《推定睡眠時間:40分》
都会の生活ならともかく大正田舎庶民の貧乏生活がじめっとした空気の中で淡々と描かれる映画なのでそこが大事なんだよそこがという声はわかるが画面から凶悪な睡魔が襲ってきた。したがって人間関係がよくわかってないまま虐殺シーンに突入してしまい俺の中のまぁまぁとりあえずみんな落ち着いて感ハンパない。とりあえず、とりあえず落ち着きましょう。みなさんいろいろ事情もあるでしょうがここはとりあえずお茶でも飲んで…だが俺の願いも虚しく虐殺は起こってしまうのだった。
それで思ったのだが意識が低いことというのは結構大事なんじゃないだろうか。この映画で描かれる福田村の面々は方向性は大いに異なるのだがどいつもこいつも田舎の村人のくせに意識が高い。世間で起こる出来事について、目に触れる範囲の物事について、とにかくこれはああだそれはどうだと自分の意見を言うのである。監督および脚本陣の顔ぶれを見ればここに反映されているものは関東大震災後の朝鮮人+α虐殺というよりはその題材を借りた学生運動の内ゲバのように思える。学生運動の闘士というのは当然意識が高い人たちであり、判断の保留などという意識の低さは運動を停滞させるものとして批判されるものだ。
自分の意見を言うにはなにはなくともその目に固有のパースペクティブで主体的に世間を見なければいけない。当然それは客観的なものではなく主観的なものであり、あらゆる種類の偏見も善意や正義と切り離せぬ形で混じり合っているものだろう。あくまでもこの映画の中の、という留保付きで福田村事件と朝鮮人+α虐殺から学ぶべきは、そうした意識の高さの危険性ではないだろうか。なにせ俺のように映画の中に描かれる世間を見ずに寝ていれば(寝るな)事情がわからないものだから殺せ殺せといきり立つ村人たちを目にしてもま、まぁまぁ、とりあえず武器を置いてお茶でも…ぐらいしか言えることがない。
事情がわかっていればそこから様々な判断が下せることだろう。ある人はこの人たちは朝鮮人ではありませんと言う。ある人はいやそもそも朝鮮人が日本人を殺して回っているというのは流言だと言う。そしてある人はこいつらは日本人を殺し回っている朝鮮人だから殺せ殺してしまえと言うのである。現在の視点から見てどれが正しい判断だったかは言うまでも無いことだがと言いつつ朝鮮人+α虐殺を否定する人が政権内にもいらっしゃるようなので虐殺の証拠はありまぁす! とSTAP細胞の人みたいに繰り返し言っていく必要があるが(逆に信用が落ちるよ!)、さておき官憲は朝鮮人による殺人や毒物混入などのアヤシゲ流言を追認しメディアは独自調査もせずにそれら虚報を連日報じという虐殺の起きた当時、しかも情報も学知も限られた田舎の村人たちが、いったいどのような判断が正しいか客観的に判断することは難しいをゆうに通り越して不可能といって差し支えない。
こんな状況下で意識高く何かしら判断を下そうとすれば、それはおそらく朝鮮人が震災後の混乱に乗じて数々の暴力事件を起こした→なら自分たちの身は自分たちで不逞朝鮮人から守らにゃ! となるのは当然であり、それは正義によって裏打ちされるだろう。虐殺は、この時点で唯一の可能な「正しい」行為だったのである。村にやってきた朝鮮帰りの元教師は日本人が朝鮮民族に対して行ってきた数々の暴虐を直接その目で見たがために、震災後の「不逞朝鮮人暴れる!」新聞報道に触れて「…やるかもしれないな」と打ちのめされたように言う。それだけのことを日本人はしてきたのだと意識の高い彼は知っている。だからこそ、報道を否定しきれないのだ。
意識が高いのも考えものだ。虐殺を主導するのはやたら上から目線の水道橋博士ら在郷軍人会だが、こいつらときたらまるで村にワルモノどもがやってくるのを待ち望んでいるかのようだ。平和で退屈な福田村で在郷軍人会は自分たちの存在意義を見失いかけ、焦れている。自分たちの存在証明とかいう意識の高いことは学者さんたちにでも任せておけばいいものを、こいつら一丁前に何らかの行動を通して自分たちが必要な存在であることを人々に理解してもらいたいと考えているんである。
虐殺に加わった他の人々の事情はわからないが、どうも人のいるところならどこでもそうであるようにこの村にも人間関係の綾があり、村人たちにとって虐殺はその様々な不満を外にスケープゴートを立てて解消しようとする、ある種の祭りのようなものとして機能した、というふうに見える。こうなるともう相手は誰でも構わない。村のギクシャクを正常に戻すための部外者殺し、とは帝国主義のミニチュア版だ。植民地は決して豊かな国が貧しい国に作り出すものではない。そりゃ相対的に見れば植民地化される国がする国よりも貧しく発達段階が低いのは当然だが、国内経済が充足していれば宗主国側にヨソを植民地化する動機はあまりない。
福田村の人々にとって殺しは、あくまでもこの映画の中ではと映画と現実の違いもわからんアホどものために再三記しておくが、合理的かつ積極的な共同体維持のための事業だったのであり、恐怖心に駆られての動物的反応とは異なる意識の高い主体的選択だったんである。
というわけでみなさん落ち着きましょう。虐殺シーンが迫力満点で素晴らしいこの映画を観たみなさんならきっと意識が高くなっているだろうからパンフレットを買って監督インタビューなどを読み事実と脚色された部分を見分け微に入り細を穿つ批評をしなければそして朝鮮人+α虐殺に関して何らかのアクションを起こさねばという義務感に駆られるに違いない。いいよ別にそういうの、なんか専門家とか活動家とかがやるから。俺とあんたらバカな庶民はそういうのふーんそうなのかって眺めてればいいだけ。自分もなにかやんなくちゃ! と俺みたいな無学なバカが急に立ち上がったところでろくなことにはならないんだからさ。
それはおそらくこの映画の作り手の思想とは異なるものだろう。映画は最終的に一人の女性記者に真実追究の希望を託して終わる。メッセージは明確である。君たちも真実を追究するんだ。空気に流されず忖度をせず独立独歩の精神で他人との衝突を恐れず真実を探り出せ。そして、常に弱い立場に置かれた人々の味方であれ。ここらへん乾いた筆致で俯瞰的に朝鮮人+α虐殺の情況を描き出そうとする新井晴彦ら脚本勢と主観性に重きを置く監督・森達也の立ち位置のズレが表れているように思える。正義の女性記者に希望を託すやや非現実的なラストには森達也の願望がどうも見えるような気がするんである。
だからそれはひとまず森達也のこうだったらいいのになだということにして、まぁ実際はどうかわからないですけどそういうことにして、それはそれとして、意識が高いことは常に良い結果に繋がるとは限らない、何らかの判断を主体的に下すべきだという決断主義はいつでも美しいが良い結果を保証するものでは全然ない、だからちょっとみんなで意識低くしてみませんか? ニュースを見ながら映画を観ながら本を読みながら「ふーん」の一言だけ考えるようにしてみませんか? それを世間では傍観と呼ぶ。またの名を無責任と言う。けれども傍観と無責任が必ず悪い結果を生むという保証もまた、よくよく考えてみればどこにもないのである。
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ささ、疲れたでしょうからとりあえずお茶でもどうぞ。
「意識が低いことは結構大事」
強く同意します。
別の映画の話で申し訳ないのですが「クレヨンしんちゃん超能力大決戦」観たんです。
予告編を観て気になってたけどネットに溢れる酷評の嵐に気が萎えてしまって、でもさわださんが高評価のレビューをお書きになっていたので、それを読んで、映画館行きました。
とても楽しい映画でした!こんな感じで良いじゃん、って思いました。
散々擦られてる頑張れ連呼問題とか弱者男性の扱い。
ちゃんと映画観てたらそこは本題じゃないしあまり突っ込んではくれるなと提示もされてるのに、意識の高い皆様はたかが映画の些細な描写にブチギレなさる。
「深刻な社会問題を茶化して取り上げるな」はある意味では正しい態度でしょうが、それではあらゆる問題提起ができなくなってしまうだろうに・・・と僕なぞは思ってしまいます。
たかが映画、されど映画。しかし「たかが」と「されど」のバランスの取り方をわかってない奴が多すぎないか?と感じる昨今です。
(などと言って自分で自分の腹を切る・・・)
極端に意識が高くて超敏感な人と極端に意識が低くて超鈍感な人にSNSとかだと二極化しやすいのかなとか、そういうヴァーチャルなネット世論に現実世界の企業とかが怯えすぎなんじゃないのとかは思います。
昔の日本映画ってメロドラマでも刑事サスペンスでも怪獣ものでも、娯楽映画の中にサラッと社会問題が取り入れられてたりしたんですよね。でもそれがいつからかできなくなっちゃって、社会問題を超真面目に扱う社会派映画と、社会問題に一切タッチしない娯楽映画に分化されちゃった。意識が高い人が見る意識の高い映画と、意識の低い人が見る意識の低い映画に二極化しちゃったんですよね、今の日本映画は。
そういうのは不健康だと思うので、まぁ意識が低すぎる人も多少意識を上げないといけないかもしれないですけど、他方で意識が高すぎる人もやっぱり多少は意識を下げる努力が必要なんじゃないかと思います。