《推定睡眠時間:30分》
クラシックのみを流す名曲喫茶にかれこれ15年ぐらい通っているにも関わらずチャイコフスキーと言われてもどんな曲を書いた人なのかわからないという耳の終わりっぷりであるがチャイコフスキーがわからないのにその妻のことなんかわかるわけない! と伝記ものならではの鑑賞ハードルを感じていたところどうもこの映画はあんまり事実に即した真面目な映画ではないと風聞で知る。たしかに映画を観たらエンドロールに入る前に実際のアントニーナ(チャイコフスキーの妻)はこの映画と違って別居後ほとんどチャイコフスキーとは会いませんでしたみたいテロップが出ていた。
弧につままれたような幕切れだが監督はキリル・セレブレンニコフなので逆に納得感もある。そうだよな、そうだよな。セレブレンニコフが前に撮った『LETO レト』っていうソ連のニューウェーブバンドKINOの伝記映画でもそういうことをそういえばやってたよ。時代は西側音楽が表向きは禁止されているソ連1980年代、主人公のヴィクトル・ツォイ(KINOのボーカル)は西側っていうかイギリスのポストパンク/ニューウェーブ音楽に魅了されてこっそり聴きまくっているが、この人の気分がアガったりなんかするとポストパンク/ニューウェーブ音楽が流れ(トーキング・ヘッズの『サイコ・キラー』が流れるとこ最高)登場人物たちは突拍子もない挙動を取ってミュージカルのようになる、ところがその愉快なミュージカル・シーンは「これは全部ウソ!」と書かれたプラカードなんかを持った人物が画面に闖入することで唐突に終わる。それはあくまでもそうあってほしいというツォイら登場人物の願望であり、現実のソ連でそんなミラクルは起こせなかったのである。
現実と虚構のシームレスな移動はセレブレンニコフの映画の特徴的な要素のひとつで、『LETO』の次の作品『インフル病みのペトロフ家』にもさっきまで薄汚い路地を歩いていたインフル罹患中の主人公が急に悪夢世界に紛れ込んでしまうという描写がある、というかこの映画は全編がひとつなぎの悪夢のような映画であった。そんなわけで『チャイコフスキーの妻』もまたどこまでが事実でどこまでが虚構なのか判然としない。葬儀に出れば死んだはずのチャイコフスキーは蘇り通りに出れば怪しげなサーカスが火を噴いたりしている、別居後もチャイコフスキーに執着するアントニーナを引き離そうとチャイコフスキーの弁護士は彼女の性欲処理用の筋骨隆々メンズを用意しアントニーナな全裸筋肉男性のチンコを握ってニオイを嗅ぐ、あるときは地獄のような橙のもやがかかりあるときは冥府のような濃霧がたちこめる街の風景にはとっても現実感がない…こうして虚実ない交ぜの不可思議の中で、アントニーナのチャイコフスキーに対する愛と嫉妬と憎悪の入り混じった奇妙なストーカー的欲望だけがたしかなものとして、さまざまな規範や制度といった抑圧を突き破って浮かび上がるという仕掛けである。
おもしろかった。このグロテスク趣味とカーニバル的空間! グリーナウェイやアントニオーニを彷彿とさせるところもあるがそれ以上に影響が大きいのはやはりロシアのカーニバル派監督アレクセイ・ゲルマン、それから虚実皮膜監督アレクサンドル・ソクーロフなんじゃないかしら。ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』や『神々のたそがれ』で描かれたポリフォニックで猥雑なカーニバルの場としてのソ連、ソクーロフの『静かなる一頁』で描かれた世紀末気分の横溢する退廃的な帝政ロシアの残影が『チャイコフスキーの妻』にもたしかに感じられた。その前衛的で挑発的な作風からして現在のロシアでは映画が撮れるわけもない(反戦の態度を明確にしているソクーロフも活動を禁止され監督引退を表明した)セレブレンニコフは亡命監督であり現在はドイツ在住らしいが、そんな人の撮る映画の方が現在の国策映画化したロシア映画なんかよりもよほどロシアの伝統を感じさせてくれるのはなかなか皮肉な話。そしてその皮肉がたまらなく面白い。
今風に観客を主人公に感情移入させたりしないのもいいよね。まぁとにかくこのアントニーナという人はチャイコフスキーが命で、だからこそチャイコフスキーに拒絶されるやチャイコを振り向かせるためになりふり構わぬ行動に出たりするわけですが、なんでそこまでチャイコに拘るのかよくわからないので、セレブレンニコフらしい露悪的な過剰演出もあってどうかしている人に見える。でもそんなもんなんだと思うよ俺は。人が人を好きになるのに理由なんて別にいらないもんね。そりゃ後付けであのへんが自分の趣味に合ってて好みだったとかこれこれこういう家庭環境の影響でどうとかそれっぽい理屈を付けることはできるよ。それでそういう理屈が付くと人はなるほどそういうことなんだねと安心してその人に共感したり同情したりできる。でもそれはしょせん物語で現実と必ずしも一致したりしない。なんだかんだ言っても結局よくわからないのが現実だし、人間なんじゃないですかね。
セレブレンニコフの映画はそういう世の中のよくわからなさから逃げてないから良い。よくわからないものをよくわからないまま描き出す。だから感情移入できないし安心できないし腑に落ちない。なにを観ていたんだろうって気分になる。そこが良いのですよ。俺はそういうウソの無さが好きだ。カッコイイとはいえミュージックビデオ風の終盤のミュージカル・シーンはセンスの良さを見せつけようとしているみたいで逆に白けるところもないでもなかったし、ソクーロフ風の超絶技巧的な長回しも若干クドい。それでもイイ映画なんだこれは。女性の権利が限られていた時代にあって必死に幸福を掴もうとした凡俗女性の一代記だなんてつまらない解釈はやめてくれ。現実の、人間のよくわからなさを、なんらかの定型に無理矢理当てはめて安心しようとする心理こそ社会的抑圧の原動力で、これはそんな抑圧など意に介さない一人の人間のおはなしなのであるから。
実はエンドロール前の通り、この映画でもチャイコフスキーとアントニーナは会っておらず
映画内の別居後のチャイコフスキーとの逢瀬は全てアントニーナが見ていた妄想でした
っていう見方も楽しいと思いました!
レストランのトイレやオーケストラの演奏後のシーンは虚構感すごく高かったので
そういう意味でもありますよねたぶん。映画の中の現実と虚構もごっちゃになっていて、この映画自体も現実(史実)と虚構がごっちゃになっているという、二重の虚実皮膜。終盤はとくにアントニーナの妄想っぽさがマシマシで切なかったすねぇ…
チャイコフスキーはゲイだったという前提ありきで描かれてるのかねえこれは…
アントニーナの猛アタックがあって結婚したんですが、それは同時にチャイコが同性愛を隠すためのものでもあった、というストーリーでした
教えていただきありがとう
そこはやっぱりそういう認識なんだ笑