《推定睡眠時間:20分》
映画は雪原にたった一本伸びる道路にバスが停車する場面から始まる。降りた乗客は一人だけで顔はよく見えないがこの人がおそらく主人公、さて降りて吹雪の中どこへ向かうかと言えばおよそ2キロ先に見える小さな村なのだが、そこに行くまでの道にマジでなんもない。この村に赴任してきて数年目、今回は休暇帰りかなんなのかよくわからなかったがともかく久々の帰還となった主人公の小学校教師は村までのマジでなんもない道なき道を吹雪に耐え雪を掻き分け進む。この過酷にして雄大なトルコ冬の自然風景、そして上映時間198分という大作っぷり。これはきっとなんだかすごい芸術的トルコ映画に違いない。雪を被った少女が少し悲しげにこちらを非難するような眼差しを向けているポスターもなんかそんな感じである。
ところが! 蓋を開ければ傲慢で尊大で陰湿で無気力で皮肉屋で偽善的で利己的で攻撃的でかんしゃく持ちで無駄に自己評価が高く目下の者には強く目上の人間には徹底して弱いカスの主人公の醜悪な愚行っぷりを3時間に渡って見せられ最終的にこのオッサンがいかに中身のなんもない終わった人間かを見せつけられる「う~わ~」みたいな映画であった…。オッサンのイタさを容赦なくぶちかます映画という意味で俺の心の一本である全裸中年男性版『タクシードライバー』こと(誰も言ってない)『オブザーブ・アンド・レポート』とはかなり近いものを感じたがコメディであった『オブザーブ・アンド・レポート』と違ってこちら『二つの季節しかない村』は純粋なカスオッサン・ヒューマンドラマである。『オブザーブ・アンド・レポート』にあったかすかな救いや優しさの眼差しはなくとにかくオッサンがカス! こんなオッサンになりたくない! ひたすらそう思わされるハードコア・シネマなのであった。
いったいなんじゃこりゃあと思ったが監督名を見ればそれも納得、前に観たこの監督ヌリ・ビルゲ・ジェイランの『読まれなかった小説』もそういえばそんな感じで、これは自称天才小説家の卵という感じの自己評価が無駄に高すぎる村上春樹読者のフリーターかニートの二十代後半男(その設定の時点で辛辣である)が村でくすぶり続ける話だったが、『二つの季節しかない村』は俺は首都イスタンブールの大都会で活躍すべきでこんな無能だらけのクソ田舎でくすぶっているべき人材じゃないねと自分だけ思っているオッサンが主人公というわけで、嘲笑すべきカス男どもの空回りを撮る監督がヌリ・ビルゲ・ジェイランなのだ。
もっともこの映画の中で空回りしているのは主人公のオッサンだけではない。いろんな人がこの最寄りのバス停から歩いて2キロの辺境もいいところの貧村では空回っていて、都会に出稼ぎに出てはすぐに辞めて村に戻ってくるだいたい三十路の男もそうだし、アクティヴィズム思想の強い同僚の女性教師なんかもそう。だったらさっさと出て行けばいいのにと思うがトルコの教員制度では指定された田舎の学校で任期を全うしないと都会の学校とかで教鞭を執ることができないらしい(そういえば前に観た『ブータン 山の教室』という映画でも同じ制度が出てきたから地域格差の大きい国では結構ある制度っぽい感じだ)
主人公もそうだし同僚女性教師も表向きは貧しい人たちのためにと頑張っているが本音では今の学校での仕事にやりがいを感じられていない。といって都会に出ればやりがいを感じられるのかと言えばそうでもないかもしれないということが出戻り三十路のエピソードからは薄らと見える。主人公のオッサンはひたすら田舎者を見下しているわけだが都会に出たところで何がどう変わるのだろう。実は都会も田舎も生きにくさという点ではそんなに変わりはないんじゃないだろうか。
終盤の主人公と同僚女性の白熱ディベートからはエルドアン政権下のトルコでのインテリリベラルの幻滅と絶望がストレートに浮かび上がる。だいぶ意外なところでメタフィクショナルなシーンが少しだけ登場するのはそんな現実からの逃避願望を表現するためだったんじゃないだろうか。置かれた場所で咲きなさいと言った人もいるが、結局のところ自分が「本当に」輝ける場所など世の中のどこにだってありはしないのだ。今そこで輝けていない人に輝ける場所はない。そして場所そのものを変えようとしても、世の中の惰性はおそろしい力で変化を押し戻して変わらぬ光景を維持してしまう。気付けば抑圧されている側だったはずの自分も抑圧する側に回ってしまっている…。そのように考えれば、カスオッサンの愚行3時間を通して観客が目にするのは自分自身の人生の虚しさと愚かしさなのかもしれない。まぁ今自分はサイコーかつ完璧に輝けていると感じている報酬系フルオープンの人はその限りではありませんが。
まったく厭世的な映画だがそこに一筋の希望として現れるのがポスターになっている少女であった。主人公の趣味は写真撮影なので村の田舎者たちをバシャバシャ撮ってアーティストを気取っているが、その写真にたった一人だけ収まらず常に動画(活人画)として存在するのがこの村より更に貧乏な村から学校に通ってきている彼女で、どんなに理不尽な目に遭っても決してへこたれることのないこの人はさながら変化の象徴、分厚い雪の下で辛抱強く成長し続ける草花の如しである。
こんなカスみたいな世の中もいつかは変わるだろうが変えるのは自分ではないしそこで輝くのも自分ではないだろう。カスオッサンの希望なき愚行3時間と見せかけて実はこの少女に希望を託す形で前向きに映画は終わるが、それはカスオッサン自身の人生は救われないことを意味する。まぁでも、たいていの人の人生はそんなもんなんじゃなかろーか。(とくにオッサンにとっては)人生の苦味を噛み締める、フキノトウのような映画であった。