世界は既に終わりました映画『Chime』感想文

《推定睡眠時間:0分》

世の中あんがい平和そうな日常に非日常がごろんと転がっているものである。黒沢清の最新短編映画『Chime』はそこらへんの料理教室の平凡先生(しかし本当は自分を天才シェフなんだとか思ってる)がどこからともなく聞こえるチャイムの音がぼくに命令するんですと訴える統合失調症のような生徒と出会ったことからその日常が崩壊していくというものだが、俺はついさっきウーバーイーツ配達をしている途中に人の通らない夜の住宅街で下半身を丸出しにして足元に小便を垂らしているおじさんとエンカウントした。全裸ならまだしも下半身だけなんて…いや、そういう問題ではないような気もするが、とにかく非日常というのは単に気付いてないだけで実は日常のそこらへんにあって、ある日とつぜんバッタリと出会ってしまうものなのだ。

さて主人公のお料理教室の先生だがチャイムの音が聞こえるんですの生徒と出会ってついでに衝撃的な事件を目の当たりにしたことで少しずつ変調を来していく。しかし異変はそれに留まらなかった。あたかも伝染するかのように他の生徒たちも次々と急に食材を投げ捨てるとかオバケが見えると言い出すとかどうも様子がおかしくなっていくのである。やがて異変はお料理教室の外へと広がる。先生のなかなか良い暮らしをしているファミリーも、街中のなんでもない喫茶店も、世の中のあちこちがなんだかおかしい…いったいチャイムとはなんなのだろうか?

正味45分の短編だしだいたい黒沢清の映画なのでなんなのだろうかといったところで最後までそれが明かされることがないことはまぁみんなわかってますね。はい、わかっていることにしましょう。わかんないものはわかんないものとして答えなんか出さない。伏線も山場もなにもなくただ日常の中の異常な風景だけを悪い夢のように繋げる。ついこないだ日本公開されたばかりの黒沢清セルフリメイク版『蛇の道』が意外やストンと腑に落ちるわりと正統派のサスペンスだったのに対してこちら『Chime』は初期の黒沢清映画に近い感じである。つまり、前衛的で、コワイというよりは奇妙な味。

たぶんこれは商業映画というよか自主映画に近い環境(動画配信プラットフォーム「Roadstead」用に撮られた一種のプロモ的なものらしい)でやれたためじゃないだろうか。黒沢清はもともとピンク映画『神田川淫乱戦争』および日活ロマンポルノとして撮影されたもののわけわかんなすぎるし全然エロくないので日活に怒られて一般映画の枠で公開された『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で長編映画の監督としてデビューした人であり、その後1990年代に入るとVシネとか企画ものの作品を多く手掛ける映画作家というよりは映画職人だった人である。とにかく予算と撮影日数の超過がなくて納期が守れていればまぁ別に中身はなんだっていいよ出せば売れるし的なゆるい空気の中でゴダールの薫陶を受けた黒沢清はさまざまな実験表現を試すことができ、そこから黒沢清のトレードマークの一つとなった「実は異常事件の起こっているそこらへんの民家」などが生まれたのであった。

その頃の黒沢清映画の面白さは最近の作からは失われてしまったなぁと思っていたのでまぁ一般劇場公開を前提としていない短編だしあきらかにセルフリメイク版『蛇の道』などと比べて予算のない『Chime』はその悪条件によって逆にかつての黒沢清の持ち味が戻ってきておりちょっと嬉しい。予算を与えると逆に普通のちゃんとした映画を撮っちゃって面白くなくなる低予算畑の監督というのはいるが、黒沢清なんかその筆頭なんじゃないだろうか。予算のなさゆえと思われる都内のそこらへんのロケ地で起こる予算のなさゆえと思われるお金のかからない異常事態と異物を画面外処理してカメラに映さない予算のなさゆえと思われるホラー表現。うーん、イイなぁこの気持ち悪さ。

そういえば前にフランスで『ダゲレオタイプの女』を撮った時に車のシーンを普通に撮ろうとしたら黒沢清映画が好きな現場のスタッフだかに「いや、日本で撮ってた時みたいに背景合成丸出しの不自然な車内シーンを撮ってくださいよ!」と言われ困惑したみたいなことを黒沢清は言っていた。そうなのよ、おそらくファンが見たいのはそっちなのよ、ちゃんとしたやつじゃなくて。でも黒沢清にしたらフランスの会社から(たぶん日本の会社よりも)お金もらって「やった! 撮りたかったあれも撮れるしこれも撮れるぞ!」なのかもしれない。このような映画監督とそのファンの認識のズレを俺はスタローンはダサいところが魅力なのに本人は自分のダサさをダメなところだと思っているっぽいことからスタローン現象と呼んでいる。黒沢清はスタローンだったのだ。

などとそんなことはどうでもよい。一言で言えばCrimeと似た響きを持つ『Chime』という映画は『回路』『Cure』に連なる黒沢清の一種の終末ものと言えるが、最初に出てくるチャイムの音が聞こえるんですの生徒はその原因ではなくきっかけに過ぎない点が実に黒沢清映画であり、映画が進むにつれて明らかになるのは実は普通に見えた主人公ほかさまざまな人たちも内心には病や異常を少なからず抱えており、後の異常行動の連鎖はその発露に過ぎない。要は、「みんなも壊れてるんなら、自分だけ壊れた心を隠したり直そうとしたりしないでもよいじゃあないか」なのである。心理的な割れ窓理論というか、終末ものといっても何かが原因で世界が終わるのではなく、気付いてないだけで実は世界は既に終わっていた、というのがこの映画の見せる恐怖なのだ。これは上に挙げたようなホラー作品だけではなく『カリスマ』『トウキョウソナタ』『アカルイミライ』など、黒沢清の非ホラー作品にも繰り返し現れるテーマである。

たぶん、だから黒沢清の映画にはコワさだけではなくて癒やしのトーンもあるのだろう。どうせ世界が既に終わってるなら何をしても無駄なんだし、そう気張ることもないじゃないの、というのほほんとしたニヒリズム。かねてより俺は死後の世界は楽しいらしいと人類が知ってしまったので数人を残してほかの全人類が喜んで自殺していく星新一のものすごい終末SF『殉教』が黒沢清映画に似ているとか黒沢清はこれ読んで影響受けたんじゃないかとか主張して憚らないが、それは星新一と黒沢清の作品が、こうしたのほほんニヒリズムで通底しているからなのだ。

そう身もフタもなく言われてしまうと肩の荷はたしかに下りるが同時に真面目に働いたり人助けをしたりする気が無くなってしまう。モラリストを自認する黒沢清は、だからこそモラルを無効化してしまうのほほんニヒリズムと既に終わった世界を恐怖の対象として描き続けるのかもしれない。

※ところで『Chime』が気に入った人は黒沢清の盟友・高橋洋の『霊的ボリシェビキ』が結構似たことをやっているのでそちらもぜひと言いたいがまぁ人を選ぶ映画ではある…。

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