《推定睡眠時間:10分》
先週の未体験ゾーン上映作は7本、そして今週と来週は…なんと1本である。あまりにも劇的な番組編成にこれはたしかに未体験などと逆に感心してしまう。まぁねほらいろいろとな、いろいろと事情もあるだろうよ。あるだろうからそれはいいです。1本だけだから観るの楽だったしな。っていうかむしろ毎週1本ずつの日替わり上映を何ヶ月間とかそういうのでやってほしい気もしないでもないよ。ということで今週唯一の未体験映画『COME TRUE/カム・トゥルー 戦慄の催眠実験』の感想です。
うむ、寝たね。催眠というかこれは怪しい睡眠実験をテーマにした映画なのですが、やはり睡眠ネタというだけあって眠波がスクリーン越しに伝わってきたのでしょう、主人公の家出系女子高生ジュリア・セーラ・ストーンが睡眠実験に入り不気味な夢に悩まされているうちに俺の意識は彼方へと引きずり込まれておりました。目を覚ますとあれまどうしたことだろう、さっきまでたくさん人がいたはずの実験棟から人が消えていて主人公とあともう一人ぐらいしか残っていない。
いったい俺が寝ている間になにが…などと思う暇もなくなんでになんでが重なり物語はどんどん先へと進んでいく。その説明のない不条理気味の展開にどうもこれは夢なんじゃないかと思い始めるが、だとすればどこからが夢だったのだろう? スクリーンの中では主人公が起きたり寝たりを繰り返すのではたして今おれが観ているものが夢なのか現実なのかわからない。これはとても気持ちの悪い体験じゃあないだろうか。ふっと寝て起きたらさっきまで見ていた世界が何か別のものに変わってしまっている…。睡眠により映画の面白さが増した例として過去に『ディヴァイド』という映画があったが(寝て起きたらさっきまで冷静で仲良かった登場人物たちが狂って叫んだり笑ったりしながら殺し合っててかなりびっくりした)、『カム・トゥルー』は久々のそれ系映画、観ながら眠ることによって作品の味わいがだいぶ深くなるという異形作であった。
このブログでは何度となく書いていることだが誤解無きよう改めて書いておくと俺はどんな映画でも寝てしまうので寝たというのは別につまんなかったからとかではない。それどころかこの映画に詰まっているのは俺が好きなものばかり。たとえばこれは章立て構成なのだが各章の題はユング心理学における人間の諸側面、すなわちペルソナ(普段見せる顔)、アニマとアニムス(男の中にある女らしさ、女の中にある男らしさ)、シャドウ(表に出したくないネガティブな感情や想念)から取られており、ユング心理学ではそういうものでもないのだが、この映画においてはペルソナ、アニマとアニムス、シャドウと章題が変化していくことで覚醒からレム睡眠(浅い眠り)、レム睡眠からノンレム睡眠(深い眠り)への意識の移行を表現している。厨二なのでこういうの大好きである。
また『カム・トゥルー』というタイトルからクトゥルーを連想する人も多…くは決してないと思うが、主人公の幻視する不気味な夢世界の、あのH・R・ギーガー的でもベクシンスキー的でもあるようなこの世ならざる風景を好事家が見れば、これはラヴクラフトの『クトゥルーの呼び声』の変奏曲なのではないか? と彼方からの電波を松果体に受信してしまうことであろう。むろん俺もしっかり受信した。夢と現実の境目がどんどん曖昧になっていっていつまでも悪夢から抜け出せないような気持ち悪さはまるで永遠のマイフェイバリットゲーム『サイレントヒル』のようでもその元ネタのひとつ『ジェイコブス・ラダー』のようでもあって、更にはフィリップ・K・ディックの名前も引用されるということでもうね、ディックなんて中学ぐらいのころから一番好きな作家だからね俺は!
名前の借用に留まらず実はこの映画のあるシーンというか描写はディックの小説からのいただきもといオマージュになっており、俺としてはたいへん嬉しかったのだが、ぐぬぬ、これは…書けない! 終盤にある描写なので具体的にどこがどうと書けない…ただこれだけは言わせていただきたいのだが、その描写はもしかしたら「なんだそれ?」って感じる人もいるかもしれないものである。そういう人が近くにおりましたらぜひみなさんオタクの早口であれはディックの〇〇に出てくる△△のシーンを引用したものでだから劇中でディックの名前が出てきたわけでこれは決して唐突な描写でも突飛な描写でもないのであってと説明して気持ち悪がられてほしい。あ~言いたい、言いたいな~! ディックのあれを読んでいる人ならああそういうことねと一発で伝わるところなのだよこれはああああああああ!
その他、なにやら監督も影響を公言しているらしいが、現実を浸食する悪夢の世界の「影」は黒沢清の『回路』を思わせるところであるし、その盟友(だった)高橋洋の人間の脳をいじってたらあの世への回路が開いちゃった映画『恐怖』を思わせるところも、そしてまた高橋洋が私淑しラヴクラフトにも大きな影響を与えた英国の怪奇小説家アーサー・マッケンの世界を思わせるところもある(この人は人智の及ばぬ「あの世」が現実を浸食する恐怖を多く描いた人であった)。これはもう完璧に俺の趣味に合いすぎる映画である。完璧に合いすぎたのでここはこうであれはああでとネタ元かもしれないものを書き連ねていたらまぁまぁのテキスト分量になってしまったし、そのせいで『カム・トゥルー』がどんな映画かたぶんほとんど読んでる人には伝わっていないだろう。
いや、それで逆によかったんじゃないかな! この映画に関してはとりあえず浴びてもらいたいのであんまり詳しくどういう内容でと書きたくないからな! まぁ万人受けするような映画では正直ないだろうとは思う。けれどもこの奇怪な世界にどっぷり浸かってしまう人はいるだろう。くどくどと内容を書いてその後者の人の体験を多少なりとも損ねることは本意ではないので、これでいいのだ。それでも何か付け足すものがあるとすれば、これはサム・メンデスが『1917 命をかけた伝令』で採用していた手法だが、BGMがずっと続いてシーンによって曲調が変わる、普通は映画ではなくゲームで用いられるインタラクティブ・ミュージックの手法によって、どこまでも終わりがなくどこに向かうかわからない不安感が醸し出されていて面白かったとか、そのBGMはドリーミーなシューゲイザー系エレクトロを基調としていてうっとりもうとうともさせられるとか、独特の美意識が光る冷たいレトロ調の映像が見事だったとか、主人公ジュリア・セーラ・ストーンの年齢不詳の相貌と感情の読み取りにくく血色の悪い表情もまた不安感を煽ってとても良かったとか、まぁだから全体的にかなりよかったです。
2020年のカナダの映画。ジャンプスケアとアクションとイケメンばかりになってしまったアメリカのホラー映画にはまず見られない、抽象的で本質的なホラー。これは悪夢のような、というか悪夢そのものの映画だが、だからこそつまらない現実を忘れさせてくれるその悪夢にいつまでもうなされていたくなる、俺にとってはそんな映画でありましたね。激押し。
※特徴的な音楽は監督本人が作曲してシンセもギターも自分で弾いてるらしい。このアンソニー・スコット・バーンズという監督はPilotpriestの名義でミュージシャンとしても活動しているようで、IMDbを見たらVFXアーティストでもあるというから、監督も音楽もVFXも一人でこなしてしまう(そのうえ作品もすばらしい)なんとも芸達者な人です。