《推定睡眠時間:0分》
なんとなくのイメージで白石晃士がナビゲーターを務める恐怖映像オムニバスだと思って観に行ったのだがどっかの廃墟を訪れた一組のカップルのそれまでとそれからをフェイク・ドキュメンタリーの手法で描く恋愛ドラマで一応怪奇現象も登場するがあくまでも賑やかしというか観客サービスという感じで恐怖映像オムニバスではなかったしホラー的な意味で怖い映画でもなかった。怖さがあるとすればそれはこのカップルの男がDV気質なのでリアルなDV男の言動が怖いというバイオレンス映画的な怖さ。というか、それを観客に見せようとしている映画であった。
最近の白石晃士映画、なんか全部そういうのやってるな。DV男の怖さ、男の暴力の怖さ、その被害者(基本的に女)の痛み。去年の『オカルトの森へようこそ』は性暴力被害者が呪いの媒介者になるお話だったし『戦慄怪奇ワールド コワすぎ!』も性暴力被害者が呪われた場所に引きつけられて暴力ディレクター工藤が己の暴力性と対峙するお話、この『決して送ってこないで下さい』ではついにカップルが目にする呪いのテープの映像として約10分にも及ぶ迫真のワンカットで描かれた男→女の強姦場面が登場する(エロとかはない)とあって、男→女への暴力というテーマではこれが決定打になるんじゃないだろうか。強姦男は純粋悪のような感じだがDV男の方は自らの暴力性に自覚がないという設定でその掘り下げは深く、暴力に至る経緯や暴力の行使の仕方など実に生々しい感じである。
観ていないので当然といえば当然なのだがすっかり存在を忘れていた映画のことをこの映画を観ていて思い出した。人気暴力漫画を映画化した『善悪の屑』。そうそうあれ白石晃士が監督だったんだよな。公開直前になって主演の新井浩文による強姦事件が発生、お蔵入りになったという曰く付きの映画である。そうよなー、これは被害者の人もそうだろうが映画の関係者にとってもかなりショッキングな出来事よなー。中でも映画の責任者であるところの監督なんかちょっと諸々考えざるを得なかったんじゃないですか。自分の中にも新井浩文はいるんじゃないかとか。もしかして自分の暴力的な作風が役者に悪い影響を与えてしまったんじゃないかとか。そういう自責の念もあったのかもしんないな。
それで近年の白石晃士が男の暴力や男→女への性暴力を作家的なテーマにしていささか啓蒙的な内容のホラーを撮るようになったのだと思えばパズルのピースがパチンとはまる。カメラが切り取るのは架空のDV男だがそれを通して映し出されるのは白石晃士自身の暴力性であり、一種の懺悔として近年の白石晃士映画は男の暴力とそれがもたらす結果を描いているわけである。この『決して送ってこないで下さい』なんか白石晃士に対する「DV男の罪を追求するのがお前の使命だろうが!」とかいう直接的な台詞まで出てくるぐらいなので、邪推でもないだろう。
ここで男の暴力について俺の考えていることを少しだけ書かせてもらえば、よく、女に比べて男は力が強いので、男は自制すべきとか、女に配慮すべきというようなことが言われるが、うーん、俺はそういうのは逆転した男尊女卑というか、男尊女卑思想を正当化するための思考フレームでしかないと思うんですよね、おそらくは無意識的な。というのも、これは様々に分化したフェミニズムの共通認識といえるのではないかと思うのですが、道具とその進歩によって男女格差は是正されてきたわけですよね。極端な話、道具のない時代は食糧を得るために動物を狩るのは女よりも平均的に力の強い男にしかできなかったかもしれない。でも今の時代に同じことをやろうとするとたとえば銃があるわけですよね。銃の使用には訓練は必要でも力はほとんど要さないので、その昔は男女で差があった筋力差に基づく暴力の行使可能性が、今では差がなくなってしまった。
でも現実には男が女に暴力を振るうケースの方が女が男に暴力を振るうケースよりも圧倒的に多いじゃないか、という反論がありそうだし、実際犯罪統計に目を向ければ、もちろん例外的な国もあるとは思うのだが世界的に犯罪者の性別比率は男の方が高く、日本では女犯罪者の実に三倍ほども男犯罪者が存在する。ところで、DV男といえども衆人環視のもとで配偶者を殴ったりすることはほとんどない。そんなところでDVを披露すれば周りの人や被害者本人が警察を呼んでDV男は逮捕されてしまうだろう。だからDV男は配偶者と二人きりの室内とかでのみ暴力を振るう。
このことが何を表しているかといえば、DV男の暴力は女よりも平均的に高い男の筋力に由来する性差的なものではなく、暴力の行使のストッパーが外れる環境に由来するものである、ということじゃあないだろうか。つまりDVというのは暴力というよりもメタ暴力であり、暴力容認の空間・空気を作り出す、もしくはそれを見つけ出すテクニックこそ、DVの本質と言える。そうしたメタ暴力は『決して送ってこないで下さい』でも強姦シーンで実にリアルに描写されていたが、これは心理操作のテクニックであるから、習得しようと思えば男女のどちらでも可能である。そうした習得機会が相対的に男社会では多く女社会では少ないとしても、それは社会的に獲得するものであるから、やはり身体的な性差に由来するものではないだろう。
こうして考えを進めていくと、現代社会における男→女の暴力は実は性差(筋力差)とは関係がないか、少なくとも関係がきわめて薄いことがわかる。となれば「女に比べて男は力が強いので自制すべき」という論は成立しないことになる。現代社会において男女の筋力差・体格差が問題になる場面があるとすればスポーツの世界くらいのものだが、それさえ男女でクラスを分けて競えばいい話だし、更にいえば、たとえば体格に恵まれたアメリカの女性スポーツ選手と、それに比べれば体格に恵まれない日本の男性スポーツ選手は互角に競える可能性があるわけで、男女の身体の性による大雑把なクラス分けは、今後スポーツ科学が発達すれば体格や筋力を数値化することで、身体の性とは無関係でかつより公平なデータによるクラス分けに取って代わられる可能性さえある。実際これは昨今議論の的になっているトランスジェンダー選手はどのクラス(男子か女子か)に属するべきかという問題の抜本的な回答ではないだろうか。
と回り道をしてしまったがつまりだから要するに、「女に比べて男は力が強いので自制すべき」論は、少なくとも先進国の社会では男の筋力の強さが女に不利な状況をもたらすことはほとんど考えられないといっていいほどであるにも関わらず、「女に比べて男は力が強い」という今の社会では何の意味もないような古典的な統計データを引き出してきて、「だから自制すべき」と結論付けることで、あたかも男の方が女よりも本質的に優れているかのような幻想で現実を上塗りしようとする行為ということになるわけです。それが強い男が弱い女を守るという古色蒼然たる騎士道的ヒロイズムと同型であることは言うまでもなく、こうしたヒロイズムが漫画や映画などフィクションの世界で大人気なのは逆説的にその現実が存在しないことの表れのように俺には思える。
そしてそれが…とここでようやく映画の話に戻ってくるわけですが、この『決して送ってこないで下さい』を筆頭に近年の白石晃士作品には如実に見えてしまう。工藤Dも超能力者NEOも結局は非現実的で漫画的な「女を守る強い男」なわけで、男の暴力の主題化はそうしたキャラクターを批判するものでありながらも、同時にそうしたキャラクターを温存するためのエクスキューズという両義性を持つ。そこに白石晃士の悪意や狡さがあるとはとくに思っていないし、たぶんこの人は真面目に男の暴力をどうにかしたいとか、男の暴力に晒される人を助けてあげたいとか思っているのだと思うが、けれどもそうであればこそ、そうした主題選択自体が間違っているのではないかと俺は思う。
要するに、「(強い)男は(弱い)女を守るべき」ではなく、単に「強い人は弱い人を守るべき」でいいんじゃないの? これをより深掘りすれば「ある状況の中で強い人は、その状況の中で弱い人を守るべき」という、一般的な人間ドラマの主題となるだろう。そのように現実に即して主題を非性化したときに、意図的にやっているところもあるだろうとはいえ最近マンネリ感がハンパない白石晃士ワールドに、なにか突破口が開けるようにも思うのだが。と、そんな『決して送ってこないで下さい』でした。
【ママー!これ買ってー!】
フェミニズムといえば第一義的には活動とか運動であろうがこれは思弁としてのフェミニズムの本。俺はこういうものが今の日本にはもっと必要だと思っているんである。