《推定睡眠時間:2分》
世代的に最初の『スター・ウォーズ』をリアルタイムで映画館鑑賞したことがないのは当然として俺は『ファントム・メナス』もおそらく映画館では観ておらず、当時テレビとかで盛んに宣伝されてたのでクラスでその話はしていた記憶があるが、実際に映画を観たのはもう少し後になってビデオとかテレビ放送とかでじゃあないかとおもう。その『ファントム・メナス』は俺にとっての『スター・ウォーズ』シリーズ初体験なので超ハマるということはなかったがネガティブな印象はまったくない。とくにポッドレースのシーンはワクワクしながら観ていた。だから後年、『スター・ウォーズ』ファンもしくは初代『スター・ウォーズ』をリアルタイムで経験した世代の映画好きからどうも『ファントム・メナス』はあんまり評判がよろしくないらしいと知り不思議に思ったものだった。
しかし今ならば、『ファントム・メナス』に戸惑ったリアタイ世代の気持ちもなんとくわかるような気がする。俺にとって『フュリオサ』はそんな感じの映画だった。たしかに面白い…面白いが…なんというか…端的に言えばこれはもう完全にハリウッド映画だったのだ。いやそんなことを言ったら前作『怒りのデス・ロード』だってハリウッド映画だし更に言えばその前作『サンダードーム』の時点でハリウッド映画だった。ハリウッド資本じゃないのは初代『マッドマックス』と『マッドマックス2』だけなので、むしろハリウッド資本で作られたハリウッド映画としての歴史の方が長いのが『マッドマックス』という「コンテンツ」である。
ハリウッド映画で何が悪いのか。お金をたくさん掛けられるしCGとかだって使い放題で結構なことじゃないか。はい、まぁ、そう思いますよ俺も思いますけれどもただ…『ファントム・メナス』に一旦話を戻すが、あんなに面白い映画の何がリアタイ世代は気に食わないんだろうと考えた時に、そこにはやはり初代『スター・ウォーズ』にあったなんというのだろうなやってやろうじゃねぇか精神みたいなものが欠けていたというのが、リアタイ世代の「これは違う」と感じた根本的な理由なんじゃないだろうか。
『スター・ウォーズ』にしても『マッドマックス』『マッドマックス2』にしても当初はまさかここまでの大人気シリーズになるとは考えられていなかった作品。それゆえ予算的な制約は以降の作品よりもずっと大きく、また制作された時代による技術的な制約というのも後のシリーズ作よりも強くあった。だから今観れば『スター・ウォーズ』も『マッドマックス』も結構ショボく、とくに『マッドマックス』は低予算映画なので、セットなどは組めずシーンの大半はお金のかからない屋外という貧乏加減。けれどもここが映画の面白いところなのだが、どうしたことかこの今となってはショボイはずの『スター・ウォーズ』や『マッドマックス』の方が、『ファントム・メナス』や『フュリオサ』よりも映画的に充実しているように、少なくとも俺の目には見えてしまう。
予算も技術も人手も無くなにより成功するアテなんかまるでない。そんな中で豊かなイマジネーションを持つクリエイターが、それでも自分のビジョンをどうにかしてこの世界に現出させようとして映画と格闘した結果が『スター・ウォーズ』や『マッドマックス』『マッドマックス2』だった。精神論ぽいが実はこれは単なる精神論ではない。初代『スター・ウォーズ』や『マッドマックス』『マッドマックス2』の時点ではクリエイターの脳内ビジョンをさまざまな制約により不完全にしか出力できなかったわけで、それはすなわち撮りたくても撮れないシーンや試したくても試せないアイデアが膨大に存在するということ。するとどうなるかというと「せめてここだけは!」というシーンが生まれるのだ。
本当はもっとテイクを重ねて完成度を上げたいが現実的に出来ないので上手く撮れなくても泣く泣くOKカットにするしかないようなカットやシーンがたくさんある一方、だからこそ「せめてここだけは!」のどうしても譲れない決めカット、決めシーンというものが出てくる。初代『スター・ウォーズ』や『マッドマックス』『マッドマックス2』がいくらチャチくても映画として充実して見えるのはそのためじゃないだろうか。ようするに、これらの作品は後のシリーズ作と比べて鋭く研ぎ澄まされているのだ。これは裕福な環境で育てば人は基本的にのんびりした感じに育つが、極貧の中で育てばある程度野性的な鋭さを身につけざるを得ないのと同じことかもしれない。まぁ人間の場合は裕福な環境でのんびり平和に育った方がいいとは思いますが…。
と前置きが長くなったがまぁ、だから、『フュリオサ』そんな感じでした。面白かったけどハリウッド超大作化しちゃったからもうシリーズ初期の鋭さは見る影もなく、撮りたいものが(とはいえ予算の許す範囲で)撮れるようになってしまった結果、不思議と作品世界は狭くなってしまった気がする。今回は前作『怒りのデス・ロード』に名前だけ登場したガス・タウンや弾薬農場が舞台として登場するので基本は砂漠を爆走してるだけだった前作よりも世界の奥行きが増しているはずなのだが。たびたびのどうでもいい比喩ですいませんがこれはジグソーパズルのようなものかもしれない。ジグソーパズルの1ピースを見ただけでは絵の全体像がわからないので、人はそのピースを見ながらこれはこんな絵のこの部分じゃないかと想像してピースを枠にはめていく。ジグソーパズルを作るのが楽しいのは、そんなふうにして全体像の欠如を自分の想像で補うからで、完成した絵を見るとこんな小さな絵だったのかとちょっとガッカリしたりするもんである。
アクションは相変わらず面白く見所はなんといっても中盤にあるウォー・リグVSコウモリ空挺部隊戦。『マッドマックス2』には骨組みヘリが登場したとはいえ空から本格的に攻撃を仕掛けてくる連中はこれがシリーズ初じゃないだろうか。武器が基本的に銃器ではなく火炎系というのも素晴らしく、なんだかサーカスを見ているみたい。そういえば前作の終盤戦もウォー・ボーイズがびよ~んて乗り移ってくるところサーカス味あったな。ジョージ・ミラー、サーカス好きなんでしょうか。
しかしこんなオモシロアクションはストーリー重視の『フュリオサ』にあってはあくまでも添え物。本筋はフュリオサがいかにして『怒りのデス・ロード』のフュリオサ大隊長になったのかというその道程で、これを子供時代から描くので今回はシリーズ最長の148分という長尺になっている。ぶっちゃけシナリオは下手だったと思う。無駄に登場人物が多く無駄な展開が多くテンションが持続しない。人物伝だからそんなもんなんじゃないのと思われるかもしれないが、人物伝なら省略が不要ということはないし、シナリオのブラッシュアップが不要ということでももちろんない。たとえば人物伝映画不動の名作として君臨する『市民ケーン』は119分である。
子供時代のフュリオサのシーンなんかバッサリ切ってイモータン・ジョーのもとへやってきたあたりからストーリーを始めつつ所々で短い回想を挟んでフュリオサの幼少期を観客に想像させる…とか普通にできると思うのだが(そしてイモータン・ジョーのもとへやってきた時点でのフュリオサは諸事情あり喋らないという設定なので、その過去が徐々に明かされていく展開にすればミステリー的な面白さも演出できたはずなのだ)、そういうシナリオの工夫をしないので冗長さを感じさせる一方、終盤のついに来たかという戦争シーンはなんと30秒ぐらいのダイジェストでサラッと流されてしまい「エッ!」と思う。いや、それを見せてくれよ! ついでにこのダイジェストシーンにはオマケみたいにドゥーフ・ウォリアーが出てくるのだが、みんな見たいだろうから一応入れてみました感がハンパなく、逆にそんな雑に入れるなら見たくなかったと思う。
ストーリーの面では他にもツッコミたいところが多々あるのだが(イモータン・ジョーが案外真面目に統治してるので悪く見えなくなってくるとか)、ネタバレみたいになるのも嫌だし細かいところは書かないでおく。細かくないところはネタバレにならないからいいだろうということで書くと、どうも『怒りのデス・ロード』とこの『フュリオサ』の世界は文明が終わってるわけではなく中世の封建制みたいな形に文明が変質しているようで、前作でも台詞の上ではそんな感じに語られていたが、今回は明確にSF封建制設定がストーリーに絡んでくる。武器農場、ガス・タウン、そしてイモータン・ジョーの住むシタデルと、今回の新キャラ・デメンタス総長率いる放浪のバイカー集団の4つのグループが、争ったり交渉したり策謀を巡らせたりというわけなのだが、このへん掘り下げが足りない上にフュリオサの人物伝というシナリオの主軸と齟齬を来しているので、面白味も意味もないんじゃないだろうか。
そのデメンタスも過去に子供を失って自暴自棄になった男という設定でこれは『マッドマックス2』のマックスのシャドウという感じなのだが、こちらもキャラの掘り下げが浅いので、バイクを三台繋いだチャリオットに騎乗して背中にはいつもクマちゃん人形をぶら下げているムキムキマッチョの半裸マンとかいうアホみたいな強キャラ設定にもかかわらず印象が薄い。やっぱこの映画シナリオが下手なんである。そして、シナリオの下手さを埋めるだけの「せめてここだけは!」というグッとくる場面もない。
原題は『FURIOSA: A MAD MAX SAGA』とのことだからこれが売れれば『マッドマックス:イモータン・ジョー』とか『マッドマックス:鉄馬の女』とか『マッドマックス:デメンタス』とかほかの『A MAD MAX SAGA』がきっと作られたりするんだろうな。面白い映画だった。面白い映画だったけれども決してよくできた映画ではないし、『マッドマックス』が完全にハリウッド商品化したことがわかってしまってなんだか切ない。もう『マッドマックス』シリーズは『スター・ウォーズ』シリーズと同じなんだよ。そういえば主要キャラを子供時代から大河ドラマ形式で描くという続編アプローチも『ファントム・メナス』と同じだし(あと舞台も両方砂漠)。俺は『スター・ウォーズ』シリーズは例外なくすべて面白いが、映画として本当に迫力があったのは初代とその次だけだったと思ってる。
※途中でマックスのパチモノみたいなキャラが出てくるのだが、その風貌が前作でトム・ハーディが演じたマックスよりもメル・ギブソンのマックスに似ていて、ちょっと面白かった。いやなんなのあいつ。
なんか「後先考えずやりたいこと全部やって作ってたらクライマックスの手前でお金も時間も尽きちゃった」みたいな印象を受けました。
きっとジョージ・ミラーさんの頭の中にはもっともっと壮大なビジョンがあって、戦争が始まったらあれやこれやで伏線が全部回収されて感情を揺さぶるなんやかんやがあって、うんそうなんだ、きっとそうだ、と思い割に平和な気持ちで映画館を後にしました。
大丈夫。大丈夫です。
とても素晴らしい映画でした。
最後の1行の説得力が全然ないですよ!!!
期待度があまりに高い状態で観に行ったのが多分良くなかったですね。
低予算映画の頃の方が迫力があったという指摘は面白いです。無限にお金さえあれば良いという訳でも無いのでしょうか。
まあでも、グッとくるシーンもありましたよね、、、主人公が敵のど真ん中に、相棒のマックスもどきを助けるために引き返すところとか!
場面単位ではグッとくるところも多いんですよね。だからもっと編集で刈り込んだらよかったのになぁとか思ったり。今回フュリオサというキャラクターを見せるキャラ映画の側面が強いので、フュリオサをたっぷり観たいという観客の要望には応えているのかなとは思うのですが
遅ればせながら失礼します。2回観ました。
ディメンタスがマックスのシャドーってのは本当そうだと思います。
フュリオサも含め、全員が大事なものをMADに奪われている。しかしフュリオサの選択は…というところで、ハッキリ1作目を語り直していますよね!
約束に背を向け人を助けに戻るとか、宿敵を追い詰めて涙を浮かべたり…フュリオサはとても人間くさくも描かれています。大事に種を持ち続けているカットが繰り返し入るのに気づきました。MADな世界で希望、正気、人間性を保ち続けたフュリオサが、やがて獣のような男だったマックスの人間性を回復させていく…デスロードの感慨がいっそう深まるのはもちろん、非常にキレイにシリーズをまとめているように感じられました。
イモォータァーン‼︎に対してこちらはフュリオサぁ…て感じですが、僕は好きでした。イモータンが脱走した嫁候補に無頓着なのはさすがに無理があるとは思いますが笑
俺は個々のキャラクター描写であるとかキャラクターのドラマよりも、そうした個々の要素が映画全体の中でどのような意味を持つかみたいなところに関心があるので、その点で『フュリオサ』はつまらなくはないけどうーんみたいな感じだったんですが、キャラクターを見せる映画としては良く出来てるなとは思いました。