《推定見逃し時間:5分》
上映開始時刻に間に合わず場内に入ったら画面には「十年後」の文字、主人公一家が郊外の一軒家に引っ越してくる場面だったのだがなんかあったんだろうなー! 俺が見逃した数分の間にこの家で確実に何かしらのおそらく凄惨な事件が発生してるんだろうなこれー! とは察せられるが詳細は不明なので図らずも「なんとなく嫌な気はするが過去にこの家で何があったのかはわからない」という主人公(一家の長男)と気持ちがシンクロしてしまった。冒頭からちゃんと映画を見ていた人ならその後の惨劇を目にして「いやそんな事故物件さっさと引っ越せや!」だったかもしれないが、よって俺の場合は「とはいえローンも残ってるしすぐに引っ越すというのも根拠が…」となり、一家がこの家に残り続けるという展開のリアリティが妙に増したりしたのであった。映画は全部ちゃんと観ればいいというものではない(そうか?)
いやそれにしても! この映画の評判はSNSでわりと前から目にしていて、試写に呼ばれたであろう映画インフルエンサーなんかが「ババァ無双!」みたいなことを書いていたりしたわけだが、もうそれなりに知れ渡っているだろうから俺もそう書いちゃうけど映画公開前にそういうネタバレみたいなことを宣伝目的とはいえ書くのはいかがなものか。というのもこの『サユリ』の前半はスラッシャー映画かというノリで(凶器はバール!)家に取り憑く怨霊が次々と一家のメンバーを葬っていくわけだが、そのあたりのコワさ面白さは誰が生き残るかという点にあるのだから、「ババァ無双!」とか言ってババァは生き残ることをバラしてしまったら、コワさも面白さもちょっと減ってしまうではないか。そのババァ無双ったって「あのババァが!?」的なサプライズなのに! 「ババァ無双!」とか言わないと普通の幽霊もののホラー映画だと思われて埋もれてしまうかも…という心配もわかるが、インフルエンサーがインターネットで発言をするときは自らの帯びる権威と影響力をちゃんと自覚してものを言って欲しいものである…まぁ映画と直接関係ない愚痴はそれぐらいにしておこう!
さて映画の前半はサクサク人が死んでいくスラッシャー映画的バイオレンス&ゴアに『呪怨』的な幽霊描写を織り込んだ感じでスラッシャーとJホラーという二つのジャンルの良いとこ取り、幽霊のビジュアルもファットボーイスリムのアルバムジャケットに写ってる人みたいな感じでインパクト大とたいへん面白い。人によって評価も色々だろうが元々はモキュメンタリーホラーの人であると同時にバイオレンス映画の人であった白石晃士の近作は全体としてパッとしない感じだったのだが、今回はバイオレンスとJホラーを兼ね備えつつ『コワすぎ!』以前の代表作といえる『ノロイ』を彷彿とさせる絶望感も久々にキッチリあり、少なくとも前半に関して言えば快作だったんじゃないだろうか。
めちゃくちゃ唐突に例のババァ無双のターンとなってジャンルもコメディに変貌しつつやがて家で起こった事件の謎解きミステリーへと舵を取るあたりは面白く感じる人もいればちょっと残念に感じる人もいるかもしれない。わざわざそう書くぐらいだから俺は少しだけ残念であった。このコメディ展開というのも覚醒したババァ「幽霊を恐れるから幽霊に殺されるんじゃ!生命を濃くしろや!」とか言いながらタバコをふかしまくり食欲がない主人公の口に無理矢理やきそばをねじ込んだりするアウトローっぷりを見せるものでうん白石晃士っぽい! すごい白石晃士っぽいキャラ! そう考えればこれは『貞子vs伽椰子』的な白石晃士バラエティ詰め合わせセットみたいな映画だが、なまじ前半が絶望感すら漂う本格ホラーのテイストだっただけに、やっぱり今の白石晃士が撮るとそうなっちゃうのかーまぁ客もそれを望んでるだろうしなーとか思ってしまうのであった。俺は人が救われない映画が好きなので。
でもこういうのは大事なことだよね。肉体に対する物理攻撃は回避するために適切に恐れることが必要だが、幽霊がやるみたいな精神に対する攻撃の場合は、恐れれば恐れるだけその恐怖が増大して攻撃の威力が増してしまうという恐怖の逆説がある。それで思い出した話があった。過去何度かここで書いたような気もするがむかし俺がすごい感銘を受けたブログがあって、それは集団ストーカーによる思考盗聴と電波攻撃を訴えるまぁ要するに統合失調症の人が日常を綴ったブログなのだが、この人は自分では統合失調症だという自覚がない。
それで、最初の方は遠隔地の盗聴室にいる男たちがひっきりなしに卑猥な言葉や嘲笑をその人の脳に送信しているというので悲嘆し憤慨しメンタルが相当すり減っているのだが、ある日この人は「ちくしょう! お前たちは遠くから一方的に自分を電波攻撃している卑怯な臆病ものだ! お前たちなんかコワくないぞ!」と思い、監視員が隠れている建物の影にザッと入ったら、そこに監視員の姿はなく、この人は相手の集団ストーカーが逆に自分を恐れているのだと確信した。
その経験から自信を得たこの人は集団ストーカーに卑怯で臆病なお前らなんか屁でもないわいと見せつけるために買い物をしたりカラオケに行ったり旅行したりあとは恋人を作ったりとかもあったかな? とにかくまぁ集団ストーカーを恐れて家に閉じこもるのをやめて陽キャっぽい感じで人生を楽しむことにするのだが、そしたら遠隔地の監視室にいる集団ストーカーの男たちは次第にこの人を恐れて数が減っていき、言葉も少なくなっていき、そのうち何も電波送信してこないようになったのだという。
思い返すだに本当にイイ話だと思う。いや、統合失調症の人は一刻も早く病院に行って投薬治療を受けた方がいいとは思うのだが(統合失調症は早期に治療するほど寛解率が高いことが知られている)、まぁそれはともかくとして、これは『サユリ』の中で言われる「生命を濃くする」恐怖への対処法にほかならない。コワイものはコワイと思うからコワイ。だから、コワイと思わなければいい。へっ! おめーらなんぞ屁でもないわい! というのは、無意味な虚勢ではなく、むしろ恐怖に対する積極的な治療行為なのだ。
なんでもかんでも「寄り添い」というものが高く評価される昨今だが、弱った人間には「寄り添い」が必要な局面も確かにあるとしても、「生命を濃くする」ことが必要な局面だってあるんじゃないだろうか。「寄り添い」はコワかったね、ツラかったね、と弱った人を理解し同情するものだが、そればかり言われているとその人の中でコワかったことやツラかったことがむしろ強度を増してトラウマとして刻印されてしまう。だから「生命を濃くする」こともまた必要なのだ。恐怖と戦うだけのスタミナが回復したらへっ! あんなもん屁でもねーぜ! といって例の統合失調症の人のように恐怖と対峙し恐怖をキチンと乗り越えること。それがないと結局はいつまでも人の心にはコワかった出来事やツラかった出来事が巣くい続けるだろうし、それじゃあ人生を100%エンジョイすることはできないだろう。
そういう意味では単なるホラーに留まらない現代に対するメッセージ性のある映画なので『サユリ』、面白かったのだが、ただどうかと思うのは梶原善を一家の父親役に抜擢しておいてあの多芸をフルに引き出さないっていう、それは本当にもったいない!
※ババァの覚醒の感じに既視感を覚えたがなんだろうと考え続け北欧サイキック映画『イノセンツ』の主人公の姉と判明。