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炎が燃えるのを見ることで性的興奮を得る人のことを犯罪心理学用語などではパイロマニアと呼ぶそうですがこちらは水が吹き上がるのを見ると興奮してしまう人たちのお話なので言わばハイドロマニア、パイロマニアがいるのなら世の中いろいろだからきっとハイドロマニアもまぁいるにはいるのだろうなと思うのですが、パイロマニアと比べてハイドロマニアが全然ニュースとかにならないのは(パイロマニアも別にニュースにはならないが…)お仕事でやっているのでもなければだいたいの場合なにかを燃やすと犯罪になってしまう、炎はでかければでかいほどエロいと感じその衝動を抑えることができないのなら最終的に家でも燃やすしかなくなってしまうが、家を燃やすお仕事は俺の知る限りではないから放火犯になるほかない。
対してハイドロマニアの方はどうかといえば…いや別にいいんじゃない? なんか公園の水でバシャバシャやったりしたところで誰の迷惑になるわけでもないし。生活範囲ではお目にかかれないものすごい量の水の噴き出しを見たいとかなってもパイロマニアの場合は合法的にやるなら山火事が起こるのを地道に待つぐらいしかできないが、ハイドロマニアならダムの放流という絶好の絶頂イベントが全国各地にある。これは完全に合法であるだけでなく無料であり、自然散策なども同時に楽しめるのだから、パイロマニアと比べればハイドロマニアはあまりにも恵まれていると言えるだろう。
ところがこの映画『正欲』のハイドロマニアどもと来たら自分は異常者なんだ世間一般と違うんだ俺たちは受け入れられないんだと戦ってもいないのに敗者の感傷に浸るばかり。バカなのかお前ら。そんなもんお前べつに人に後ろ指さされるような趣味じゃないんだから堂々と「ダム、めっっちゃエロい!」とか言っていけばいいのである。鉄オタだって自分から誇らしげに鉄オタと言う時代ではないか。むしろヤツらの方が己の欲望に忠実に従って列車の運行妨害をしてまで鉄道写真を撮ったりするぶんだけ反社会的だろう。俺はその行為は決して褒められたものではないが(犯罪なので)そこまでして写真一枚撮ろうとするある種の根性と勇気は立派だと思っているが。
なぜこの映画のハイドロマニアどもがこうまで追い詰められているかと言えば身も蓋もない、要するにそういう「設定」だからである。この人たちは可哀相で惨めで独りぼっちでそれでも必死で生きてる弱い人たちなんです、やさしく見守ってあげてください。ハイドロマニアというのはただそう言いたいがための便利な設定=レッテルであり、はっきり言って不誠実きわまりない表現だと俺は思う。もしも本当にハイドロマニアの人間という存在を描こうとしていたなら、こんな紋切り型には決してならないだろう。たとえば俺はオフィス清掃員なのでトイレの清掃も当番によってはやるが、その際に男性用洋式便器のウォシュレットノズルをスポンジで洗っていたらなんだかエロイ気分になり勃起してしまったことがある。そう書きながら今も勃起してしまっているが、あのノズルはトイレユーザーの肛門を直撃しているわけである。その汚れを、小さな陰茎を思わせるノズルに付着したウンコの汚れを、俺は今スポンジを上下に動かしながらやさしくあるいはやらしく洗い落としている…マゾ気質の俺としてはこれはもうギンギンである。
俺の話はいいとして『正欲』のハイドロマニアの話だが、この映画の中にそのようなリアルなハイドロマニア描写がひとつでもあったかと思うのである。ハイドロマニアは何人も出てくるが全員揃ってYouTubeに上がってるダム動画とか噴水動画を見てオナニーしてるだけ。それもトータル2シーンであり、それ以外にこいつらが己のハイドロ性欲を満たそうとする場面はない。なぜか揃って生きる意志が薄弱なこの映画のハイドロマニアたちであるが、思うのだが君ら己の性欲をまったく意味なく自分で抑圧してしまっているからそんな気分になるのではないか。たとえば先ほども話に出たがトイレのウォシュレットである。強にしたウォシュレットからビシャアッッッて出る水を性器を当てたりなんかしたらハイドロマニアとしてこれはかなりの快楽を得られるはずである。ちなみにウォシュレットを強にしてウンコを紙で拭かないまま洗い流すと使用後の便器内側が本当に悲惨なことになりますのでよいこのみなさんは絶対に強にしたウォシュレットで拭いてないウンコを洗い流そうとしないでください!
なぜそうしたことを誰もしようとしないのだろう。再び書けば、それはあくまでも便利な「設定」であり、そうした人間の「描写」は意図されていないから、と考えるほかない。映画の終盤にはそれぞれ孤独な人生を歩んでいたハイドロマニア2人がついに出会って公園の水飲み場で水をビシャビシャやって気持ちよくなるというシーンが登場する。だが、驚くべきことに、2人はそんなにビシャビシャの大興奮シチュエーションにあってもヤらない。せめて急遽ホテルに入ってそこでシャワー全開にしながら風呂場でヤるだろうと思ったら、ヤらない。
ガッカリである。役者さんの裸体が見られなかったからではない。この映画の作り手(原作、脚本、監督)にとってハイドロマニアというのはその程度のものでしかなく、その存在に対する無関心な眼差しによって、一風変わった人間を出して多様性とかマイノリティとかなんとかというものを世間に問えばみんなから社会派だなんだと評価してもらえるであろう的な意識の高い浅知恵が透けて見え、この人らにとって多様性とかマイノリティというのはそんな程度の重要性しか持たない、自らがマイノリティに寄り添うやさしいリベラルであることを示すピンバッジのようなアクセサリーでしかないことが、その表象からは否定しがたく浮かび上がってくるからである(否定するだろうけど)
百歩譲ってこの映画に登場するのはハイドロマニアではなく(いずれも水の噴出に興奮しオナニーするという描写が確かにあるのだからその説明は苦しいが)人付き合いのできなさから来る孤独を水の噴出のイメージで埋め合わせている人たちであり、したがって本質的にはその水に対する欲望は性欲とは一致しない、と考えたとしよう。するとそれは適応障害というべきある。ところがこの映画では登場人物の水欲望を社会構築的・後天的なものではなく、本質的・先天的なもの、それにより制御も克服も不可能な属性のイメージで捉えているため、その治療に向かってドラマが進まない。それ以前に治療や克服ということがシナリオの俎上にさえ上がらない。結果的に治療による矯正を選ぶかそれとも水欲望を個性として守り続けるかはともかく、そうした展開が存在すらしないのだから、これはドラマとして成立していないじゃないだろうか。
水欲望を非性欲的かつ本質的なものとして捉えるこの奇妙な視座にはまぁまぁ倫理的な問題があるんじゃないかと思えるのは、学校に行きたがらずYouTubeで見た不登校系YouTuberに憧れて不登校動画配信を始める小学生、それから理由の説明などなくただ怯えた表情と「私は男性恐怖症なんです!」という叫びだけできわめて安易に男性恐怖症と描写されてしまう女子大生が、群像劇のスタイルを取るこの映画の中ではそれぞれの特徴の違いなどまったく無視され水欲望者と共に十把一絡げに「社会に馴染めない可哀相な人」とされるからであった。水欲望は本質的なものだから変えられない、同じように不登校願望も男性恐怖症もどんなにがんばったって変えられない。これはあまりにも実際にこうした境遇にある人らを単純化・記号化し、ようするにナメていると言えまいか。
男性恐怖症については経験がないが、不登校について言えば、俺は二年間ぐらい学校に行かない間にまた普通に学校に行きたいというのと、でも実際に行こうとするとやっぱりダルい寝ようって気になるのがもうぐるぐる混ざり合って行ったり行かなかったりしていたから、そんな状況で「行けない自分は変えられないから行かなくてもいいんだよ」なんて言われたら逆にムカつくだろう。おめー俺の何がわかってんだよって感じで。俺の不登校時代はまだYouTubeなんてないからある意味幸福であったが、この映画ではYouTuber化が不登校児の救いになるかもしれないとか抜かす。なるわけねぇだろ。
別に不登校YouTuberになってもそのうち現実を知ってこの道ダメだわっていつかはガキ自身気付くと思いますよ。でもさ、だったらそこはちゃんと描いた方がよくない? なんていうかシリアスなヒューマンドラマとして不登校YouTuberを扱うんなら大人としてそういう責任あるんじゃない? この映画そういう展開ないんだよ。それで自分のガキがYouTuber化していることを良く思ってない常識人の親父(稲垣吾郎)をお前らみたいな常識派の大人が生き辛い人々を傷つけ苦しめているんだ! ってな具合に糾弾するの。具体的に台詞でそう言うとかじゃなくてシナリオの構成の中でね。
ちょっと呆れてしまうよな。これはあまりにも世界の見方が幼いよ。実際、水欲望者が子供たちとバシャバシャ水遊びをして楽しそうにするというシーンもあり、とっくに成人済みの水欲望者と不登校小学生を同列に扱っていることから、水欲望者たちの幼さを印象づけているところはある。でもその幼さは克服されるべきものとして捉えられているのではなく、ずっとそのままであることが幸せなことであるかのように捉えられているわけで、水欲望者の幼さはむしろ社会に矯正される以前の人間の自然な姿として、肯定されるのである。ハイドロマニアという症例を取り上げながらもそれをセックスと結びつけることをしない背景には、そうした幼児礼賛の思考があるように、俺には思えてならない。
長くなったので一言でまとめれば、要するにこの映画は幼稚である。その幼稚さをリベラリズムやヒューマニズムと勘違いして胸を張る、まったく呆れた幼稚である。
配役が何となく見た目がそれっぽいからという理由で選ばれているとしか思えない、そして演技演出的にもそれっぽさしか存在しない。制作者の都合の良い記号として安易に扱われているとしか思えなかったです。まぁ別にそれでも良いのだけれど一応テーマとして偏見とか、偏見故に生きづらさを感じている人たちみたいなモノを扱っている気持ちが少しでもあるとしたらかなり作っている自分たちの姿が見えてないんじゃないか…と思ってしまいました。
世間的には社会派の傑作みたいな評価らしいので、昔からある弱者エンタメ(弱者かわいそうで客を泣かせるやつ)の現代版としてよくできていたかもしれません。真面目に変態性欲と向き合う覚悟や意志など映画の作り手はもとより原作者にさえなかったでしょう。エンタメとして売れるからやってるだけだと思います。