アメリカン・ニューシネマはどう語られてきたか(増補版)

※以下の記事はnoteに書いた同名記事にちょっとだけ加筆したものです。

前にこういう記事(↓)をnoteで書いたのだがその後いろいろありじゃあ実際にアメリカン・ニューシネマなるものはどう語られてきたのか? ということに興味が出てきた

シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕

アメリカン・ニューシネマを一言で説明するのは難しい。というのも結論を先取りしてしまうと、↑の記事にも書いたことだが、アメリカン・ニューシネマには「これ」という定義はないから。そのため論者によって何をアメリカン・ニューシネマとするかは異なるし、一般的には1967年に公開された『俺たちに明日はない』から始まる一群のアメリカ映画を指すとされているが、実はこれさえもミスリードである。

THE NEW CINEMA.VIOLENCE…SEX…ART.

https://content.time.com/time/magazine/0,9263,7601671208,00.html

これはアメリカ国内では興行が振るわなかった『俺たちに明日はない』がイギリスでの好評を受けてアメリカに逆輸入された際のTIME誌1967年12月8日号の表紙に書かれた文句。ニューシネマとはもともとこの号で特集が組まれた『俺たちに明日はない』と他数編のヨーロッパ映画を差す言葉であり、詳細な経緯は追うことができなかったが、これが日本へと紹介され「アメリカン・ニューシネマ」の和製英語となったのであった。

したがってのっけからちゃぶ台をひっくり返すようだがアメリカン・ニューシネマは実態がない。びっくりである。これまで当たり前にそういうものがあるものとして映画好きな人たちが語ってきたニューシネマは現実には存在しなかったのである。まるでボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』のような言葉遊びと思われるかもしれないが、これは本当なので、これからニューシネマが過去にどのように語られてきたか具体例を挙げながら説明してみようとおもう。

誤訳から生まれた「アメリカン・ニューシネマ」

例のTIME誌の表紙にはこのように書かれていた、と多くの日本語文献にはある。

六十七年十二月八日号の『タイム』誌は、アーサー・ペン監督『俺たちに明日はない』を特集して、そのタイトルに“ニュー・シネマ、暴力・・・セックス・・・芸術! 自由にめざめたハリウッド映画の衝撃”とうたっている。

高沢瑛一(『キネマ旬報 1968年 春の特別号』)

六十七年十二月八日号の『タイム』誌は、表紙に「ニューシネマ――暴力・・・セックス・・・芸術・・・自由にめざめたハリウッド映画の衝撃」と見出しをつけ、『俺たちに明日はない』の特集記事を組んだ」

野村正昭(『第三文明』)(1991)

この表現が初めて使われたのは,アーサー・ペン監督《俺たちに明日はない》(1967)を特集したアメリカの週刊誌《タイム》(1967年12月8日号)の,〈ニュー・シネマ,暴力,セックス,芸術! 自由にめざめたハリウッドの衝撃!〉というセンセーショナルな見出しのなかであった。

『改訂新版 世界大百科事典』(2007)

「俺たちに明日はない」が公開された1967年に、タイム誌が「ニューシネマ 暴力…セックス…芸術! 自由にめざめたハリウッド映画の衝撃」っていう「俺たちに明日はない」の特集を表紙から組んだでしょう。(佐藤友紀)

『キネマ旬報 2009年6月上旬号』(2009)

これが「アメリカン・ニューシネマ」という和製英語の起源だと先に説明したが、実は上の一般化した説明は間違いで、ありがたいことにTIME誌は昔の記事をアーカイブ化してインターネットで読めるようにしてくれているので、そのことは↓のリンク先をクリックするだけで誰でも確認ができるようになった。

TIME Magazine U.S. Edition December 8, 1967 Vol. 90 No. 23

これを見れば一目瞭然だが、この号の表紙に書かれているのはあくまでも「THE NEW CINEMA.VIOLENCE…SEX…ART.」だけであり、「自由にめざめたハリウッドの衝撃!」と訳せる文字列は存在しない。ではこれはどこから来たのかとかというと、おそらくこの記事タイトルからだと思われる。

Hollywood: The Shock of Freedom in Films

https://content.time.com/time/magazine/0,9263,7601671208,00.html

今はどうか知らないがこの頃のTIME誌は「World:」とか「The War:」とか各記事の前に名詞+コロンが付いていた。これは言うならばコーナー名であり、コロンの後に続くのが個別の記事タイトル。したがって、上の記事タイトルを正確に訳せば次のようになる。

ハリウッド(のコーナー):映画の中の自由の衝撃

つまり「自由にめざめたハリウッド(映画)の衝撃!」とかいうのは誤訳(感嘆符については捏造である)であり、この記事タイトルの意味するところは「自由な映画がハリウッドに衝撃を与えている」なのだ。そのためこの記事には「New Cinema」の文字はたった二回しか登場しないのだが、そこで「New Cinema」の具体例として挙げられているのはハリウッド映画ではなく次のようなヨーロッパ映画である。

The New Cinema has been displayed on U.S. screens recently with astonishing variety and virtuosity. Michelangelo Antonioni parodied the modish artsiness of fashion photography to help create the swinging London mood of Blow-Up. Italy’s Gillo Pontecorvo faithfully reproduced the grainy style of newsreel footage to restage The Battle of Algiers — a pictorially harrowing exposition of war as an extension of politics. Czech director Jiff Menzel leaped from tears to laughter in quick sequence to create the moody turmoil of Closely Watched Trains. The “undoable” film can now be done, as shown by the creditable and convincing movie versions of Joyce’s Ulysses and Finnegans Wake. Even Proust is possible — if anyone wants to try.

https://time.com/archive/6595035/hollywood-the-shock-of-freedom-in-films/

イタリアのミケランジェロ・アントニオーニによるイギリス・イタリア・アメリカ合作映画『欲望』、同じくイタリアのジッロ・ポンテコルヴォによるイタリア・アルジェリア合作映画『アルジェの戦い』、そしてチェコのイジー・メルツェルによる『厳重に監視された列車』。これらの「ニューシネマ」が現在のアメリカでは公開されハリウッドに衝撃を与えている、というわけで、こうした自由なヨーロッパ映画にやや遅れてアメリカでも『俺たちに明日はない』という自由な映画が作られるようになった、それがこの記事「Hollywood: The Shock of Freedom in Films」の趣旨だったのだ。

要するに、1967~1968年頃に『キネマ旬報』などを通して日本語圏で流通し始めた「ハリウッド(アメリカ)でニューシネマと呼ばれる映画が作られ始めている」というような言説は、誤訳に基づく誤解だったのである。

ニューシネマの定義の変遷

今回の調査は基本的に国会デジタルコレクションのテキスト検索を使用して行ったものなので、国会デジタルコレクションにアーカイブされていない文献については一部古本で買ってきたものを除けば確認できなかった。そのため調査としては不完全もいいところなのだが、俺学者じゃないしこれ書いても誰からも一銭ももらえないしそもそも20人ぐらいにしか読んでもらえないと思うので、そこらへんはまぁ素人の戯れってことで。

とはいえ、資料の数自体は最低限集めたんじゃないかと思うので、そこからニューシネマについての語りがどのように変化していったか見ていってみよう。まずは定義編。

新しいクールでショッキングな一群のアメリカ映画

『キネマ旬報 1968年 春の特別号』(1968)

アメリカン・ニュー・シネマと呼ばれるクールでショッキングな新感覚派

『徳島県年鑑』(1969)

「アメリカン・ニューシネマ」という新語がおそらく1968年に日本語圏で作られた直後のこの言葉の定義は、後年に比べてかなり単純、かつ政治性を帯びておらず、宣伝性が強い点、もしくは商業的な観点から定義づけられている点が特徴といえる。たとえば『キネマ旬報 1968年 春の特別号』の特集「アメリカン・ニュー・シネマとは何か?」の中で、登川直樹はそのニューシネマ論のタイトルを「商業ルートに乗ったオフ・ハリウッド」(演劇やテレビ畑など、ハリウッドの非主流派が映画でカネを稼げるようになった、ということ)としているし、同特集で今野雄二はニューシネマの特徴を「第一に小規模の制作費。第二に衝撃的な題材。第三に実在の人物あるいは実際に起こった事件をモデルとしていること」としている。この第三の特徴である「実録路線」は今日の目からすれば首をかしげたくなる感じだが、これはこの時点でニューシネマとされていた作品が現在とはかなり異なっていることに起因する。その点については次章をごらんください。

アメリカン・ニュー・シネマと呼ばれる新しいアメリカ映画群の特色は、他の国の新しい映画が、一般に、きわめて観念的な苦渋をともなっているのにくらべて、具体的で、明快で、ときには楽天的、通俗的でさえあるというところに求められると思う。

佐藤忠男『ヌーベルバーグ以後 : 自由をめざす映画 』(1971

日本を代表する映画評論家である佐藤忠男はまた、『現代映画辞典 改訂』(1973)の「アメリカン・ニューシネマ」の項でニューシネマをマイク・ニコルズ、ラリー・ピアス、フランク・ペリー、デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、ロバート・アルトマン、ジョージ・ロイ・ヒル、サム・ペキンパー、ウィリアム・フリードキン、スタンリー・キューブリック、アーサー・ペン、ジョン・シュレンジャーなどの監督/俳優によって作られた映画群と定義している。

この混乱期(注:ケネディ大統領が暗殺された1963年から1973年までの10年間)に作られた、時代の激しい変動を体現した映画である。一般に「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる、これまでのハリウッド映画とは趣を異にする映画である。

川本三郎(『別冊太陽 アメリカン・ニューシネマ ’60~’70』)(1988)

余談ながらこれに続くニューシネマ解説の中で、川本三郎は「アメリカン・ニューシネマ」という言葉はすでによく知られているように一九六七年に作られた「俺たちに明日はない」に対して週刊誌の「タイム」がつけた名前である」と書いているから、川本三郎のような映画評論の大御所でもニューシネマの起源を誤って伝えていたことになる。

一九六六年のヘイズ・コードの抜本的改定と一九六七年のヘイズ・コード廃棄がそれ以降の映画の主題決定にあずかり、それゆえそれ以前のフィルムとは明確な一線を画した映画群がニューシネマの名でくくられ喧伝されることになった(中略)その特徴のひとつが、ヴェトナム戦争を迂回しつつ、そこに目配せするというものである。

加藤幹郎『映画ジャンル論 ハリウッド的快楽のスタイル』(1996)

京大らしい晦渋な論理展開が今となっては味わい深い映画評論家・加藤幹郎のニューシネマ定義はとくに後半部の「ヴェトナム戦争を迂回しつつ、そこに目配せする」が際立って特徴的だ。これは評論としては面白いが実際にどういった作品がニューシネマとして日本語圏で流通してきたかを考えるとかなり無理のある定義であると言わざるを得ず、そのことは次章を見てもらえればわかるとおもいます。

世界の映画からほぼ10年遅れてアメリカに波及した「自由」を謳歌しながら、あきらかに失敗とわかった60年代の「実験」を体現する形で撮り上げられたのが『イージー・ライダー』(69)であり、アメリカン・ニュー・シネマであった。

『Studio Voice. 2002年12月号』(2002)

これもまた独特な・・・というかこれは定義なのか? まぁでも一応各時代のニューシネマ観の変遷を辿ることがこの章の目的なのでということで。

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッドと呼ばれます)という潮流がありました。何らかの体制に抑圧されている若者たちが、なんとかして現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます。

北村紗衣『メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た』(OHTA  BOOKSTAND)(2024)

本当は2010年代のニューシネマ定義のサンプルとして何かもうひとつぐらい欲しかったが2010年代はアメコミ映画ブームなどもありニューシネマが忘却されていたのかこれといったテキストを見つけることができなかった。また、2002年の町山智浩『映画の見方がわかる本』も当時の話題書で1970年代の映画を扱ったものだから引用したかったが、買って家にあると思ったのが探してみたらなかった・・・。

ともあれ、こうして「アメリカン・ニューシネマ」の語が誕生した頃から現代2024年までのニューシネマ定義を並べてみると、それなりにわかることもある。それはニューシネマの語が日本語圏で用いられるようになった初期には具体的な作品や監督に即してそこからニューシネマの特徴が析出され言葉が定義づけられるという作業が行われていたものの、時代が下りニューシネマの語が定着するにつれてこうした具体的な作業は行われなくなり、評者ひとりひとりの個人的な価値観や世界観でニューシネマが定義づけられるようになったらしい、ということだ。

別の観点からこの現象を眺めれば、当初はニューシネマの語は評論の用語であると同時に映画(や、それを扱う雑誌)を宣伝するための用語でもあったが、その宣伝価値が失われるにつれて、純粋な評論用語へと変わっていった、と言えるかもしれない。現代においてニューシネマという語を用いて1970年前後の映画を一掴みにするときに、それは評論のために、評者の思想を開陳するために行われるのだ。だから人によってその定義はバラバラになってしまうんである。

ニューシネマとされた映画たちの変遷

最初期のアメリカン・ニューシネマのラインナップは『キネマ旬報 1968年 春の特別号』によれば『俺たちに明日はない』に加えて殺し屋ハードボイルドの『ポイント・ブランク』トルーマン・カポーティ原作の『冷血』悪名高い暴走族ヘルズ・エンジェルスに材を取った『地獄の天使』、胸糞系の地下鉄サスペンス『ある戦慄』の5本らしい。『ポイント・ブランク』はピカレスク小説『悪党パーカー』シリーズの映画化なので別なのだが、他の4本は一応実録系に属するもので(『ある戦慄』はあやしいけど)、そのために先に引用した今野雄二の「第一に小規模の制作費。第二に衝撃的な題材。第三に実在の人物あるいは実際に起こった事件をモデルとしていること」というニューシネマ定義が出てきたわけである。

それにしてもこの5本には意表を突かれた。というのも先に挙げたニューシネマのカタログ本『別冊太陽 アメリカン・ニューシネマ ’60~’70』には108本の作品がニューシネマとして掲載されているが、その中に『ポイント・ブランク』と『地獄の天使』はないし、70本の作品をニューシネマとしている田山力哉『アメリカン・ニューシネマ名作全史』(1981)には『俺たちに明日はない』以外に上記の作品は1本も入っていない。余談ながらこの本には一般的にニューシネマとは呼ばれないと思われる『スター・ウォーズ』『地獄の黙示録』『エレファント・マン』などが入っており、ニューシネマというよりも1970年代に頭角を現した新世代のハリウッド監督たち、及びその作品を指す英語圏の映画批評用語「ニューハリウッド」の方がしっくりくる点が興味深いところだ(このことからもわかるようにニューハリウッドとニューシネマは別の概念である)

さて1988年の『別冊太陽 アメリカン・ニューシネマ ’60~’70』では108本の映画がニューシネマとされている・・・が、それをリストアップすると俺の指も死ぬし呼んでる人の目も死ぬと思うので、今日の目から見て(?)あまりニューシネマとは呼ばれない作品をいくつかこの時代のニューシネマ観を示すものとしてピックアップしてみると、『ローズマリーの赤ちゃん』『2001年宇宙の旅』『スティング』『ペーパー・ムーン』などが面白い。だって今この4本をニューシネマ観るぞ~と思って観る人っていないでしょたぶん。ニューシネマといったらロードムービーとかバッドエンドとか・・・みたいな印象がおそらく今の日本の映画好きの大多数の印象で(※根拠なし)、そりゃ『ローズマリーの赤ちゃん』はホラーだからバッドエンドだけど他3本は違うし、『ペーパー・ムーン』はロードムービーだけど他3本は違う。『スティング』なんか明るく楽しいコンゲームもの娯楽映画なので監督が『明日に向かって撃て!』のジョージ・ロイ・ヒルってぐらいしか個人的にニューシネマぽさが浮かばない。けれども、こうした作品も1988年の時点ではニューシネマ作品とされていたわけだ。

比較的最近のニューシネマ作品カタログとしては『Studio Voice. 2002年12月号』の「アメリカン・ニュー・シネマとその彼方」特集があるが、この特集ではニューシネマの語を軸にしつつ1970年代のアメリカ映画全般、およびその影響下にあるアメリカ映画にも大きく紙幅を割いているため、かつてはニューシネマとして扱われなかった『E.T.』『ゴッドファーザー』『シャンプー』といったタイトルが「ニューシネマ」の括りと言うよりは1970年代の重要作品として挙げられ、『黒いジャガー』『コフィー』といったブラックスプロイテーション映画、ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』やジョン・カーペンターの『ハロウィン』もニューシネマ時代の重要作品として同列に並べられている。

このように見ていくと、ニューシネマとされる作品は最初期にはたった5本であったものが年々膨れ上がって2002年の時点ではもうニューシネマっていうか1970年代のとりあえず新しい試みをした映画は全部ニューシネマっぽい感じってことでいいんじゃねぐらいの大掴みとなり、ニューシネマの概念がほとんどニューハリウッドの概念に取って代わられていることがわかる。

ニューシネマは「男の映画」だったのか

こうした流れの中で興味深いのは近年のニューシネマ・リバイバルと言ってもよさそうな現象で、女優のバーバラ・ローデンがニューシネマ最盛期1970年に監督・主演で撮り上げたロードムービーの傑作『WANDA/ワンダ』は上に挙げたニューシネマ・カタログには入っていないものの、2022年にイメージフォーラムなどのミニシアターでリバイバル上映されるや盛況を博し、またこちらもイメージ・フォーラムほかで特集上映が組まれてミニシアター的な大ヒットを記録した現代アメリカ・インディペンデント映画シーンの最重要作家の一人であるケリー・ライカートの作品も、低予算やロケ撮影の多用、逃避・放浪の志向や反ハリウッド的なドラマツルギーなど、『俺たちに明日はない』や『イージー・ライダー』など1970年前後の作家主義的なアメリカ前衛映画の特徴が非常に強く見られ、それらをニューシネマとするならケリー・ライカートは現代のニューシネマ作家と言ってもよさそうである。

ニューシネマのイメージが徐々に拡散しニューハリウッドと区別することの意味がなくなっていく中での『WANDA』の再評価やケリー・ライカートの好評は、現代の日本において何をニューシネマ作品とするかの選定が、再考されてきていることを意味するんじゃないだろうか。具体的に言えば、従来ニューシネマは「男の映画」と見られていたものが、現代ではそうでもなくなってきているんじゃないだろうか。

演劇評論や女性映画研究で知られる小藤田千栄子は1988年の『別冊太陽 アメリカン・ニューシネマ ’60~’70』の中で、それが後の時代の「新しい女性映画」の胎動期であったと評価しつつ、このように語っている。

ニューシネマの第一作「俺たちに明日はない」は、原題を「ボニーとクライド」といって、ヒロインの名前から始まるが、この時代の映画は、圧倒的に男主体の作品が多い。ここに紹介したのは、全部で一〇八本だが、ざっとタイトルを見るだけでも、男の映画であることがわかる。

『別冊太陽 アメリカン・ニューシネマ ’60~’70』(1988)

『Studio voice. 2002年12月号』のニューシネマ特集における長谷川町蔵と山崎まどかの対談での山崎まどかの発言になるともっと容赦がない。

NC(注:ニューシネマ)って女性不在なんですよね。この時代の女優の良い役って、全部娼婦なんですよ。レイプされる役が多いし。

『Studio voice. 2002年12月号』(2002)

『キネマ旬報 2009年6月上旬号』のニューシネマ特集における渡辺祥子、黒田邦雄、佐藤友紀の対談ではこれらの評価とは少し異なる角度から渡辺祥子が「男の映画」としてのニューシネマを評価する。

女性解放活動家ベティ・フリーダンが提唱した女の時代になってきて、「男が泣いて何が悪い」という考え方が映画にも影響を与えている

『キネマ旬報 2009年6月上旬号』(2009)

2024年のインタビュー記事『メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た』での北村紗衣はニューシネマと呼ばれる作品群の影響を受けたとされる『ダーティハリー』を引き合いに出してニューシネマを「男の映画」と強調していた。

アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流で、『ダ―ティハリー』にもそういう要素がある

北村紗衣『メチャクチャな犯人とダメダメな刑事のポンコツ頂上対決? 『ダーティハリー』を初めて見た』(OHTA  BOOKSTAND)(2024)

ニューシネマを「男の映画」と捉えてきたのは当然ながら女性評論家だけではなく男性評論家も同じである。そのことは『懐かしき 俺たちのアメリカン・ニューシネマ 「青春を駆け抜けた名作が今蘇る」』(2017)といったタイトルの本が出版されていることや、『別冊太陽 アメリカン・ニューシネマ ’60~’70』での川本三郎の次の文章が端的に表している。

大スターより観客と等身大の新しいスターが主役を演じた。”彼らの映画”ではなく”俺たちの映画”の時代が始まった……。

『別冊太陽 アメリカン・ニューシネマ ’60~’70』(1988)

しかしながら、そもそも定義すら定まっておらず、時代ごとに「何をニューシネマとするか」が変動するニューシネマを「男の映画」と断言するのは論理的に不可能だ。なぜならニューシネマに「女の映画」を含めることも、ニューシネマというあやふやな語の性質上は問題なくできてしまうからであり、そして『WANDA』のリバイバル再評価やケリー・ライカートの「発見」は、そのことを如実に示しているように思える。

したがってニューシネマが「男の映画」に見えるとしたら、それはニューシネマを「男の映画」として語り、選定してきた日本の男性中心的と考えられる映画評論の抱える問題であり、ざっくりニューシネマと括られる作品群自体の問題ではないはずだ。現に『WANDA』との共鳴するフランシス・フォード・コッポラの1969年作『雨のなかの女』はニューシネマ作品であると同時にニューハリウッド作品でもあるが、これまで日本の映画評論ではあまり評価されることなく、DVD化などもされず埋もれてしまった作品である。仮にニューシネマ100本とかのリストに『WANDA』や『雨のなかの女』(あとアルトマンの傑作『三人の女』とか)が堂々と鎮座していればニューシネマを「男の映画」と感じる人はあまりいないんじゃないだろうか

その意味で、フェミニズム的な観点からニューシネマを「男の映画」とすることは、男性中心主義の批判ではなく、男性中心であったニューシネマのこれまでの語りを、むしろ逆の立場からそのまま引き継ぎ肯定してしまうことになる。新屋敷健の小論『女優の身体は語る――バーバラ・ローデン『ワンダ』』はそうした逆作用を指摘するもので、北村紗衣が前述のインタビュー記事で参照しているフェミニズム映画批評家モリー・ハスケルが『WANDA』の先進性を評価しなかったこと、そして同時代のアメリカのフェミニズム・シーンにおいても『WANDA』が受け入れられず、女性監督・女優による「新しいアメリカ映画」の傑作として語り継がれない結果を招いたことに触れられている。

『ワンダ』は女性の「肯定的なイメージ」が欠けていると見なされ同時代評価を得られなかったのである。このように、ローデンは1970年代初頭の女性監督であると同時に、当時のフェミニスト映画批評でも評価を得られなかったという意味で、二重に周縁的な存在であった

新屋敷健『女優の身体は語る――バーバラ・ローデン『ワンダ』』(『New Perspective 第51巻』)(2021)

モリー・ハスケルが『WANDA』について書いている主著『崇拝からレイプへ――映画の女性史』は欲しかったが結構高い本なので手に入れることができず、ちょっと申し訳なさもあるが、前掲論文から重要と思われるハスケルのアメリカ映画女性史観の部分を重引させてもらう(すいません)

“進歩”を目指す二〇年代の女たちから、男女平等で信頼に満ちた三〇年代、疑いと裏切りの渦巻く四〇年代(必然的に略奪者としての女が描かれる)へ、映画は前進と後退を繰り返し、抑圧され歪められた五〇年代のセクシュアリティー、そしてついに“解放”された六〇年代、七〇年代、さらには映画における女性の表現と描写が最悪の状態を呈している今日へと至る。

モリー・ハスケル『崇拝からレイプへ――映画の女性史 第2版』(1987)

これはかなり極端というか偏っているというかなんというか、という気がするが、ともあれ現物を読んでいないし、こうした歴史観や言説がかえって映画界における女性の活動を不可視にし、抑圧してしまう可能性を提示するに留めておく。『WANDA』がリバイバルされ再評価されている近年の日本では女優ではなく映画監督として『乳房よ永遠なれ』『月は上りぬ』といった傑作を残した田中絹代の再評価が急速に進み、国立映画アーカイブではこれまで語られることのほとんどなかった邦画撮影の場における女性スタッフの功績を掘り起こす作業が行われているし、またアメリカでも『Women and New Hollywood: Gender, Creative Labor, and 1970s American Cinema』(2023)という1970年代のハリウッドにおける女性映画人の活躍にスポットライトを当てた本が出版されたそうである。ニューシネマに関しても「男の映画」と一刀両断するのではなく、そうした見方自体を疑い、実際にはそのスクリーン内外に多くの女性が存在していたことを明らかにすることが、結果的に男女平等を促進するように個人的にはおもう。

【まとめ】アメリカン・ニューシネマとはなんだったのか

ようするに、アメリカン・ニューシネマとは映画の批評と宣伝のために作られたカテゴリーであり、そのような映画運動があったわけではないし、ニューシネマ作品とされる作品間にも確たる共通点はないので、人によって何をニューシネマとするかはバラバラである。もしアメリカン・ニューシネマと呼ぶべき作品があるとすればそれは『俺たちに明日はない』たった1本であり、ぶっちゃけそれ以外の作品は全部ニューシネマではない。そして、『俺たちに明日はない』以外は全部ニューシネマではないからこそ、各々の論者がこれはニューシネマであれはニューシネマじゃないとか、好きにレッテルを貼ることができたのである。ひとつ面白い発言をここでインサートしておこう。

いったい、ペッキンパの作品(注:サム・ペキンパーの『わらの犬』のこと)や、ブアマンの『脱出』などを、ニュー・シネマに含めていいのかどうか。

森卓也(『映画評論 1973年3月号』)(1973)

宣伝という点に着目すればこんな風にもいえる。1970年代後半~80年代前半には東宝東和という配給会社がホラー映画を売るためにさまざまな実態のない宣伝文句(『サランドラ』の「ジョギリ・ショック!」とか)を捻り出したが、東宝東和の大嘘誇張宣伝が「この映画はとにかくヤバイですよ必見!」と観客の怖いもの見たさを煽るためのものであれば、その語が「発明」された当初にキネマ旬報という当時の日本国内における映画言論の中心で「新しいクールでショッキングな一群のアメリカ映画」(キネマ旬報1968年 春の特別号)と説明されたニューシネマもまた、観客のヤバそうなもん見たい欲を刺激したであろうという意味で、「ジョギリ・ショック!」とそんなに変わるもんではなかったのだ。

いったいアメリカン・ニューシネマの幻影に映画界隈が踊らされていたこの50年間とはなんだったんだ!思わず太字にしてしまう衝撃事実であるが、いや、だから俺はそういうことを日本でニューシネマとされるいろんな映画を実際に自分で観て体感的に理解していたので

アメリカン・ニューシネマの幕開けとされる1967年の『俺たちに明日はない』が(これにしたって結局今の基準からすればまったく穏当な映画なのだが)公開時にその暴力性と性的な要素でセンセーショナルな話題を振りまいたとしても、それをニューシネマ全体の特徴として語るのは、どうも相当な無理があるように俺には感じられる。

ニュー・ハリウッドにせよアメリカン・ニューシネマにせよ、それは文字通り「新しいアメリカの(ハリウッドの)映画」というに過ぎない。これまでのアメリカ映画にない描写、主題、物語、人物、音楽、哲学…そういった要素があれば、ニュー・ハリウッドやアメリカン・ニューシネマとしてカテゴライズされたわけである。暴力やセックスはその中の一つとしてあるに過ぎない。

って最初の方にリンク載せた↓の記事に書いたんだっつーの!そしたら自分ではニューシネマを観てないし興味もないとしか思えない無知蒙昧野蛮の輩どもに炎上させられたんだっつーの!ふざけんなっつーのマジで!

シェイクスピア研究者の北村紗衣さんがアメリカン・ニューシネマについて俺の個人的なニューシネマ観とはかなり違うことを書いていたのでそれを説明しつつニューシネマのいろんな映画を紹介する記事〔改訂版〕

というわけで「アメリカン・ニューシネマ」が日本の映画好きたちにどのように語られてきたかよ~くわかっていただいたであろうところで最後に俺から提言である。もう、ニューシネマという言葉を使って1967~1970年代の映画を語るのはやめませんか?これまで見てきたように、ニューシネマという概念はその語が発明された当時はそれなりにその時代のアメリカ映画を分析する装置として有効だったと思うが、今ではもうまったくその効力がないように思う。それよりも再三引用したスタジオボイスのニューシネマ特集号みたいに単純に「1970年代ぐらいのいろんな新しい映画」としてその時代のいろんな映画を一緒くたにして語った方が見えてくるものが多くて有益じゃないだろうか。今の時代にニューシネマとブラックスプロイテーション映画をあえて分けることにいったいどんな利点があるだろうか。「新しさ」という点では同じなのに。ニューシネマを男の映画であるとして『WANDA』を除外することにいったいどんな意味があるだろうか。他の多くのニューシネマとされてきた作品と同じ空気を共有しているのに。

そもそも誤訳から始まったのがニューシネマである。そんな始まりから間違ったものにいつまでも拘泥していても仕方がないんじゃないすかねと俺としては日本の映画評論家およびシネフィルたちに対しておもいます!以上!

※「アメリカン・ニューシネマ」という語の持つ宣伝性は、例えば『アメリカン・ニュー・シネマの息子たち―ルーカスからゴダールまで11人のインタヴュー集』(1982)という本が存在することからも伺える。この本は米ローリング・ストーン誌に掲載された映画監督のインタビューをまとめた日本オリジナルの企画本であり、ゴダールのインタビューまで含まれているように実はアメリカン・ニューシネマとは関係がない。それでもタイトルに「アメリカン・ニューシネマ」と冠されたことは、そうした方が売れるという判断だろう。

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