《推定睡眠時間:10分》
もうおしまいだ、気候変動で世界は終わる! 熱波が原因(死因不明)となって母親を亡くした主人公は心のバランスを崩して熱波は気候変動のせいであり気候変動を起こしたのは石油大企業であり石油大企業を潰さないと世界は滅びるとビートルズの『ヘルタースケルター』を聞いて黒人白人最終戦争を幻視してしまったチャールズ・マンソンのように確信、その日から主人公は長かった髪をバッサリ切り目はガンギマってまるでジェネシス・P・オリッジのようになってしまう。
こんな狂い方をする若者にできることと言えば従来であればアメリカ連続殺人鬼界の異端児ハーバート・マリンの如く人を殺して取り出した内臓から環境汚染の度合いを測りつつ迫り来る大地震を人を殺して防ぐかもしくはアメリカ名物よくある無差別射殺魔になるぐらいであったが時代はもはや5G通信、ノルウェーが誇る人間のカスであるブレイビクのようにローンウルフ型テロリストとして活動する時代は終わった!
四六時中インターネットの陰謀論動画を見ているうちに環境汚染により五年で世界は終わるとデヴィッド・ボウイの名盤『ジギー・スターダスト』の開幕曲『五年間』のようなことを信じ込むようになった成績の悪そうな学生、根拠とかはないが自分が罹患している白血病は石油と環境汚染のせいに決まっていると思い込んだ終末期ケアの必要な人、お母さんからは仕事をするかネイティブ保護活動を手伝ってほしいと言われているがそんな要求は突っぱねてただ家でゴロゴロしているうちに爆弾製造系ユーチューバーになったニート、国と癒着した石油企業がプラントを作るというので立ち退きを要求されたがここは先祖代々の地なんだ譲ってたまるかと石油会社の人間が近づくと散弾銃を手に追っ払う選挙ではたぶん絶対にドナルド・トランプに(トランプは石油業界優遇派ですが)投票しているテンガロンハットのテキサスオッサン、そしてなんか暇そうなカップル!
それぞれまったく別の場所で活動したりしていなかったりしていた人々が石油大手のパイプライン爆破という『ファイト・クラブ』の如しミッションに集結した。退屈な日常。希望のない未来。だったら爆破の花火でも一発打ち上げてやろうじゃねぇの! 一人では大したことのできないバカも10人弱ぐらい集まればテロ行為ぐらいはできる。なんといっても数は力だ。それぐらい数が集まれば誰か一人ぐらいは「精神科に行くってのはどうだろう?」とか「みんなでお金カンパして環境問題の弁護士さんを雇おう!」とかそういう発想も出てきそうな気はするが出てこなかったのでたぶん爆破の二文字にみんな浮かれて考える余裕がなかったんだろう。地下鉄複数路線にサリン撒いた時のオウム信者みたいな感じで。
一応環境問題が物語の背景になってはいるが登場人物はもちろんとして作り手も環境問題を真面目に考えてなどいやしないことはパイプライン爆破計画に参加する誰一人として電気自動車やハイブリットカーなどのエコカーは使用せずにいかにも燃費の悪そうなガソリン車を乗り回してその住居や作戦本部には石油を原料として製造されるプラスチック製品が溢れに溢れているあたりから窺える。環境問題などどうだっていいんである。もしも本気で環境問題に取り組んでいればテキサスのパイプライン爆破で環境問題一挙に解決とかいう謎の発想(登場人物は全員世界の石油はアメリカだけで生産されておりアメリカだけで消費されていると思っているらしかった)には至らないはずだし、気候変動の影響をもっとも理不尽かつ破局的に被るのはインフラと経済が脆弱で主要産業が農業である主に西アフリカ諸国なので環境汚染加害国アメリカの人間としてその地の人々を救うための医療ボランティアや教育ボランティアや植林ボランティアやいやなにも当地まで行かずともその被害を訴える集まりに参加するとかせめて頑張ってバイトして毎月数千円でもいいから環境保護系の国連機関に定額寄付するとかするはずである(登場人物は全員世界はアメリカだけで他の国とか大陸が存在することは知らないらしかった)
これぐらい登場人物の意識がボロボロなら普通は『アイ,トーニャ』みたいにどうしようもないアメリカのバカ群像劇としてせせら笑いながらも一抹の憐れみとそんなバカを生み出したアメリカ社会への批判を込めて撮りそうなものだがこの映画『HOW TO BLOWUP』は至って真面目かつ硬派な撮り方をしていてその演出法はまるで『グッド・タイム』のサフディ兄弟作品のよう、日本の最近の監督でいったら宮崎大輔とかでしょうか。『ザ・クラッカー』などかつてのマイケル・マン作品を思わせる無駄をそぎ落とした脚本は爆破その一点に観客の視線と思考を集中させることで「なんてバカで救いようのないアメリカ人なんだ!」という常識的な観点を失わせているらしいことがフィルマークスとかの感想を見ればわかるので倫理的にはともかく現代的なノワール映画としてよくできた映画であることは間違いないだろう。しかもラストはバカ大勝利で百合映画風のエモ。エモいラストはハッピーエンドだと最近の観客は思い込む習性があることをよくわかった悪質な作り手である。
というわけで観ている間は面白いがうそ俺は観ている間もずっとバカじゃねーのと思っていたが、こういうものはあくまでも娯楽映画としてのみ捉えるべきだろう。だって実際にパイプライン爆破したらまぁ別に死者も出てないしパイプラインぐらいなら爆破してもいいけど普通にテロだし、犯人どもの言い分を真に受けて「うむ、この人たちは大義あるテロリスト! よって無罪!」とか考えちゃう観客はかなり人間として終わってる感じである。問題なのは行為ではなく論理であり、思想のための暴力は許されるというのであれば、それは植松聖をネット上で讃えるカスとまったく同類だろう。
という具合で映画を観てから数日間は映画の内容にもこの内容を真に受けて登場人物を聖人扱いするアホ観客にも呆れながらムカついていたが、少なくとも登場人物に関してなんかだんだんとちょっと可哀相になってきた。上のところで思想のための暴力と書いたが、思想と呼べるような思想を実はこのバカどもの誰も持ち合わせてはいない。その暴力は激甚的な被害者意識とそこから生じる攻撃的な防衛反応の産物であり、したがってバカどもはパイプライン爆破計画を「自衛」と称するのである。
爆破テロといえば新左翼だがかつての新左翼であればそこに思想や理想や理論ぐらいは一応あった。どんなに実現の見込みがないとしてもこの社会を破壊した先には今の社会とは別のもっと住みよい社会があると信じていたし、爆破はそのためのポジティブな行動としてあくまでも本人たちには認識されていたんである。それは自称最終解脱者・麻原彰晃を国家元首とする国を作るために数々のテロや殺人を行ったオウム真理教の裏ワーク従事者たちでさえ共有していたものだが、この映画の爆破テロリストどもにはそれがない。だから、映画は爆破テロ大成功&その影響で模倣犯的テロリストがアメリカ跋扈とエモく幕を閉じるのだが、そこには奇妙に高揚感や達成感がない。
空虚だなぁと思う。結局この爆破テロというのは『ファイト・クラブ』がそうであったように、自分の抱える様々な問題であるとか、肉親の死などの突発的な個人的大事件と正面から向き合うことのできない精神の未熟な若者が、それを正義のための爆破という形で代理的に解消しているに過ぎないんだろう。もちろんそれはあくまでも代理行動であって問題の本質的な解決には繋がらない。本当の問題は延々先延ばしにされ、爆破が新たな爆破を生み、テロが新たなテロを生み、の連鎖がどこまでも続くだけ。だからこの映画の結末はテロリスト大勝利にもかかわらずどこかスッキリとしないんじゃないかと俺は思う。
あくまでも映画などを観る限りの印象論に過ぎないが、SNS時代突入後のアメリカにはこんな思想なき空虚な「自衛的」アクティヴィズムが溢れているように俺には見える。我々は被害者であるという意識とそこから生まれる自衛的暴力。自分と意見の違うものは悪である、悪に対する攻撃は自衛である、従ってそれは正義である。そんな暴力的な単純化と他者の否定。「でも石油会社の従業員はどうなるの?」と爆破テロのネガティブな影響を友人に指摘された主人公の反応は印象的であり、典型的である。反論などしない。単に、その意見を無視するのだ。未熟なこの人たちには自分たちしか見えていない。もはや保守もリベラルも差はなくSNSで活性化されたアメリカのアクティヴィストなんかそんな頭の悪い人たちばっかりである(要出典)
ならお前は何をやっているのか、と反論したい人もいるかもしれない。こいつらはたとえ微力でも環境破壊に抵抗した。そのときお前は環境破壊を防ぐために何をしていたのか。そんなもん何もしないで別にいいだろ。やるテロ行為とやらない怠惰ならどう考えてもやらない怠惰の方が世界平和に貢献している。世界平和の土台なくして環境保護の超国家的かつ包括的な取り組みができると考えるのは単なるバカである。そもそも、石油大手だけが環境破壊の担い手だという理解がまず無知すぎるし、石油がなければ環境破壊もなく世界は平和になるという理解は幼稚園児よりも非科学的と言わざるを得ない。
石油などのエネルギーは種類を問わず文明のすべての領域に浸透しているわけで、食糧生産力の向上も医療技術の発展も教育の普及も、考えうる現代文明のすべての領域に石油は欠かせない。そこからどれぐらいかかるか知らんが徐々に忍耐強く脱していこうまぁそのときにはもう手遅れかもしれないけど! と今世界中の科学者や活動家やそこらへんのオッサンオバハンが頑張っている中でこの映画の爆破バカどもときたら…いやそれはともかく、環境問題というのは本来科学の問題であり、政治問題にすべきではないだろう。少なくともアメリカにおいては環境問題を政治化(つまり環境破壊は政治によって作られた偽りの問題だという主張)したのは右翼・保守勢力であって、『ドント・ルック・アップ』のようなリベラルの映画では、政治=右翼と科学=リベラルを対比的に描いていたわけである。
ところがこの映画ではその科学を捨て去ってしまった。科学を捨ててその代わりにエモさによる行為の正当化という積極的な反知性主義を選んでしまった。それが「見事な問題提起の映画だ!」とか評価されたりする。もうこれだけ書いたらわかるね俺がなんでこの映画とこの映画を政治的に評価する連中にどうして呆れムカついているかというのは。アメリカの今が分かる映画としてたいへん興味深く観られる映画だとは思うが、それはあくまでも批判的に観ればという話である。本当にもうね…みんなニュートンの気候変動特集号みたいなのを読むところから人生をやり直してください!
>本当の問題は延々先延ばしにされ、爆破が新たな爆破を生み、テロが新たなテロを生み、の連鎖がどこまでも続くだけ。
寧ろここがこの映画の伝えたいところなのかな、と思いました。
あと、主人公達の大義(と呼べるのか?)に賛同する気は一切無いのに、つい主人公達のテロ成功を見守ってしまわされる危うさとか。
そうであればいいなと俺も思ったんですが、ただ個人的には画面からそう感じることはできませんでしたし、たとえば下のフィルマークスのレビューはテロ活動をほとんど無条件的に肯定し賛美するものですが、今日の時点で100近いいいねがついてました。これはこの映画の公開規模からすればとても大きな数字なので、作り手の真意はわかりませんが、この映画を日本で見た大抵の観客はテロの連鎖を好ましいものとして観ていたんだと思います。
https://filmarks.com/movies/109228/reviews/176972088
塚口で見ました
英語版ウィキペディアに制作背景が書かれてますけど、映画の元になったのはスウェーデンのマルキシストが「環境保護の為なら破壊も辞さぬ」って内容の本で、それに感銘を受けた監督(グリーンランドのドキュメンタリーに編集で参加した経験がある)が、現実にパイプラインへの攻撃を行った活動家からも着想を得て作る事を決めたとかなんとか。
とりあえず見てみて思ったのは、革命で生まれたからか割と「自力救済」で暴力を肯定しやすい価値観(酔った勢いで「キリストだってある意味テロリストじゃん」と敬虔なキリスト教徒なテキサスのおっさんの前でほざくくらいだし)、マネーイズパワーで強引な利益誘導が露骨な大資本、そして銃はもとより簡単に爆薬の原材料が手に入りやすく実験・製造もやりやすい環境、って前提条件を見ると、「そもそもアメリカってテロリズムが育ちやすい環境なんでは?」という月並みな感想が浮かんできました。(ていうか実際に何度もテロ起きてるし)
DIYの国ですからねぇ…。そういうものは独立精神でもあるので、一概に悪いことではないというか、基本的には良いことだと思うんですが、ただそれが終末論と結びつくとテロ的な行動に傾きやすい。この世が終わるのを自分たちの手でなんとかして止めないと!と考えてしまうと、そんなことは個人個人にはできるわけがないので、現実的な可能性が塞がれて極端で過激な手段に辿り着いてしまう、ということだと思います。だからこういうのはどちらかといえば終末論的な考え方の問題なのかもしれません。プロテスタントの影響力が弱まっているといっても、なんだかんだアメリカはキリスト教的な終末論の伝統から今でも抜け出せていないのかもしれません。