前作『私の少女』では最終的に社会を捨てるというハードボイルドな結末になる。『私の少女』と同じく『あしたの少女』も主演をペ・ドゥナが務めているが、こちらではどのような答えを出すのか、まぁそのへんは劇場で映画観て各自確認してくれ。

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2 Comments
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カモン
カモン
2023年8月31日 9:18 AM

確かに長いけどいいレビュー
少なくとも自分はこの映画観に行きたくなった
でも自分みたいなのは極少数派な気がしないでもない笑